海外文学読書録

書評と感想

ヘレン・マクロイ『あなたは誰?』(1942)

★★★

ニューヨークでナイトクラブの歌手をしているフリーダは、精神科医の卵アーチーと婚約していた。フリーダはアーチーの実家に滞在する予定だったが、その前に何者かから脅迫の電話を受ける。脅迫を無視して実家に行くも、何者かに部屋を荒らされるのだった。その後、隣りの上院議員のパーティーに参加。そこで殺人事件が起きる。精神科医ベイジル・ウィリングが謎を解く。

「どうしてアーチーはあんな人を連れてきたのかしら?」ジュリアは声を上げた。「なんでこう、そっとしておけないのかしらね?」

科学的精神とはそういうものだよ、ジュリア。人間は他の動物より高等な生物だが、それは人間が猿の好奇心を拡張し、磨きをかけてきたからさ。犬は好奇心みたいな下品なものは歯牙にもかけない高貴な生き物だが、だからこそ犬はあくまで犬であって、なにかを生み出したりはしないんだよ」(pp.302-303)

僕はフロイトが嫌いなので心理学や精神分析を取り込んだミステリも嫌いである。でも、本作くらいなら牧歌的でまあいいかなと思う。たとえば、日本の新本格に比べたら蘊蓄も鼻につかない。何より本作は多重人格をテーマにした最初のミステリらしいので(ヘレン・ユースティス『水平線の男』【Amazon】が1946年)、このジャンルを体系的に読んでいる人は必読だと言える。

本作によると、副人格が人を殺しても心神喪失にはならないらしい。要は法律が現代の心理学に追いついていないのである。この点におけるウィリングとジュリアの議論はなかなか興味深い。僕はこれを読んで、エラリー・クイーン『シャム双子の秘密』【Amazon】を思い出した。同作にはシャム双生児の犯罪について言及がある。すなわち、双子の片割れが犯罪を犯した場合、どのように罰するべきかという問題だ。シャム双生児は一心同体だから、必然的に無実の片割れも罰を受けることになる。しかし、両方に罰を与えるのは正義に叶わないだろう。これも法律の穴であり、思考実験の材料として興味を引く。

アーチーの母イヴはロマンス小説作家であり、作者のオルターエゴみたいなキャラになっている。元々イヴは風刺短編の書き手だったが、それでは食っていけないのでロマンス小説を書き始めた。結果、売上は好調だったものの、書評家からはバカにされることになる。面白いのは、イヴ本人も自作の価値をよく分かっていることだ。自分が書いているのはあくまで金儲け目的の小説であって、中身は下等だと冷静に判断している。だから自作を褒めちぎってくる人間は信用しない。このようなねじれた自意識こそジャンル作家であり、我々はイヴを通してヘレン・マクロイの素顔を垣間見ている。

ウィリングがFBIでプロパガンダの分析をしているところに時代を感じる。当時は第二次世界大戦の真っ只中だったのだ。合衆国政府はナチスの"心理戦"に備え、精神科医や心理学者を招いていたようである。この戦時中というのがいいスパイスになっていて、たとえば、上院議員が政治を語る部分に大きな影響を与えている。戦時中でもわりと普通に生活できていたところがアメリカの強いところだろう。こういう国にはまず勝てない。

陽気に見えたある人物が実はゆすり屋だったり、ある人物とある人物が愛人関係にあったり、登場人物が意外な相貌を見せるところが面白い。このようなサプライズこそミステリの醍醐味である。