海外文学読書録

書評と感想

蔵原惟繕『執炎』(1964/日)

執炎

執炎

  • 浅丘ルリ子
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★★

平家部落の娘・きよの(浅丘ルリ子)と海の男・拓治(伊丹一三)が再会する。紆余曲折を経て2人は結婚するのだった。ところが、間もなく太平洋戦争が勃発。拓治の元に赤紙が来て招集されてしまう。拓治は負傷して帰ってくるが……。

原作は加茂菖子の同名小説(Amazonに書誌情報がない)。

ナレーションと劇伴が鬱陶しくていまいちだった。ナレーションは状況や心情に踏み込んでいて説明過剰に思えるし、劇伴はこちらの情動をコントロールしようという意図が透けて見えてうんざりする。浅丘ルリ子100本出演記念映画ということで気合を入れ過ぎたのではなかろうか。俳優の演技やカメラワーク、ロケーションなどは悪くなかったのに、語りの枠組みが最悪なせいで評価が下がってしまう。こういう映画は文芸大作と呼ばれるジャンルでたまに見かける。昔の日本映画の悪癖だ。

遠くを映したショットが印象的だった。たとえば、拓治に召集令状が渡されるシーン。拓治と配達員がまるで豆粒のようでかなり極端な構図である。こういうのはプログラムピクチャーではあまり見かけない。また、直後にきよのと拓治が鉄橋を走るシーンも同様だ。ここは遠距離から中距離に切り替わるところがダイナミックだった。さらにもうひとつ。雪の中をきよのと拓治が傘を差して歩くシーンがある。ここは真上から撮っているのだが、被写体との距離があまりに遠いのでミニチュアを使ったトリック撮影ではないかと疑った。実際は鉄橋から見下ろしていると思われるが、いまいち確信が持てない。どうやって撮ったのか謎だった。

屋内で拓治ら男衆が話し込んでいる。扉の外ではきよのが一人で着物を畳んでいる。この構図も良かった。映画は画面(スクリーン)が平面だから奥行きのあるショットが出てくると頭に残るのである。手前と奥でそれぞれが違った動きをしている。別々の思惑で作業をしている。それを一つのフレームに収めているだけでぐっとくる。

物語は市井の人々が戦争という大きな物語に翻弄されるというもので、あまり言うことがない。ちょっと変わっているのが、拓治が脚を負傷したとき医者が切断を勧めたのに、きよのが頑なに拒否したことだろう。きよのは拓治が片輪になるのを容認できなかった。そうなるくらいなら死んだほうがマシだと思っていた。結果的には切断しなくても無事回復したが、しかしそれゆえにまた招集されてしまう。無惨にも拓治は戦死するのだった。もし片輪になっていたら死ぬことはなかったはずで、回復したのが裏目に出たわけだ。戦争という大きな物語の前では個人はまったくの無力。生きるか死ぬかはほとんど運ゲーになってしまう。だかこそ純愛が映えるわけで、大きな物語がロマン主義に利用されているところが目を引いた。

主演の浅丘ルリ子は男優の添え物でいるのが嫌だったそうだが、正直、僕は添え物だった頃のほうがチャーミングで好きだ。小林旭と組んでいたときも良ければ、石原裕次郎と組んでいたときも良い。本作の浅丘はあまり好みではなかった。

ジェームズ・ガン『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』(2021/米)

★★

アメリカ政府が犯罪者によって構成された特殊部隊スーサイド・スクワッドを南米の島国に派遣する。メンバーはハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)、ブラッドスポート(イドリス・エルバ)、ラットキャッチャー2(ダニエラ・メルシオール)、ピースメイカー(ジョン・シナ)、ポルカドットマン(デヴィッド・ダストマルチャン)、キング・シャーク(スティーヴ・エイジー)、リック・フラッグ大佐(ジョエル・キナマン)など。彼らの任務はスターフィッシュ計画の研究所を破壊することだった。

根本的に日本の漫画原作映画と大差ないような気がした。こちらのほうがちょっとばかり金がかかっているだけ。本作はデジタル技術をふんだんに使用しているが、確かにニチアサの特撮ドラマよりは映像がリッチであるものの、一般映画に比べるとリッチではない。全体的に嘘臭くていまいち没入することができなかった。押井守も言っていたが、デジタル技術を使いまくると映画はアニメと変わらなくなる。本作の嘘臭さはそこに由来する。今どき生身の人間を起用しているのは安く済ませるためだろう。50年後のヒーロー映画は全編フルCGアニメーションになってそうな気がする。

R指定にしてまでグロ描写を入れまくったのは『ザ・ボーイズ』の影響ではないか(『ザ・ボーイズ』は2019年公開)。表現が悪趣味でそれがギャグになっているところが共通している。こういうのはデジタル技術の正しい使い方だ。逆に怪獣映画のオマージュみたいなのは興醒めだった。「カイジュウ」という日本語はアメリカでも通用するらしく、ある人物がその言葉を発している。ただし、「カイジュウ」と戦うのは巨大化したヒーローではない。生身の人間(そうじゃないのもいるが)である。クライマックスに巨大生物を持ってくるのはいいとしても、無駄にスペクタクル感を出しているところが好みではなかった。

南米の反米国家を敵にするところは古典的だと思ったが、そこはちゃんとどんでん返しがあったので安心した。ここで興味深いのはアメリカの立ち位置だ。アメリカが外国で非人道的な実験に関与していた。ヒーローものだとアメリカは守るべき大切な故郷だが、本作ではそれが「悪」として真の姿を表すのである。これってシナリオとしてはわりと巧妙で、敵を外国に求めないのだからよくできている。つまり、敵はロシアでもなければイスラム国家でもないし、中国や北朝鮮でもない。言ってみれば己自身である。外国を敵にしないところは弁えている感じがして好ましかった。

冒頭の戦闘シーンが捨て石みたいな扱いだったり、殺した連中が実は味方の反政府軍だったり、予想を裏切る展開をぶっ込んできたところは現代的だった。イタチ人間ウィーゼルの扱いも人を食っている。本作は過激なグロ描写を含め、ところどころ悪趣味なところがセールスポイントだろう。こういうのは正統的なヒーローものだとやりづらいが、ヴィランを主人公にした映画なら違和感がない。まさに『ザ・ボーイズ』の類縁みたいな映画だった。

本作には色々な能力を持ったヴィランが出てくる。ところが、誰も彼もハーレイ・クインに及ばない。ハーレイ・クインは赤いドレスを着てのアクションが様になっていてやはり格が違っていた。たった2時間で多数のキャラを立たせるのは難しいと痛感する。

大島渚『無理心中 日本の夏』(1967/日)

★★★

18歳の淫乱娘・ネジ子(桜井啓子)が、誰かに殺されたいと願うオトコ(佐藤慶)と出会う。2人はライフルを掘り出す現場を目撃したため拉致されることに。倉庫らしき場所に連れてこられた2人は、人を撃ちたがっている少年(田村正和)、拳銃を所持しているおもちゃ(殿山泰司)、刃物で人を刺すのが趣味の鬼(小松方正)らと出会う。一方、外では白人のライフル魔が人を殺しまくっていた。

屋内のシーンが多いうえに登場人物の性格がきっちり決まっていて、どこか演劇っぽい雰囲気がある。大島渚が観念的と評される所以だろう。登場人物はあくまで状況を作る記号でしかない。みんな役割分担がはっきりとしている。必要に応じて集団から人を間引いていくところはすこぶる機械的だ。各シーンにはそれぞれ最適な人数というのがあり、ちゃんとシーンに頭数を合わせている。こういうところは脚本の妙味のような気がした。快適な画面を作るノウハウが蓄積されている。

アナーキストによる暴力は通り魔と同じでただ破壊衝動に従っているだけに見える。武器が使えるなら敵は誰でもいい。それは一時的に秩序を乱すだけで革命とは程遠い。日本における運動とはこの程度のものである。面白いのは男たちがみんな不能であるところで、彼らは誰一人としてネジ子を抱くことができない。また、拳銃やライフルを手に入れても銃弾の発射はしばしば延期される。アナーキストとは生(=性でもある)から阻害された不健康な存在なのだ。最近では社会に適応できない若者がファシストを自称する中年男性の元で合宿しているが、当時運動の主体になっていたのはそういう若者である。彼らはこの社会に居場所がない。だから運動に身を投じることで居場所を見つけている。社会的に不能な人たちが今ある社会を壊そうとするのは理に適っているし、彼らに同情しないでもない。ただ、「無敵の人」となって通り魔的殺人をするのは勘弁してほしい。巻き込まれるのは嫌なので。小市民的な態度で申し訳ないが、社会的に不能な人はギャルゲーで抜いて平和に滅びていくべきだ。革命を夢見るのはやめてほしいものである。

本作は冒頭が振るっている。ネジ子が脱いだ下着を橋から川に投げ捨てる。すると川には泳いでいる男がいた。男の後ろから日の丸を持った男たちが泳いでいく。さらに、その後は橋の上を日の丸を掲げた楽隊が行進してくる。後ろには学ランを来た若者たちがおり、続いてプロ市民っぽいおじさん・おばさんがついてきている。彼らの目的は分からない。ネジ子の脇を意味不明な政治が通り過ぎて行く。ネジ子は男とセックスすることしか頭にないから彼らに巻き込まれることもなく、ただすれ違うのみ。それは運動家と一般人のすれ違いを示唆しているように見えた。

24歳の田村正和が重要な役どころで出演している。彼のことは『古畑任三郎』でしか見たことがなかったから新鮮だった。顔も声もいまいち面影がなく、俳優としても印象が薄い。ここから古畑任三郎に成熟していったのが信じられないくらいだ。おそらくは相当な研鑽を積んだはずで、歳を取るのも案外悪くないと思う。

セルジオ・レオーネ『夕陽のギャングたち』(1971/伊=スペイン=米)

夕陽のギャングたち

夕陽のギャングたち

  • ロッド・スタイガー
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★★★★

20世紀初頭。メキシコ革命。山賊の頭目ファン・ミランダ(ロッド・スタイガー)がIRAの元闘士ジョン・マロリー(ジェームズ・コバーン)と出会う。ジョンは爆発物のエキスパートだった。その能力に目をつけたファンは一味に加わって銀行強盗をするよう誘う。ところが、ジョンは首を縦に振らない。やがて2人はメキシコ革命に身を投じていく。

マカロニ・ウェスタンとアメリカン・ニューシネマの幸福な結婚といった感じ。『明日に向って撃て!』が1969年なので当時はそういう時代だったのだろう。個人的には『明日に向って撃て!』のほうが好きだが、本作は本作でワイルドな魅力がある。やはりマカロニ・ウェスタンは暴力性が高いところがポイントだ。そして、男の友情というのはホモセクシャルに限りなく接近するが、それでもなおアリバイ作りのためにヒロインを出さないところが潔かった。本作のヒロインはジョンの回想にしか出てこない。男2人が剣呑な出会いから信頼を深めていくところが良かった。こういうのはクリシェと分かっていてもぐっときてしまう。内に眠る素朴な感情を刺激されるというか。追い詰められた2人がアメリカを夢見るところが不可避的な悲劇を予感させてせつない。

冒頭でファンが馬車強盗をするシーンがすごい。当初は貧民を装ってブルジョワ客と同乗するのだが、そこで極端なクローズアップを連発していて強迫的である。ブルジョワたちのグロテスクな精神性を偏執的なショットで表現しているのだ。こいつらは貧民をバカにしている。自分たちが支配者であり、すべてにおいて優越していると信じ切っている。馬車の中でファンはブルジョワたちから散々侮辱されるが、だからこそ直後のどんでん返しが心地いい。それまでの秩序を暴力によって一変させてしまうのだ。おそらくこの強盗シーンは革命の隠喩なのだろう。革命の原点はいけ好かない奴を暴力で分からせることである。平和な社会に暮らす我々は日常で暴力を抑制しているからこそ、フィクションで暴力が解放されるところに興奮する。背徳的なカタルシスを味わっている。

マカロニ・ウェスタンと言えばやはりダイナマイトだろう。本作はジョンが爆発物のエキスパートで、爆発シーンが惜しみなく出てくる。IRAの元闘士という出自は珍しいが、基本的に彼の人物造形はジャンルのニーズに合わせている。当時の爆発シーンはガチで爆発させているからいい。一発勝負の緊張感みたいなものがある。また、機関銃で敵をなぎ倒していくシーンも爽快だ。拳銃による抜き撃ち勝負が西部劇の美学だとすれば、近代兵器による大量殺戮がマカロニ・ウェスタンの美学である(『続・荒野の用心棒』を見よ!)。本作は戦争映画と見紛うほどの悲惨な暴力描写に圧倒される。

エンニオ・モリコーネの劇伴はとにかく癖が強い。ションションションと歌の入った劇伴は強烈なインパクトだし、モーツァルトを引用した劇伴も記憶に残っている。ここまで主張の強い劇伴もなかなか珍しいのではなかろうか。マカロニ・ウェスタンは劇伴をサブテキストとして大々的に使うからびっくりする。

小津安二郎『秋刀魚の味』(1962/日)

★★★★

会社重役の平山周平(笠智衆)には婚期を迎えた娘・路子(岩下志麻)がいる。周平は妻に先立たれたため、娘を便利に使っていた。周平は恩師の佐久間(東野英治郎)を交えて同窓会をし、その帰りに佐久間が中年の娘(杉村春子)を独身にしたまま手元に置いているのを目撃する。周平は路子に結婚を勧めるのだった。

小津安二郎の遺作である。

物語はいつもの結婚話だが、話を拙速に進めず、群像劇風に周辺人物を掘り下げている。おかげでゆったりした雰囲気になっていた。むしろ、結婚話は刺身のツマではないかと思える。おそらく結婚話を言い訳にして親子二世代をワイドスクリーンで捉えたかったのではないか。明治生まれと昭和生まれでは価値観が違うし、生き様も違う。本作は60年代にしては古臭い内容だが、それは明治生まれの視点で昭和中期を捉えているからだろう。当時はまだ恋愛結婚より見合い結婚のほうが多かった。しかし、3年後には逆転してしまう。言ってみれば結婚制度の過渡期だ。果たして小津が長生きしていたら恋愛結婚が当たり前の映画も撮ったのだろうか(『彼岸花』は最終的に恋愛結婚をするが、見合い話は出てくる)。現代のように自由恋愛が主流の時代だとこの作風はきつそうである。長生きすると価値観をアップデートしないといけないから大変だ。

恩師の佐久間が惨めな人物として描かれているのが気になった。40年前は旧制中学で周平たちのことを教えていた。ところが、現在は娘と2人で小さなラーメン屋を営んでいる。どうやら経済的に芳しくないらしい。そのせいか教え子たちに対して卑屈になっている。現在では教え子たちのほうが社会的地位が高かった。こういう再会はお互い悲しくなるからやはり同窓会には行かないほうがいいと警戒してしまう。恩師にはいつまでも威厳を保っていてもらいたい。老いぼれて惨めになった姿は見たくない。本作はユーモアとペーソスの同居した映画だが、佐久間のエピソードはペーソスに溢れている。

周平と旧友たちのやりとりはユーモラスで微笑ましい。河合(中村伸郎)は路子の上司でもあるからしきりに縁談をもちかけてくるし、堀江(北竜二)は若い後妻(環三千世)を得たことから何かとからかわれている。面白いのは堀江をネタにしたからかいが後になって周平に返ってくるところだ。見合い話は流れていたのか、と思わせておいて実は流れていなかったのである。こういうifルートを覗かせる展開はなかなか人を食っている。僕も見ていてすっかり騙された。

周平には長男・幸一(佐田啓二)がいる。幸一には秋子(岡田茉莉子)という配偶者がおり、2人で団地に住んでいる。この夫婦が新世代の夫婦といった感じで微笑ましい。秋子のほうが活発で、幸一は彼女の尻に敷かれているのだ。特にゴルフクラブを巡るやりとりが面白い。これが親の世代だったら幸一も家父長的な鷹揚さで秋子を包み込んだはずだが、若い世代にそんな余裕はない。戦後から20年近く経って女性の力は確実に強くなっている。夫婦の新しい形を示していて素晴らしかった。

周平が戦時中の部下(加東大介)と偶然再会する。そこでもし日本が戦争に勝っていたらという話をするのだが、勝っていたら民主主義の時代は訪れなかったので負けて良かったと思う。天皇を神と崇める国家なんてぞっとする。また、敗戦のおかげで経済大国にもなれたが、この辺は米ソ冷戦に上手く助けられた。日本はとても運がいい。