海外文学読書録

書評と感想

オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』(1995)

★★★

短編集。「血を分けた子ども」、「夕方と、朝と、夜と」、「近親者」、「話す音」、「交差点」、「前向きな強迫観念」、「書くという激情」、「恩赦」、「マーサ記」の9編。

小さなころからずっと、トリクとテランたちが一緒にしているのは、必要でいいことなのだ、と聞かされていた。出産のようなものなのだ、と。そのときまでは、ぼくもそう信じていた。どちらにしても、出産は痛いし血が出るものだとわかっていた。でも、これはまたべつの。もっとひどいなにかだ。ぼくはそれを目にする準備ができていなかった。準備なんて一生できないかもしれない。でも、見ないわけにはいかなかった。目を閉じても意味はない。(p.26)

以下、各短編について。

「血を分けた子ども」。テランたちは保護区で異星人のトリクに優遇されていた。しかし、それにはある目的があり……。人類と異星人の間にグロテスクな協定が結ばているところは『約束のネバーランド』【Amazon】っぽい。出産というのは不公平で、産む側と産ませる側では背負うリスクが段違いである。産む側は命を懸けているわけで、止むに止まれぬ形でそのリスクを引き受けているのだ。生物学的に産ませる側が産む側に回ることはできない。本作にはそういう不条理が投影されている。

「夕方と、朝と、夜と」。デュリエ=ゴード症で両親を亡くしたリンは、奨学金を得て大学に通っている。彼女は恋人のアランと共にディルグというデュリエ=ゴード症の病棟を訪れる。この病気の厄介なところは、薬剤性であると同時に遺伝性でもあるところだ。そもそもの発端は医療ミスであり、それが遺伝子として下の世代に引き継がれることになった。遺伝性なので当然、子供を産まないという発想も出てくる。産まなければ病気は一代で根絶できるのだ。優生思想への甘い誘い。緩やかな反出生主義。しかし、本作はそれとは別の選択肢が提示されていて面白い。

「近親者」。母は望んで「私」を産んだが、出産後は祖母に預けた。「私」は伯父と一緒に母の遺品を整理する。本作を読んだ後、気になったのでWikipediaインセスト・タブーの項を読んだ。インセスト・タブーの根拠は諸説あると同時に、そもそもインセスト・タブーが存在しない文化圏があることが分かった。僕は近親相姦については拒否反応がある。しかし、これは後からインストールされた価値観なのかもしれない。

「話す音」。カリフォルニア。謎の疫病によって人類の多くは言葉を話せなくなり、社会は無政府状態に陥っていた。そんななか、ライがバスでトラブルに巻き込まれる。獣性を剥き出しにしたひりつくような世界観がたまらない。人類は言葉を失うことで人間性を失い、ほとんど動物にまで退行している。こんな世界でサヴァイヴするのはきつそうだけど、わずかながら希望の光を残しているのだから後味がいい。

「交差点」。ジェーンの元に刑務所から男が帰ってくる。ジェーンは薬物依存症で……。一度道を踏み外すと、抜け出そうにも抜け出せない。

「前向きな強迫観念」。エッセイ。本編の何が驚いたって、子供の頃のバトラーと伯母の会話だ。作家志望のバトラーに対して伯母は、「あのね……黒人は作家になれないよ」と言い放っている。当時はそういう時代だったのだ。一方、大人になったバトラーはちゃんと作家になったわけで、人の一生の中で社会というのは漸進的に改善していく。

「書くという激情」。エッセイ。「閃き」より習慣のほうが当てになるというのはその通りだと思う。僕も毎日書く習慣をつけたら文章が目に見えて上手くなった。結局のところ、我々凡人は読みまくって書きまくるしかないのだ。「閃き」はその先にある。

「恩赦」。集合体の通訳をしているノアが、就業希望者たちと質疑応答する。ノアは11歳のとき集合体に拉致され……。異星人である集合体が人類に歩み寄っているのに対し、人類は集合体を憎むあまり「あちら側」と見なした同胞につらく当たる。疑心暗鬼が暴力を誘発するというのは普遍的な構造だろう。それにしても、集合体が人間を包み込むことで双方が心地よく感じるって、作中で説明されている通り猫を撫でる感覚なのだろうか。それはちょっと微笑ましい。

「マーサ記」。作家のマーサが特別な空間で神と2人きりになる。神は人類が滅亡しないようにするため、人間のどの性質を変えればそれが可能か問う。マーサの答え通りに人間を改変するとのことだった。自分でも少し考えてみたけど無理じゃないかなあ。高度な知能と動物的な本能を併せ持ったのが人間だし。それはともかく、マーサが夢(=フィクション)に希望を託しているところが作家らしいと思う。

イアン・ワトスン『オルガスマシン』(1976)

★★★

島では遺伝子操作によってカスタムメイド・ガールを製造していた。巨大な青い眼を持つジェイド。猫娘のマリ。六つの乳房を持ち、顎に乳首がひとつあるハナ。片方の乳房が引き出しに、もう片方がライターになっているキャシィ。彼女たちはそれぞれ主人の元に引き取られ、男たちに性的モノとして扱われることになる。やがてひょんなことから反乱を起こすが……。

「おまえは所有者(あるいは所有権喪失の場合には、男であれば誰であれ)から与えられたすべての命令に、たとえその命令が第一条に反するものであっても、従わなければならない。

「おまえはいかなる男も傷つけてはならない。また、第二条を守らないことによって、男に不快感を与え、精神的に傷つけてもならない」

これが女性工学の三原則だ。(p.132)

ミソジニーディストピアをこれでもかと展開していて面白かった。女性を徹底して性的モノ化する社会は、男性の潜在的な欲望の反映と言えるだろう。ほとんどの男性は「女嫌いの女体好き」であり、女性に人格がなければいいと思っている。女性は精神が安定してないし、感情の赴くまま行動するし、正しさよりも共感を重視する。そういった低劣さが男性には耐え難いのだ。既婚者も独身者も、男性はうっすらミソジニーを抱えながら生活している。しかし、男性は女性に不満を漏らさない。なぜならセックスにありつきたいから。人格はどうあれ、肉体は最高なのである。そして、こういったミソジニーの行き着く先がカスタムメイド・ガールなのだった。

カスタムメイド・ガールは注文者のフェティシズムに沿って作られている。彼女たちは新生児の段階で奇形になるよう遺伝子を操作されていた。ある女性は巨大な青い眼を持っているし、ある女性は猫の姿をしているし、ある女性は六つの乳房を持っている。それぞれ特定の要求に合わせて完璧に仕立てられた体をしているのだ。彼女たちはその完璧な体を駆使して男性に奉仕することになる。

ハナは余分な乳房のおかげでとても人気がある。乳房は吸われると乳を出す。お客たちはハナの鎖を捕まえてたぐり寄せ、乳首に鼻をこすりつけては吸いこみ、満足のうめきを漏らす。ハナの乳は美味しく、軽い催淫剤が入っている。

しばらくすると催淫剤が効きはじめ、ハナは連邦保安官の衣裳をつけた男に初めて本格的に使われた。男はハナの鎖を踏みつけ、ぐるぐるとたぐり寄せた。ハナは飲物の盆をあぶなっかしく支えた。男が五十ドル硬貨をハナの脇のスロットに押しこむ。友人たちが歓声をあげて冷やかすうちに、男は貞操帯をほうり出した。

はあはあ言いながら、友人たちがしっかりささえるテーブルに男はハナを押しつけた。ハナは緑のパッドに大の字にされる前に、何とか持っていた盆を床に置く。保安官はジーンズを半分まで降ろし、テーブルに這いあがってハナにのしかかった。剝出しの尻が空中に突き出し、男がハナにつっこむ。保安官のバッジがハナの乳房の一つにひっかかり、男がハナの上で上下に体を揺するのに合わせて、拍車のように乳房を引掻く。頭を左右に揺らすハナの頬を涙が流れおちる。(p.54)

これぞ性的モノ化の極致だろう。この世界において女性は性的価値しか重視されない。カスタムメイド・ガールではない一般女性でさえも、加齢で性的価値が落ちたら捨てられてしまう(セックス・マシンとしてリサイクルに出されてしまう)。女性の寿命は実質三十年ほどしかなかった。男性の性欲を基盤としたミソジニー社会。裏を返せば、男性は自身のペニスに支配された存在であり、ミソジニーディストピアによってその情けなさが強調されている。男性の第一の欲望は性欲を満たすこと。そのためなら女性の人権も平気で踏みにじるし、テクノロジーの悪用さえ辞さない。本作はディストピアを描きながら男性の滑稽さを浮き彫りにしている。

終盤ではカスタムメイド・ガールが反乱を起こす。面白いのは彼女たちが一枚岩ではないところだ。重役用娘のキャシィは反乱に同調せず、あまつさえジェイドたちを男性に引き渡すことになる。ジェイドたちがフェミニストのアナロジーだとしたら、キャシィは一般女性のアナロジーだろう。フェミニストの高邁な理想は、小さな幸せに満足している一般女性には通じなかった。現実でもフェミニストは一般女性に嫌われているわけで、本作は優れた社会批評にもなっている。

島で隔離・製造されたカスタムメイド・ガールたち。世に出る前は男性を夢想し、世に出てからは男性に幻滅する。これぞ人生の縮図ではなかろうか。

中平康『危いことなら銭になる』(1962/日)

★★★

反社組織が紙幣印刷用紙を強奪した。ガラスのジョー(宍戸錠)、計算尺の哲(長門裕之)、ダンプの健(草薙幸二郎)の3人が、偽札づくりの名人(左卜全)を組織に売り込もうとする。やがて武道の達人・秋山とも子(浅丘ルリ子)もジョーと行動を共にするようになり、名人の身柄争奪戦を繰り広げることに。

原作は都筑道夫『紙の罠』【Amazon】。

今日の邦画に繋がる漫画っぽい演技が味わい深かった。正直、今日の邦画は見ていて癇に障るが、本作はそうでもない。レトロ映画という枠で見てるせいか、かえって面白いと思ってしまう。

ガラスのジョーは紫のスーツを着用し、緑の飾りのついた黒いハットをかぶっている。おまけに愛車は赤いメッサーシュミットだった。このお洒落な造形がたまらない。ひと目で人物が判別できるうえ、現実に存在しなさそうな出で立ちが好奇心を刺激する。おまけに、ジョーには致命的な弱点があった。彼はガラスの引っ掻く音を聞くと取り乱すのだ。これはもう完全に漫画である。ガラスのジョーを気に入ってしまった僕は、昨今の漫画原作の邦画をバカにできないと反省する。だって両者に本質的な違いはないのだから。たとえば、山﨑賢人と宍戸錠にいったい何の違いがあるというのか。これはちょっと困ったことになった。

浅丘ルリ子が武道の達人(柔道二段合気道三段)を演じている。中盤では複数の男を相手に派手なアクションをこなしていた。このシーンは拙いながらも頑張っていて、カット割りで誤魔化さないところが潔い。浅丘ルリ子は動きからして明らかに素人なわけで、女優にこういう体当たりの演技をさせるのかと感心した。

武智豊子が相変わらず強烈な老婆を演じている。独特のがなり声が印象的だ。本作では二丁拳銃を使ってガンスピンを披露しているのだが、これがまた微妙に上手い。練習の跡が窺えてなかなか良かった。

計算尺の哲がズボンを脱いで赤いパンツを晒したシーン。そこでダンプの健が口を開いくも、セリフがミュートされていて何も聞こえなかった。いったい何て言ったのだろう? あと、敵のボスが拘束した4人に余計なことをぺらぺら喋るのが漫画っぽいし、取引現場をロングショットで映して両陣営の位置を矢印で示しているのも漫画っぽい。本作の美点は最初から最後まで漫画に徹しているところだ。おかげで気軽に観ることができる。

悪役がトカレフを所持している。当時トカレフは珍しかったらしい。僕が子供の頃、日本の裏社会はトカレフで溢れていたと記憶している。60年代が普及の始まりだったのだろうか。こういったディテールに「歴史」を感じる。

ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』(2019/韓国)

★★★★

アパートの半地下に住む一家4人(父・母・息子・娘)は内職で生計を立てていた。そんななか、息子ギウ(チェ・ウシク)の元に家庭教師の話が舞い込んでくる。職場は高台の高級住宅地だった。やがて娘ギジョン(パク・ソダム)もそこで働くようになり、父ギテク(ソン・ガンホ)、母チュンスク(チャン・ヘジン)もそれぞれ運転手や家政婦として雇われる。雇用主は彼らが家族であることを知らず……。

格差社会というシリアスなテーマをエンタメ仕立てで見せたところが良かった。

半地下に住むキム家と高台に住むパク家は、その高低差から明らかなように歴然たる階級差がある。貧困層のキム家が富裕層のパク家に入り込んでさあどうなるかと思ったら、そこは意外な展開が待っていた。結局のところ、現代社会において異なる階級間の上下動はなく、あるのは同じ階級間での椅子取りゲームのみである。貧困層が富裕層を乗っ取るなんて夢のまた夢。せいぜい地下室に隠れ住むのが関の山なのだ。キム家の人たちはパク家の人たちの純粋さ・騙されやすさにつけ込んだ。しかし、それでも階級を転覆させるほどの成果は挙げられなかった。彼らのしたことと言ったら、パク家の人たちが留守のときに無断で家を借りて飲み食いしたくらいである。現代において、かつてあったような階級闘争は存在し得ない。貧困層貧困層のまま、身の丈に合った生活を強いられる。

階級を示すものとして「匂い」を用いているところが面白い。キム家の人たちは総じて優秀で、パク家における要求水準の高い仕事を難なくこなしている。人間関係も良好で、息子ギウに至ってはパク家の娘と恋仲になっていた。ところが、身に染み付いた半地下の匂いだけは拭えない。いくら優秀でも階級だけは誤魔化せないのだ。一般論として、人の匂いを悪く言うことはその人の名誉を傷つける行為である。たとえば、「くさい」という言葉は小学生のいじめの常套句だろう。終盤、この「匂い」が悲劇のトリガーになるのも必然で、貧困層にも尊厳があることを思い知らされる。一撃必殺があるからこそ無敵の人は侮れない。理不尽な暴力性の発露に階級闘争の片鱗を窺わせる。

パク家の夫婦がソファーの上でペッティングする中、キム家の人たちはテーブルの下で声を押し殺して隠れている。このシーンの高低差も階級の象徴だし、行為の違いもやはり階級差が表れている。富裕層は好きな場所で堂々と振る舞える。それに対し、貧困層は部屋の隅で縮こまってやり過ごすしかない。物理的な距離は近くても、階級的な距離は遠いのである。これぞ現代社会の縮図といった感じで物悲しい。

富をもたらすはずの山水景石が、実際には不幸しかもたらさなかったのも皮肉だ。切羽詰まった人生は石ごときではどうにもならない。貧困層は迷信にも縋れないのだった。

吉谷光平、西島豊造『あきたこまちにひとめぼれ』(2017-2018)

★★★

高校サッカー部の西宮が練習の後、食事をしに米食堂こまちに入る。そこでは小町という看板娘が働いていた。米食堂こまちは米そのものを楽しんでもらうため、その米に合う料理しか出さないという。後に西宮と小町は同じクラスであることが判明し……。

全4巻。

米に特化したグルメ漫画。米は品種によって味が違ううえ、おかずとの相性も異なる。それを1話1話丁寧に描いていく。マニアックな世界を青春ラブコメの枠組みに落とし込んでいて面白かった。米は280種類以上あるからいくらでも話が作れそうだけど、4巻で打ち切りになったのは残念である。

小町の情熱・ポジティブ思考が好ましい。当然のことながら、米への愛に溢れている。食堂の看板娘だけあって肝っ玉母さんっぽいところがポイントだろう。西宮にとって小町は世話焼き女房であり、その積極性が奥手である我々の琴線に触れる。本作に「母親」が出てこないのは小町が母性を一身に担っているからだ。男というものは母親に甘えたいし、母親のような女性と結婚したい。そのためにオイディプス王よろしく「父殺し」をする。しかし、本作にはその「父親」が出てこないため、西宮は楽々「母親」を手に入れているのだった。

これぞ現代らしいストレスフリーの物語である。家父長制が崩壊した現代にあっては「父殺し」の物語など成立しない。我々は去勢された男性性の社会を虚しく浮遊するしかなく、「やさしいパパ」を目指して奮励努力することになる。フェミニズムによって牙を抜かれた負け犬たち。これはこれでちょっと寂しくないだろうか。現時点では、家父長制の崩壊によって生きやすくなったのか生きづらくなったのか分からない。もう少し時間をかけて総合的に判断する必要がある。

米の世界の豊穣さに触れられるところもポイントだろう。知識として覚えておきたいとは思わないけれど、我々が住む世界の奥深さのようなものは感じられる。現実に米食堂こまちがあったらちょっと通ってみたい。料理がとても美味そうだし、何より米とおかずの組み合わせを堪能したいと思う。

「米は太らない」という回があった。しかし、普通に食うと太るらしいから看板に偽りありだ。だってご飯があったらおかずをどか食いするのは当たり前じゃないか。あと、個人的な経験では炊飯器が違うと米の味も別物のように変わるけれど、そういうところには踏み込んでなかった。とはいえ、米の正しい炊き方は教えてくれる。

高校3年間をわずか4巻で駆け抜けた。大人の事情とはいえ、もう少しゆったり読んでみたかった。