海外文学読書録

書評と感想

大島渚『青春残酷物語』(1960/日)

★★★

不良少女の真琴(桑野みゆき)が中年男にホテルに連れ込まれそうになる。そこを大学生の清(川津祐介)が助ける。それをきっかけにして真琴と清はいい仲になる。清は真琴を使って美人局をすることに。同時に真琴の妊娠が発覚する。

松竹ヌーヴェルヴァーグの嚆矢となった映画である。

60年安保闘争を背景にしているところが目を引いた。また、韓国の四月革命も引用されている。当時は世界的に政治の季節だったわけだ。若者は青春の怒りを政治にぶつけていたのである。ところが、彼らの運動も完膚なきまでに叩き潰された。こと日本において市民運動が成功した試しはない。日本の市民運動は社会を変革しなかったし、それどころか後世の人間からバカにされることになった。現代人がデモに冷淡なのも1960年代末の学生運動の敗北が大きい。当時の若者は政治にかこつけて憂さ晴らしをしていただけであり、思春期の子供が大人に反抗するように社会に反抗していたのだ。そのことを我々は見透かしている。現代の日本人が権力に従順なのは先人の失敗が原因だ。反抗しても敗北するだけだし、そもそも反抗そのものが格好悪い。先人が負けたせいで我々はそういう意識を植え付けられている。そしてすっかり去勢された現代人は、ゲームやアニメといった安いカルチャーで日々の鬱憤を晴らしている。60年代に若者だった世代は罪深い。後世の若者は運動の興奮を味わえぬまま社会に送り出されることになった。

真琴には姉の由紀(久我美子)がおり、彼女は医者の秋本(渡辺文雄)と同期である。2人は見た感じ真琴より10歳ほど年長のようだ。面白いのは世代間格差が顕在化しているところで、由紀が若かった頃は自由がなく青春を燃やせなかった。それに対し、真琴は自由を謳歌している。むしろ、謳歌しすぎて犯罪行為に手を染めているくらいだ。由紀はそんな真琴を苦々しく思っている。また、秋本もかつて学生運動に敗北しており、自分たちのツケを若い世代が払っていることに引け目を感じている。由紀も秋本も時代の敗者だった。若者の力ではどうあがいても社会を変えることはできない。この世に生まれたら最後、時代の制約の中でひっそり生きることを余儀なくされる。大人になるとはそのことを悟ることである。だとしたら大人になるのはとても寂しいことだ。敗北を抱きしめながら生きていくのだから。由紀と秋本の姿にはどことなく哀愁が漂っている。

本作は青春映画に分類できるが、さわやかな青春ではなくひりついた青春を描いている。これが60年代ではリアルだったのだろう。当時の若者は世の中に自分の不満を、若いエネルギーをぶつけていた。現代人からするとちょっと信じられない時代である。現代の若者がそんなことをしたら半グレ扱いで社会からオミットされるのは確実だ。今やゲームやアニメで現実逃避するしかない。日本も一億総オタク時代になって久しいが、その背景には世の中に対する学習性無力感がある。社会を変えようとしても絶対に変えられない。だったら大人しく順応してエンターテイメントに興じるだけだ。我々はこうやって政治に無関心になってしまった。これが成熟した民主主義社会だとしたらちょっと寂しいものがある。

小津安二郎『早春』(1956/日)

早春

早春

  • 淡島千景
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★★★

サラリーマンの正二(池部良)は妻・昌子(淡島千景)と二人暮らし。蒲田から丸ビルに電車通勤している。彼は通勤仲間の千代(岸惠子)に迫られ浮気をするのだった。正二は大勢の通勤仲間と遊んだり、戦友と同窓会をしたりする。そんななか、三石(岡山県)への転勤話が舞い込んできて……。

小津安二郎にしてはモダンな内容で丸の内のサラリーマン生活を描いている。しかも、丸ビルに本社を構えるくらいの大企業だ。大卒のエリートサラリーマンがどういう生活を送っていたのかを活写している。彼らは現代人から見ると異様に親密で、休日にはハイキングに出かけたり、団地の一室に集まって麻雀をしたりしている。メンバーは男女混合で清い交際といった趣だ。もちろん飲みニケーションも欠かさない。戦後のサラリーマンはこのように濃い人間関係に明け暮れていたのだ。現代のサラリーマンはプライベートの時間に同僚と遊んだりしないだろう。最近は飲み会を嫌がる若手も多いと聞く。翻って本作では通勤仲間がイコール友達になっていて、なるほどこういう関係からカップルがポコポコ生まれていたのかと得心した。彼らの大半はおそらく地方出身で地縁も血縁もない。だから身を寄せ合う必要がある。仲間との繋がりが都会の孤独を紛らわせるセーフティネットとして機能しているのだ。現代人からすると羨ましい反面、濃密すぎて煩わしいところもある。

浮気に関しては「女は三界に家なし」を体現していてなかなかきつい。夫の浮気は最終的に許してこそ妻の甲斐性なのだ。夫婦は色々なことがあって段々と本当の夫婦になっていく。夫の浮気も絆を深める試練に過ぎない。この時代の男女は表面的には対等に見えるが、深層の部分ではまだまだ男性優位だ。男は離婚しても経済的に自立できるが、女のほうはそうもいかない。男に依存しないとまともな生活が送れないから多少のやんちゃは目を瞑るしかないのである。もし浮気をしたのが妻だったらどうなっただろう。即三行半を突きつけられて貧乏暮らしまっしぐらだったはずだ。そう考えると、正二の立場はなかなかずるい。メンヘラ女と化した千代を捨て、元サヤに収まって感動的な再出発を誓っているのだから。女の側に実質的な選択権がないところに時代を感じる。

この時代の子供は欲しくて授かるものではなく、避妊に失敗して仕方なく産むものだったようだ。育てているうちに愛情が芽生えてくるという。だから当時はあんなに子沢山だったのだ。現代人と違って特に経済的な心配はしていない。あるおばさんは「子供がいないと寂しいわよ」と子無し女にアドバイスしている。ここで表現されているのは徹頭徹尾親のエゴだ。子供がどういう思いをして生きていくのか、その苦境を想像せず、ただ自分たちのために子供を産み育てようとしている。だからウミガメのようにほいほい出産できたわけで、現代人との意識の違いが如実に表れている。

序盤。会社の廊下を映すシーンでカメラがゆっくりとズームしている。いつもだったら動かさないのになぜズームしたのだろう? 珍しかったので記憶に残っている。

大島渚『愛と希望の街』(1959/日)

愛と希望の街

★★★★

少年・正夫(藤川弘志)が靴磨きの女たちに混ざって鳩を売っている。それを会社重役の娘・京子(冨永ユキ)が買い取る。ところが、それは鳩の帰巣本能を利用した詐欺だった。正夫には病気の母(望月優子)と自閉症の妹(伊藤道子)がおり、一家は生活保護で暮らしている。一方、京子には兄・勇次(渡辺文雄)がいて……。

貧富の差を題材にしたネオレアリズモっぽい内容だった。わりとまっとうな劇映画で驚いたが、そもそもヌーヴェルヴァーグはネオレアリズモから影響を受けているので、キャリアの初期にこういう映画を撮るのも必然なのだろう。方や高度経済成長から取り残された貧困層。方や高度経済成長の波に乗った富裕層。両者は立場の違いゆえに違った生き方を余儀なくされる。そして、こういった現実を目の当たりにした善人が貧困層に同情した結果、共産主義が世界を席巻することになった。みんな悪気があるわけじゃないのにいまいち歯車が噛み合わない。この世界は誰もが幸せになるようにはできていないのだ。まったく人間社会の複雑さとは恐ろしいものである。

物を見るとき自分がどの立場に立っているのかは重要だ。たとえば、金持ちと貧乏人は分かり合えない。健常者と障害者も分かり合えないし、弱者男性とフェミニストも同様だ。立場によって見ているもの・触れているものが違うから自ずと価値観が違っていくのである。両者が分かり合うために必要なのはエンパシーだ。リチャード・ローティもブレイディみかこも共感することの大切さを説いている。しかし、それも『反共感論』【Amazon】によって一蹴された。本当に手を差し伸べるべき相手は共感の外側にいる。正夫とその家族は我々にとって共感しやすい相手だ。正夫は折り目正しい少年だし、家族も別に悪党というわけじゃないから。この人たちならぜひ助けたいと思うが、しかしそれでは駄目なのである。本当に助けるべきなのは汚くて醜くて誰も同情しないような相手なのだ。戦争は女の顔をしていないように、弱者は善人の顔をしていない。我々が本作を見て感じているエモーションは、気まぐれな物見遊山による感動ポルノでしかないのだ。目の前にいるのは同情しやすいように整形された貧困層。こういうフィクションを見るたびに自分の感情の行き場を見失って困ってしまう。

正夫と母が互いに利他的なのがつらかった。正夫は親孝行するために進学せず就職したい。一方、母は正夫を高校に進学させたい。善意と善意がコンフリクトを起こしている。こういう場合、正夫のほうが母に甘えて進学するのが筋なのだが、彼は母を助けたいという一念に取り憑かれている。だから鳩を使った詐欺までしていた。正夫は中学生とは思えないほどよくできた孝行息子だが、それゆえに最善の選択ができない。そこが見ていて歯痒いのである。

貧困層と富裕層がすれ違うのはどうしようもない。両者は立場が違うのだから。本作はそのメカニズムを的確に示したところが良かった。

木下恵介『カルメン故郷に帰る』(1951/日)

★★

浅間山山麓の村。東京に出ていた娘・おきん(高峰秀子)が友達(小林トシ子)を連れて故郷に帰ってくる。おきんはストリッパーになっていてリリィ・カルメンと名乗っていた。彼女は自分のことを芸術家だと思っている。校長先生(笠智衆)は当初おきんの理解者だったが……。

思ったよりもぬるい映画だった。カラーであること意外どこがいいのか分からない。特にドラマらしいドラマがなく、中身がスカスカなのが気になる。しかも、そのスカスカな部分を歌や踊りで誤魔化しているのだからたちが悪い。大自然にけばけばしいストリッパーという色味の良さは認めるにしても、国産カラーフィルムお披露目以上の価値は認められなかった。

ストリップを芸術と呼んでいるところがギャグになっているが、現代人にとっては普通に芸術なのでギャップがある。表現の自由が重んじられる現代においては、ヌード写真もポルノ映画も芸術だ。当然、ストリップも立派な芸術である。その地位はバレエやミュージカルと大して変わらない。だからおきんの芸術家自認を現代人が笑うのは難しい。戦後間もない時期の価値観を知れたのは有意義だが、自意識と社会規範のギャップを突いたコメディとしてはもはや鑑賞の価値がなくなっている。これが古典の宿命なのだろう。とはいえ、現代人が無理やり面白がる義理もないわけで、これを今更見てどうするのだと途方に暮れた。

終盤のストリップが見せ場になっている。ここは裸を見せないので消化不良だ。脚は惜しみなく見せているし、不格好なズロースも見せている。しかし、おっぱいは見せないし、すべての場面で服を着ていて露出度は控えめである。これが当時の限界だったのだ。戦後6年では公然とエロを扱うことはできなかった。だったらストリップを題材にしなければいいと思うが、戦後民主主義がもたらした自由を表現するためにストリップを持ち出すのには意味がある。ただ、本作は時代の制約もあって倫理的に自由になりきれてない。ここは見ていて歯痒いところで、町中にポルノ表現が溢れている現代がいかに恵まれているのかを実感する。抑圧された市民にとって表現の自由ほど大切なものはない。戦後民主主義の擁護者として、我々はポルノを規制しようとする勢力と断固戦う義務がある。

面白かったシーンは、おきんと友達が舞台でストリップを披露するシーン。2人が激しく踊ると舞台の羽目板が揺れ、それに合わせて楽隊の演奏が乱れる。これがいかにも素人舞台という感じで微笑ましかった。田舎だからちゃんとした舞台ではないのである。また、2人が目まぐるしく衣装を替えるところはカラーの特色を生かしていて良かった。赤やピンクといった派手な色もいいが、白い衣装も画面に映えている。大自然にけばけばしいストリッパーという色味の良さは認めるしかない。

運動会のシーンでは子供が50人くらいいた。浅間山山麓の鄙びた田舎でこれである。現代だったら子供は5人しかいないだろう。時代のギャップをもっとも感じたのがここだった。

小津安二郎『東京暮色』(1957/日)

東京暮色

東京暮色

  • 原節子
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★★★

東京。銀行の重役・杉山周吉(笠智衆)には長女・孝子(原節子)と次女・明子(有馬稲子)がいる。長女は結婚していたが夫と折り合いが悪く、2歳の子供を連れて実家に身を寄せていた。一方、明子は不良グループと付き合いがあり、その中の一人と交際して子供を妊娠している。妊娠の事実は誰にも明かしていない。どうやら雀荘の女主人・喜久子(山田五十鈴)が幼い頃に自分を捨てた母かもしれず……。

片親全否定映画で迫力があった。小津安二郎って思ったよりも保守的だ。不良グループもどこか牧歌的で、とても太陽族が流行っていた時代とは思えない。そして、杉山家はプチブルのわりに貧乏臭い。もしかしてこれ、当時の水準でも時代遅れだったのではなかろうか。本作を見ると、同時代の日活が極めてモダンだったことが分かる。たとえば、石原裕次郎が出ている映画(『勝利者』『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』)はこんなに貧乏臭くない。戦後民主主義がはち切れんばかりである。小津の描いた日本は当時の実態だったのか、あるいは作家性による誇張なのか。どう判断していいのか分からない。

父と母が揃ってこそ子供が健全に育つ、という家族観は理解できないでもない。自分の実体験からもそれは頷ける。でも、片親だから子供がまともに育たないこともないはずで、要は愛情よりも経済力の問題ではなかろうか。片親家庭は経済的に苦しい。経済的に苦しいと子供は不良になりがちである。とはいえ、周吉は銀行の重役を務めるだけあってプチブルだ。経済力に問題はない。となると、欠けているのは母親の愛情だ。長女の孝子は特にその影響はないが、次女の明子は愛の欠如が原因で非行に走っている。母は明子が3歳のときに不倫相手と出奔した。明子は母の顔を覚えてない。それを成人した現在まで引き摺っている。妊娠して精神が不安定になり、長らく姿を消していた母が目の前に現れた。そのダブルパンチが明子を揺さぶったのは想像に難くない。明子を孕ませた恋人も責任感がなく、今後のことを考えたら絶望的である。こういうのを見ると射精責任の重大さに気づいて身につまされるが、ともあれ、明子は悩みを一人で抱えて行き詰まっている。中絶は心情的に避けたいし、出産してもシングルマザーで育てることは確定だ。子供は自分と同じ片親家庭の子供になる。杉山家には片親の呪いがかけられているのだ。明子が袋小路に追い詰められる様子は見ていてきつかった。

この手のフィクションにしては珍しく母と和解しないところが目を引いた。母が弔問のために花を持って杉山家を訪れる。応対した孝子は正座をして険しい表情である(原節子がこんな表情をするとは驚きだ)。母が歩み寄ってくるのを許さない。その表情から読み取れるのは断固とした拒絶の意思である。その後、母は東京から離れるべく現在の亭主(中村伸郎)と列車に乗る。孝子が見送りに来るかもしれないと気もそぞろだ。ところが、孝子は姿を現さない。母と孝子は和解しないまままた離れてしまう。本作は人生の苦味を感じさせる作風になっていて意外だった。

小津安二郎の映画は久々に見たが、やはり撮影が独特だった。とにかくカメラを動かさない。ショットは頻繁に切り替えるものの、どのショットも固定カメラである。人物を追ってパンしたりしないのだ。その代わり、会話のシーンは切り返しがやたらと多い。これが小津の美学なのだろうが、僕は見ていて息苦しさを感じてしまう。整然としすぎているのも考えものだと思った。