海外文学読書録

書評と感想

片山慎三『岬の兄妹』(2019/日)

岬の兄妹

岬の兄妹

  • 松浦祐也
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★★★

港町。跛の良夫(松浦祐也)と自閉症の真理子(和田光沙)は兄妹。2人はボロ屋で貧乏暮らしをしていた。ある日、良夫は造船所をリストラされてしまう。金に困って友人の肇(北山雅康)に頼るも、根本的な解決にならない。生活のため、良夫は真理子に売春させる。

底辺の生活を活写しながら、生存の厳しさを突きつけてくる映画である。売春については、通常だったらヒモと彼女の関係になるところを、実の兄妹に置き換えているところがポイントだろう。兄が妹に売春させる絵面はインパクトが大きい。しかも、妹は自閉症で善悪の区別がついておらず、傍から見ると幸せそうにしている。良夫は当初、自分のみじめさに打ちひしがれていた。ところが、金が入って生活が向上してからは開き直り、言動がどんどんクズになっていく。

我々は多かれ少なかれ生存のために尊厳を売り渡している。大半の人は上司に媚びを売り、顧客に頭を下げ、意に沿わない感情労働に明け暮れている。「普通の人」ですらこうなのだから、貧困層はもっと大変だ。良夫と真理子は障害者だから、労働者としての価値が極めて低かった。彼らが持っているもので一番価値の高いものが、真理子の女性器だったのである。売れるものが他にないのだからそれを売るしかない。生存のためならクズにもなれる。これぞ人間の人間たる所以だろう。自分も落ちぶれたらこうなっていたかもしれない。良夫と真理子は我々のあり得たかもしれない姿である。

貧困層にとって売春はカンフル剤だ。滞納していた電気代は払えるし、ファストフードのメニューも食べ放題、どん底の生活に光が灯った。だから良夫も味を占めて本業にしてしまう。しかし、売春は長期にわたってできる仕事ではない。ケツモチが跛だから暴力の危険と隣り合わせだし、真理子は自閉症で避妊の仕方を知らないから妊娠のリスクを背負っている。実際、真理子は妊娠してしまうわけで、そういった計画性のなさがいかにも貧困層だ。まったくもって救いようがない。

良夫が他責的なところも注目すべきだろう。彼は売春を注意してきた友人のことを偽善者呼ばわりしているし、自分がこうなったのもリストラされたせいだと思っている。良夫は自分勝手なのだろうか? 僕はそう思わない。不幸な人間は得てして余裕がなく、やり場のない怒りは他者にぶつけるしかないのである。自分で自分を責めたらみじめすぎて自殺するしかなくなる。良夫の他責性は自己防衛の表れであり、極めて人間的な反応だと言える。

良夫にとって楽しい夢が、童心に帰って遊園地で遊ぶことなのが悲しい。彼の不幸は大人になって自立を強要されていることが原因なのだ。できることなら親の庇護下に置かれ、お金の心配がなかった子供時代に戻りたい。大人になったら問答無用で自己責任の世界に放り出されるわけで、生存とは何て残酷なのだろうと思った。

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『犯罪河岸』(1947/仏)

犯罪河岸(字幕版)

犯罪河岸(字幕版)

  • ベルナール・ブリエ
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★★★

舞台歌手のジェニー(シュジ・ドレール)は、夫でピアノ奏者のモーリス(ベルナール・ブリエ)と同じ職場で働いていた。夫妻の知人に写真家のドラ(シモーヌ・ルナン)がいる。ある日、ジェニーは金持ちブリニヨン(シャルル・デュラン)に見初められ、後援を申し出られる。嫉妬深いモーリスはそれに激怒するも、ジェニーはブリニヨンの家に行くことに。モーリスが密会の現場に乗り込むと、そこにはブリニヨンの死体が転がっていた。アントワン警部(ルイ・ジューヴェ)が捜査する。

原作はS・A・ステーマンの"Légitime Défense"(未訳)。

倒叙ミステリのような構成を逆手にとったプロットで感心した。犯罪映画ではあるけれど、並の犯罪映画ではない。プロットについては原作付きの強みが出ている。

モーリスの嫉妬深さが常軌を逸していて、ピストルを持ってブリニヨンの家に乗り込むのだから狂っている。供述によると、本気で殺すつもりだったらしい。しかし、実際は殺していなかった。現場に行ったら既にブリニヨンの死体が転がっていたのだ。とはいえ、この状況は極めてまずい。警察に正直に話したところで信じてもらえないだろう。だからモーリスは困った立場になった。最悪なのは、モーリスが付近に止めていた車を盗まれたことだ。これが大きな懸念材料になっている。事件を複雑にしてるのがモーリスの存在で、このまま犯罪者に仕立てられるかもしれないというスリルがある。

ジェニーとモーリスのディスコミュニケーションぶりにも注目すべきだろう。ジェニーはモーリスが現場に来る前、ブリニヨンをシャンパンの瓶で殴って昏倒させた。しかし、そのことをモーリスには隠している。一方、モーリスも自分がブリニヨンの死体を発見したことをジェニーに隠していた。2人はそれぞれ共通の知人であるドラに打ち明けている。この奇妙な三角関係がまた事件を拗らせていて、警察を真相から遠ざけることになる。

事件を通してジェニーとモーリスの仲が改善されるところもポイントだ。それまで2人は何かと口論していたけれど、ジェニーはモーリスの境遇に心を痛め、愛を確かめ合うことになる。折しも世間はクリスマスで沸き立っていた。そう、本作はクリスマス・ストーリーなのだ。世間の祝祭的な雰囲気とは裏腹に、ジェニーとモーリスは警察に追い詰められている。モーリスに至っては取調室で冬の寒さに凍えていた。こういった対照の妙も後の布石になっていて、事件にクリスマスを絡めたことである種の味わいが出ている。

ジェニーによると、労働者階級は警察が嫌いなのだという。強権的な態度が反感を買っているようだ。一方、警察には警察の言い分があって、自分たちは殉職の危険があるうえ、市民たちは都合のいいときだけ頼ってくるとぼやいている。こういった市民と警察のすれ違いは現代まで続いているわけで、いつまでも変わらない普遍的な問題なのだと実感した。

アイザック・バシェヴィス・シンガー『不浄の血 アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選』

★★★

日本オリジナル編集の短編集。「バビロンの男」、「スピノザ学者」、「ギンプルのてんねん」、「ちびの靴屋」、「鏡(ある悪魔の独白)」、「ありがたい助言」、「呼び戻された男」、「黒い結婚」、「ちびにでかいの」、「断食」、「ティショフツェの物語」、「不浄の血」、「屠殺人」、「炉辺の物語」、「ハンカ」、「おいらくの恋」の16編。

この世なんて幻の世界にすぎないけれど、それは真実の世界と紙一重だ。おいらが寝泊まりさせてもらっている救貧院の玄関先には、遺体をのせる担架が置いてあって、墓掘り男は首を長くして待っている。いつでもおいでってわけだ。ミミズは腹をすかせているし、経帷子はちゃんと肩かけ鞄に容易してある。おいらがいなくなったら藁布団を譲り受けようって意気ごんでいる物乞いもいる。お呼びがかかたら、どっちにしても、意気揚々と行かせてもらおうと思う。向こうの世界がどんなでも、すべてはまっとうで、ややこしいことも、からかわれることも、だまされることもないだろう。そこはやっぱり神様だし、いくらギャンブルといえども、バカあつかいされることはあるまい。(pp.60-61)

以下、各短編について。

「バビロンの男」。バビロンの男がファルク・ヘイフェツ氏の屋敷に厄落としに行く。バビロンの男には昔から不思議な力があって人々を癒してきた。現代において預言者みたいな能力を持った人間は、地域社会の便利屋みたいな扱いを受けてしまう。そんな彼にとっては安らかな死こそが解放なのだ。信仰の世界を突き詰めるとマジックリアリズムに接近する(『キリスト最後のこころみ』が典型例だろう)。その図式が面白い。

スピノザ学者」。フィシュルゾン博士はスピノザを敬愛し、年老いた現在も『エチカ』【Amazon】を研究していた。彼は独り身を貫いていたが、ある日一人の女性が現れる。フィシュルゾン博士はスピノザと同じく、情動(アフェクト)よりも理性(フェルヌンフト)に重きを置いて生きていた。ところが、晩年になってそれが崩れてしまう。理性に対する情動の勝利。男を転向させるには女を仕向ければいいということだろうか。

「ギンプルのてんねん」。ギンプルは愚者として周囲からバカにされていた。そんな彼も遂に結婚。ところが、妻は私生児を産むのだった。ギンプルの語り口が魅力的で引き込まれる。その騙されやすい性格は知的ボーダーっぽいものの、語りそのものは正常だ。そして、地域社会に溶け込んだ愚者は、蔑まされていると同時に愛されてもいる。ギンプルはなかなか酷い目に遭っているけれど、それでもなお神から祝福されているような楽観がある。

「ちびの靴屋」。フランポルでは靴屋の一族が地元の名士として尊敬されていた。ところが、アバの代になって子供たちがアメリカに移住するようになり、伝統が途切れることになる。やがてフランポルをナチが爆撃して……。ユダヤ人の強みはディアスポラにあって、それは靴屋も変わらないみたいだ。子供たちは移民先のアメリカでビジネスに成功している。アバのすごいところは、後継者と目した子供たちがアメリカに渡るのをあっさり許可したところだろう。ユダヤ人の価値観が垣間見える。

「鏡(ある悪魔の独白)」。鏡に潜んだ悪魔が美人妻を拐かす。悪魔のトリックスターぶりがたまらなかった。まるで口から生まれたかのように饒舌で、言葉巧みに人妻の好奇心を刺激する。彼のセリフはどれも抜き書きしたいほど芸術的だった。それにしても、清浄なものがあるから不浄なものがあるという世界観は、そのまま善悪二元論に対応していて興味深い。悪魔というのは神に対する必要悪として存在する。

「ありがたい助言」。「私」の義父は反対派(ミトナグデイム)で、おまけに手のつけられない癇癪持ちだった。「私」は義父を敬虔派(ハシデイム)の導師の元に連れて行く。ウィリアム・ジェームズを彷彿とさせるプラグマティズムの寓話だった。まずは行動を変えること。そうすることで欲望や感情のあり方が変化する。こういった人間の心理は『旧約聖書』【Amazon】の時代から知られていたみたい。

「呼び戻された男」。材木商のアルテルが死の床につく。ところが、妻のシフラ・レアが遺体を懸命にゆするとアルテルが生き返った。以降、アルテルは「呼び戻された男」とあだ名される。アルテルは人が変わってしまい……。生まれ変わりとはつまり、変化するということなのだろう。同一性を維持できない。そして、今回は悪い方向に変化してしまった。「呼び戻された男」がソンビっぽいところが面白い。

「黒い結婚」。導師である父を亡くしたヒンデレがシメオンの元に嫁ぐ。ところが、シメオンは悪魔だった。現実か幻想か判然としないところがいい。これが現実だったらまだマシなほうで、幻想だったらヒンデレの結婚生活が地獄のようだったという話になる。現実だったらまだ諦めがつく。幻想だったらやるせない。後者のほうが恐ろしいではないか。それと、ヒンデレが感じる出産の恐怖にも注目したい。

「ちびにでかいの」。小男のモチエは妻のモチエーハから何かとバカにされていた。ある日、モチエは他所から大男のメンドルを連れてくる。モチエはメンドルに自分の商売を手伝わせるのだった。この手の寓話って登場人物の行動原理が読めないところが特徴で、話を転がすための無理筋な設定が有無を言わせぬ壁として立ち塞がる。個人的には、そういう理屈で割り切れない不条理が好きかもしれない。

「断食」。イチェ・ノフムの妻ロイゼ・ゲネンドルが家を出た。イチェ・ノフムは父親から離縁状を送りつけておけと命じられる。それを機にイチェ・ノフムは断食するのだった。呪いというのはどの文化圏にも存在するようで、だからこそフィクションの世界は豊かなのだろう。問題はそれをガチで信じている奴が大勢いること。とはいえ、我々も国家や法律といったフィクションを信じているのであまりバカにできたものでもない。

「ティショフツェの物語」。ティショフツェに悪魔がやってくる。悪魔はユダヤ・ドイツ語の物語から糧を得ていたが、最近はヘブライ語ヘブライ・ドイツ語(イディッシュ語)で書く作家が表れて芳しくない。ユダヤ人のコミュニティにいる悪魔がユダヤ教徒なのが面白い。彼らも結局は物語の中の存在で、それを記す言葉がなくなったら存在も消えてしまう。悪魔は言葉によって人を騙すが、実は彼ら自身も言葉によってその存在を担保されていたのだった。つまり、悪魔の本質は言葉である。

「不浄の血」。リシェがファリク氏という農場主の後妻になる。ファリク氏に代わって農場を切り盛りするようになったリシェは、屠殺人のルベンと懇ろになるのだった。やがてリシェは自ら屠殺を手掛けるようになる。屠殺人への眼差しが日本と似ているのが興味深い。世間は屠殺人を嫌悪しながらも、肉が食いたいから屠殺人を必要としている。リシェが村人に不浄の肉を食わせるのはささやかな罰ではないか。また、「血への情熱と肉欲が同じ根っこをもっている」という書き出しもポイントで、最近観ている『ゲーム・オブ・スローンズ』がまさにそんな感じだった。

「屠殺人」。ヨイネ・メイルはラビになるはずだったが、政治的な理由で見送られた。代わりに屠殺人として雇われることに。ところが、彼に屠殺は向いてなかった。職業選択の自由は大切だと痛感した。専門職はだいたい適正があって誰でもできるわけではないから。特に屠殺人は心理的なハードルが高く、向いてない人にとってはストレスが半端ない。しかも、無理をして頑張っても交換可能なのが寂しいところだ。

「炉辺の物語」。男たちが炉辺に集まって世にも奇妙な物語を披露する。特に信心深くなくても、奇跡や超常現象には心躍らせる何かがある。というのも、登場人物が言う通り、「この時代、神様は顔をお隠しになってしまわれた。今じゃあ、奇跡が起こっても、人間はそれを自然法則で説明する」という時代だから。「昔は、奇跡なんて、ごろごろ転がっていた」らしい。それはそれで楽しい時代だったろう。

「ハンカ」。作家のイツハクが講演のためニューヨークからブエノスアイレスに行く。現地では親類のハンカが出迎えてくれた。ハンカはナチス時代にアーリア人地区に匿ってもらい、命拾いしていた。このイツハクは明らかに著者をモデルにした人物で、キャリアを通して超自然を追求してきたのは本書を読んでも伝わってくる。信仰には奇跡が付き物だから。そして、超自然への偏愛はどこかノスタルジックだ。現実ではもう失われている。

「おいらくの恋」。82歳のヘリーは資産家だった。そんな彼が30歳年下のエテルと出会い、2人は相思相愛になる。エテルはヘリーに対して亡き夫の面影を見ていて、あの瞬間ふと我に返ったのだろう。何せ夫を亡くしてからメランコリーに苦しめられたくらいだし。一方、ヘリーはエテルのおかげで枯れ木に花が咲いた。ラストの飛躍した行動計画には苦笑してしまう。

アントワーヌ・ローラン『赤いモレスキンの女』(2014)

★★★

パリ。書店主のローランが道端で女もののハンドバッグを拾う。中にはパトリック・モディアノのサイン本や赤いモレスキンの手帳などが入っていた。手帳には好きなことや怖いことをリストアップしたメモ書きがしてある。ローランは当初警察にバッグを届けるも、意を決して自分で持ち主を探すことに。

庭でお昼を食べるのが好きで、赤アリを怖がり、男に変身したペットとセックスする夢を見て、コーラル色の口紅をつけ、パトリック・モディアノからサイン本をもらうロールとはいったいどんな容姿をしているのだろう? ローランは謎めいた一人の女の前にいた。その女は水滴のたくさんついた窓ガラスの向こう側にいるかのようにシルエットがぼやけ、夢の中で出会った人のように、顔の輪郭を思い出そうとすると、すぐに霧の中に包まれてしまう。(p.41)

落とし物を手掛かりにして人探しをする。まるで探偵小説のようなプロットである。面白いのは主人公のローランが中年男性であり、またヒロインのロールも中年女性であることだ。ローランは離婚経験があり、ロールは夫と死別している。中年男性がまだ見ぬ中年女性を追い求める。これが日本のエンタメだと若い男女に置き換えられてしまうわけで、フランス文学は中年にやさしいジャンルと言えよう。そして、僕の知る限りではフランス映画もだいたいこんな感じである。中年同士の淡いロマンス。フランスの文化・芸術って良くも悪くも大人向けという気がする。

主人公が書店主のせいか、本好きにフックするような作りになっているのも特徴的だ。たとえば、人探しの過程でローランがパトリック・モディアノに堂々と聞き込みをしている。個人的な印象では、フランスの小説って実在する作家をキャラクターとして作品に登場させることが多い。ミシェル・ウエルベックの小説がそうだし、ローラン・ビネの小説もそうだ(後者に至っては訴訟リスクがあるような登場のさせ方である)。これもフランスの文化なのだろうか? 文学好きとしては身も蓋もない内輪ネタがたまらない。

ロールの家の書棚がまた良かった。

ロールは見つけるのが難しくたいへんな高値がついている『ヴェネチア組曲』の初版本を持っていた。べつの書棚には小説が並んでいた。文庫本と仮綴じ本のモディアノ作品が多数あった。書棚から何冊か抜きだして確認してみるが、サイン入りのものは見当たらなかった。イギリス、スウェーデンアイスランド推理小説があり、アメリー・ノートンスタンダール数冊、ウエルベック二冊、エシュノーズ三冊、シャルドンヌ二冊、シュテファン・ツヴァイク四冊、マルセル・エイメ五冊、アポリネール全集、旧版のブルトン『ナジャ』、文庫本のマキャヴェリ君主論』、ル・クレジオ数冊、シムノン十数冊、村上春樹三冊、谷口ジローのマンガ数冊。並べ方は無作為で、ジャン・コクトーの『ポエジー』がトニーノ・ブナキスタの『サガ』と隣り合わせにあり、『サガ』はジャン=フィリップ・トゥーサンの『浴室』の横にあり、『浴室』は三方金仕上げのブラウンの革装丁本に接していた。(pp.107-108)

日本語に翻訳されている作家が多いし、何より村上春樹谷口ジローが置いてあるところが目を引く。「本棚を見ればその人が分かる」とよく言うけれど、ロールは典型的なフランス人という感じだ。古典文学でガチガチに固めた文学マニアでもなければ、芸術をファッションとして纏うサブカル女でもない。スノッブに陥らない程度にシャレオツな趣味である(アメリカ文学が1冊もないところがフランス人らしい)。ある程度必読本を押さえたちょうどいい選書。フランスのカジュアルな読書人とはこんな風なのかと感心した。

リドリー・スコット『ブラックホーク・ダウン』(2001/米)

ブラックホーク・ダウン (字幕版)

ブラックホーク・ダウン (字幕版)

  • ジョシュ・ハートネット
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★★★★

1993年。内戦の続くソマリアに軍事介入していたアメリカ軍は、敵の高官を拉致するため、首都モガディシュに兵を向かわせる。レンジャーやデルタフォースで構成された約100名が、ブラックホークや装甲車に搭乗して作戦を実行。当初は短時間で終わる予定だったが、敵地でブラックホークが撃墜されてしまうのだった。

戦闘シーンに迫力があって良かった。本作で描かれているのは殺しの快楽ではなく、ベトナム戦争のような地獄である。無敵のアメリカ軍が黒い顔をした土人に苦戦を強いられているのだ。しかも、敵は正規軍ではなく民兵である。ゾンビのように次々と湧いてくる土人に煮え湯を飲まされる文明人。ここにマゾヒスティックな快楽が感じ取れよう。

ほとんどアメリカ軍の事情しか描かないところが本作の特徴で、敵については取ってつけたように大国の軍事介入を批判させるくらいである。昨今のPC塗れの映画に比べると潔い。ソマリア人をゾンビと割り切って豪快にドンパチしている。そして、これこそが正しい戦争映画と言えよう。そもそも戦争には客観的な正義なんて存在しないのだから、敵の事情なんて考えず主観に徹するべきなのだ。自分たちには戦争がどのように見えているのか。本作ではそういった主観的リアリズムが、敵と味方の深刻なディスコミュニケーションを浮き彫りにしているのだから面白い。つまり、アメリカ兵にはソマリアの民兵が対話不能なゾンビに見えているというわけ。たとえPCに反しても当事者のナラティブを貫く。こういった姿勢こそが現代の映画界には必要だろう。

戦闘シーンで目を引いたのがRPGの有用性だった。一介の土人兵が地上から戦闘ヘリを撃墜しているし、装甲車も破壊している。もちろん、訓練されたアメリカ兵にも有効だった。このRPG、小国が大国の侵攻に対抗する手段としてすこぶる魅力的な兵器である。

ところが、現代では無人機による一方的な遠隔攻撃が当たり前になり、RPGも当時ほどは役に立たなくなった。無人機の操作員は基地内にあるエアコンのついた部屋に鎮座し、画面を見ながらゲーム感覚で敵にミサイルを撃っている。遠隔操作だから反撃の危険はない。ノーリスクで敵を殺害することが可能になっている。戦争における非対称性がここまで拡大してしまったわけで、現代で迫力のある地上戦を描こうと思ったら過去に題材を求めるしかないのだろう。そう考えるとちょっと寂しいし、旧時代的な本作に愛おしさをおぼえる。

アメリカ兵の死者が19人に対し、ソマリア兵の死者は1000人以上である。アメリカ兵の命は重く、ソマリア兵の命は軽い。文明人と土人とでは命の価値は等しくなかった。主観的リアリズムは我々に残酷な事実を突きつけてくる。