海外文学読書録

書評と感想

山田尚子『リズと青い鳥』(2018/日)

リズと青い鳥

★★★★★

北宇治高校吹奏楽部。オーボエの鎧塚みぞれ(種﨑敦美)とフルートの傘木希美(東山奈央)は親友同士で、3年生の2人は高校最後のコンクールを控えていた。課題曲は『リズと青い鳥』という出会いと別れの物語をモチーフにしており、みぞれも希美も登場人物に自分たちを重ねている。青い鳥がリズの元から飛び立つことで、2人の関係に変化が訪れるのだった。

『響け!ユーフォニアム』【Amazon】のスピンオフ。

依存から自立へ向かう青春の一コマを描いている。こういうのって現実にもけっこうあるのではなかろうか。見ていて自分の高校時代を思い出した。

僕はみぞれほど引っ込み思案でもなければ、希美ほど社交的でもなかったが、それでもある特定の友人に依存していて、それは傍から見ればホモセクシャル一歩手前だったかもしれない。恋愛感情はなかったとはっきり言えるものの、確実に好意は持っていたし、学校にいる間はよくその友人と馬鹿話をしていた。今はまったく会うことのないその友人は、学生時代の良き思い出として心に残っている。

主人公のみぞれは傍から見ればレズビアンである。しかし、おそらく希美に対して恋愛感情はなく、そこには見えない絆のような依存心が働いている。みぞれは当初、「わたしがリズなら青い鳥をずっと閉じ込めておく」と呟き、希美への屈折した思いを表明していた。リズのように青い鳥を解放したりはしない。一生仲のいい友達のまま手元に置いておく。そういう依存心を露わにしていた。ところが、実は吹奏楽においてはみぞれのほうが青い鳥であり、あることがきっかけで彼女自身が解放される。そして、一旦は人間関係の危機が訪れ、お互いが心を開くことでまた新たに関係が繋ぎ替えられる。結局のところ、人間関係は時の流れとともに変化していくのだ。みぞれと希美の関係も例外ではない。本作はその壊れもののような青春の一コマを丁寧に切り取っていて見応えがある。

映像作品の大きな特徴は間合いがあるところだろう。小説が自分の好きなペースで読めるのに対し、映画は作品の指定した時間の流れで見るしかない。会話ひとつとっても、そこにはテンポがあり、間合いがある。ゆっくり喋る。早く喋る。一呼吸おいて喋る。あるいは歩き方だって違う。みぞれは歩幅の小さい控えめな歩き方。希美は大股のダイナミックな歩き方。これで2人の性格の違いを表している。本作は様々な間合いを駆使して独特の世界を作り上げているのだ。映像作品ならではの間合いは普段小説ばかり読んでいる僕にはなかなか新鮮である。このような繊細な映画をもっと見たい。そう思わせるだけの力がある。

それにしても、山田尚子は今や日本を代表するアニメ監督ではなかろうか。『けいおん!』【Amazon】の頃からすごかったが、まさかここまで化けるとは思わなかった。個人的な感覚としては細田守や新海誠より上である。今後の活躍を期待したい。

エミール・ゾラ『獲物の分け前』(1871)

★★★

南仏から仕事を求めてパリにやってきたアリスティッド・サカールが、兄の紹介で道路管理官の仕事に就く。折しもパリではオスマン計画という都市改造計画が持ち上がっていた。妻と死別したサカールは、金持ちの訳あり令嬢ルネと再婚。不動産投機で一攫千金を狙う。一方、ルネはサカールの連れ子マクシムと不倫するのだった。

この親子はマビーユでは有名だった。どこか極上の夕食をとった後、腕を組んでやってきて、庭をひと回りしながら女たちに挨拶し、通りがかりに声をかけた。腕を組んだまま高笑いし、激しいやり取りになると必要に応じて助け合った。父親はこの点強力で、息子の色恋沙汰が有利にすすむように弁をふるった。時々、二人は腰を下ろして一群の女たちと飲んだ。それからテーブルを替え、また歩き出すのだった。真夜中まで、相変わらず仲良く腕を組んで、黄色い砂を敷いた小道に沿ってガス灯のどぎつい炎の下を、二人が女をくどいてまわるのが見られた。(p.168)

『居酒屋』がパリの庶民を生き生きと描いていたのに対し、本作は人物よりも空間のほうに力を入れていた。これは都市計画がプロットに絡んでくるからだろう。冒頭とラストに出てくるブローニュの森だったり、ルネのやたらと豪華な部屋だったり、パリの大規模な植物園だったり、自然主義文学らしくやたらと文字を尽くして描写している。21世紀の文学は描写を控えめにすることが作法としてあるので、正直、現代人にとってはちょっとくどい。でも、後世の人間が昔のことを知るには、そのくどい細部が重要なのだ。たとえば、上の引用のように当時は親子が腕を組んで行動していたなんて、文字に記されてなければ分からないわけだし。こういうのは時間が経てば経つほど貴重になってくる。だから現代の価値観を元にして切り捨てるわけにはいかない。

都市計画に便乗した不動産投機って、日本だと「ヤ」のつく自由業がもっぱら仕切っているようなイメージだけど、第二帝政期のフランスではその手の反社会的勢力っていなかったのだろうか。サカールみたいな一般人が平然と投機に参加できているのに驚いてしまった。暴力で脅してくる連中が出てこない。状況としては日本のバブル期に似ているけれど、ヤクザが絡んでこないところが決定的に違っていた。

ルネとマクシム、義理の親子が姦通するのも本作の重要な要素だ。この2人は7歳差で、初対面のときはルネが21歳、マクシムが14歳だった。サカールがコキュ(寝取られ男)になるところはフランス文学の伝統だけど、妻の相手が実の息子というのがちょっと捻っている。さらに、母と息子の近親相姦は『オイディプス王』【Amazon】を連想させるが、ルネとマクシムは血の繋がらない親子なので、この辺もちょっと捻っている。著者は意識して定型からずらしたのだろう。ともあれ、不動産投機に代表される物欲と対をなすのがこの肉欲で、本作は世俗の業をこれでもかと描いている。

姦通した女がラストで死ぬのは昔の小説のお約束だ。有名どころだと、『アンナ・カレーニナ』【Amazon】がそうだった。両者は冒頭とラストが対応した関係にあるのも共通している。つまり、本作がブローニュの森で始まってブローニュの森で終わるのに対し、『アンナ・カレーニナ』は汽車で始まって汽車で終わるという次第。常々思うが、19世紀の倫理観は女性に対して厳しすぎる。不倫女は死ななければならないということだから。現代人が読むと違和感をおぼえる。

イサベル・アジェンデ『エバ・ルーナ』(1987)

★★★

独裁政権が支配する南米のどこか。捨て子だった母とインディオの父の間に生まれたエバ・ルーナは、物語を語る才能に恵まれていた。彼女は7歳にして母と身内を亡くし、あちこち遍歴を余儀なくされる。やがて民主主義の時代になり、共産主義の革命家と関わるようになるが……。

「わたしはこの国が好きなんだ」あるとき、リアド・アラビーはイネス先生の家の台所に腰をおろし、そう言ったことがある。「金持ちと貧乏人、黒人と白人、彼らがひとつの社会、ひとつの国を作り上げているからね。階級やしきたりにとらわれず、誰もが自分の踏みしめている大地の主人だと信じているだろう、ここでは生まれや財産によって差別されることはないんだ。わたしの生まれ育った国とは大違いだよ、向こうにはさまざまな階層があり、しきたりも違う。だから、人は生まれた土地で死んでゆくしかないんだよ」(p.264)

ハードカバーで読んだ。引用もそこから。

思ったほどマジックリアリズムという感じではなかったけど、それでもラテンアメリカならではの土俗的な雰囲気が満載で面白かった。訳者あとがきによると、著者が当時住んでいたベネズエラが舞台らしい。ただ、作中には国内の具体的な地名はアグア・サンタという村しか出てこないし、試しにぐぐってみたらそこはブラジルとエクアドルの地名だった。さらに、本作には独裁者や軍人が何人か出てくるものの、彼らの実名は伏せられたままである。こうまで徹底して国内の固有名詞を排除したのは、ラテンアメリカならどこでもあり得る、一編のおとぎ話として読まれたいからだろう。熱帯雨林があって、独裁者がいて、共産主義のゲリラが活動している。カトリックの価値観が支配的で、ヨーロッパやアジアからの移民が溢れていて、前時代的な迷信を信じている。そこはガブリエル・ガルシア=マルケスが書くコロンビアのようでもあるし、マリオ・バルガス=リョサが書くペルーのようでもある。このように本作はラテンアメリカ集合的無意識を表現している。

語り手のエバ・ルーナは物語の主体でありつつ、様々な事件の観察者でもある。軸となっているのは、エバが胡乱な出自から作家になるまでの軌跡だ。その過程でたくさんの個性的な人物と関わっていて、彼らの織りなすエピソードが物語の読みどころになっている。訳者はあとがきでピカレスク小説としての面をクローズアップしているけれど、個人的にはビルドゥングスロマンの要素も強いと思った。遍歴と成長。この2つはおそらく矛盾しない。というのも、現代文学の登場人物には往々にして内面があるからで、エバもご多分に漏れずそれを備えている。内面のある人物が様々な人物と関わっていけば嫌でも成長するわけで、本作はピカレスク小説の枠組みを取りながらも、ビルドゥングスロマンの要素も兼ね備えている。文学研究者の土方洋一は、物語を「出来事の推移の記述」と定義した*1。出来事の推移をどれだけダイナミックに書けるかによって、物語の面白さが決まるのだろう。その伝でいけば、本作はかなりダイナミックだと思う。

ラテンアメリカの小説はその土俗性が魅力なので、本作もはまる人は大いにはまるだろう。未読の人はまず『精霊たちの家』から読むことをお勧めする。

*1:『物語のレッスン』【Amazon】15ページ。

陳浩基『ディオゲネス変奏曲』(2019)

★★★

短編集。「藍を見つめる藍」、「サンタクロース殺し」、「頭頂」、「時は金なり」、「習作 一」、「作家デビュー殺人事件」、「沈黙は必要だ」、「今年の大晦日は、ひときわ寒かった」、「カーラ星第九号事件」、「いとしのエリー」、「習作 二」、「珈琲と煙草」、「姉妹」、「悪魔団殺(怪)人事件」、「霊視」、「習作 三」、「見えないX」の17編。

「おまえたちは……時間を売って金にしたことはないのか? 美児が病気になったときだとか、とても辛かっただろう? 時間を縮めようとは思わなかったのか」

「人生は辛いときがあるから、楽しみもあるんだろ」(p.97)

通常のミステリだけではなく、SFやカフカ的小説もあってバラエティ豊かだった。

以下、各短編について。

「藍を見つめる藍」。2008年。アラサー男性の藍宥唯は、2年前からある女性のブログを読んで、諸々の記述から彼女の個人情報を特定していた。彼は殺人の準備をして女性の住処に向かう。犯罪小説といえば犯罪小説なのだけど、これはなかなか捻りが効いている。用意周到なわりに女性の歯ブラシを舐めるところが変態チックで、これがある意味ではミスディレクションのひとつになっている。作中に出てくるアングラ掲示板のくだりを読んで、こういうのは世界中どこにでもあるのだなと感心した。

「サンタクロース殺し」。ホームレスの一人がサンタクロース殺しの話をする。日本では『行け!稲中卓球部』【Amazon】にサンタ狩りというネタがあって、その精神が陰キャたちに代々受け継がれていたと思う。つまり、クリスマスをカップルで祝うことに対するアンチテーゼ。で、本作はベタな幕引きだったけれど、しかしクリスマス・ストーリーはこうでなくちゃいけないと思う。陳腐な様式美を守ることに意味があるのだ。ところで、サンタクロースは中国語で「聖誕老人」と表記するらしい……。

「頭頂」。朝起きて鏡を見ると、「僕」の頭の上に鳥の爪みたいな異物が乗っかっていた。手で触れようとしてもすり抜けてしまう。そして、同僚にはこれが見えないらしい。これは短いながらも示唆に富んだ話で、正常と異常を区別するものは何かというのを考えさせる。正常であるために、見て見ぬふりをするのも答えのひとつ。

「時は金なり」。大学生の馬立文が、金策のために〈時間交易中心〉で自分の時間を売る。それで得た金で、意中の女性にブランドもののバッグをプレゼントするが……。僕も辛い時間はなるべく売り払いたいけれど、そういう時間はまとまって存在してないので、1ヶ月や1年単位で売るなんてまず無理だ。人生って1日のなかに辛い時間と楽しい時間が混在しているから。むしろ金を払って楽しい時間を引き伸ばしたほうがいい。立文みたいに売りまくるのは虚しいだけだ。

「習作 一」。わずか2頁の超短編。殺人を描くのはミステリ作家のサガかな。

「作家デビュー殺人事件」。ミステリ作家志望の青年が、編集者から実際に人を殺すよう勧められる。既存の売れ子作家たちは、殺人経験者だから魂の入った作品を書けていた。青年は密室殺人を実行する。これは密室殺人のトリックと解決が読ませるし、外枠に皮肉な仕掛けがあって、一粒で二度おいしい作品になっている。今は黄金時代のような牧歌的な殺人は不可能だと痛感。警察の科学捜査が恐ろしく進んでいる。

「沈黙は必要だ」。看守にこき使われている囚人たち。そのうちの1人が、屋外での作業中に事故に遭い、看守に射殺される。決めゼリフでビシッと締めているけど、僕は下手人のその後が心配だ。こんなことをしたら死刑にされるのでは……。

「今年の大晦日は、ひときわ寒かった」。公園で大晦日のカウントダウンを待つ「僕」と恩。2人はラブラブのようだったが……。そういえば、現実ではこの手の猟奇殺人ってめっきり見なくなった。酒鬼薔薇聖斗の事件が1997年である。世界に目を向ければ何かしらあるのだろうか?

「カーラ星第九号事件」。カーラ星に降り立った上陸艇が墜落し、艦長と隊員が死亡する。ところが、記録によると艦長が死に際に意味深な言葉を遺していた。探偵デュパパンが謎を解く。まさか「後期クイーン問題」が香港にまで伝わっているとは思わなかった。あれは日本におけるガラパゴス的議論だと思っていた。僕は『毒入りチョコレート事件』【Amazon】を読んだとき、「探偵の推理なんて後からどうにでもなる」と悟ったので、実はそんなに興味なかったのだ。後期クイーン問題、とても懐かしかった。

いとしのエリー」。居間で来客をもてなす「わたし」。「わたし」と妻のエリーは表向きは仲睦まじかったが、裏ではいがみ合っていた。2階の部屋にはベッドの上にエリーの死体が横たわっている……。死体の処理って案外難しいから、1人で隠蔽するのは大変そう。ヤクザならともかく、一般人だと尚更。こういうのを読むと、後日談を知りたくなる。そして、本作の叙述トリックは良かった。

「習作 二」。わずか2頁の超短編

「珈琲と煙草」。ここ3日間の記憶を失っている男が、コーヒーを買いにコンビニへ。ところが、冷蔵庫にコーヒーはなく、代わりに煙草が入っていた。さらに、行きつけのカフェへ行くと、そこでも煙草が売られている。こういうあべこべな世界大好き。何せコーヒーが違法で、コカインが合法になっているのだから。主流文学だと不条理は不条理のまま終わるけど、著者はミステリ作家なので一応の説明をつけている。この辺は好みが分かれそう。

「姉妹」。雪の家に駆けつけた「おれ」は、雪の姉である心の他殺死体を見つける。さらに、凶器のナイフもあった。「おれ」は死体を隠蔽しようとする。最初の状況とは別の状況が裏に隠れているのがいい。それにしても、防犯カメラだらけの現代社会だと完全犯罪も難しいな。現実の犯罪って、たいていは街頭にある防犯カメラでバレるし。

「悪魔団殺(怪)人事件」。悪魔団の本拠地でジャガイモ怪人の死体が発見される。殺したのは誰か? ヒーローものにおける正義と悪の関係って、探偵小説における探偵と犯人の関係に似ていて、これは物語の構造的な問題だと思った。つまり、悪がいなければヒーローは活躍できないし、犯人がいなければ探偵は活躍できない。ところで、著者があとがきで『外天楼』【Amazon】を絶賛しているのが気になる。

「霊視」。仕事が終わって一服している男が、浮浪者みたいな老人と話をする。老人は霊媒だった。これはピリッとした短編で好印象だった。仮に殺人事件が起きたとして、被害者の霊が見えるのなら犯人を当てるのも容易……なはずだけど、そうもいかないパターンもある。人間って複雑だ。さらに、物語の締め方も気が利いていた。

「習作 三」。わずか2頁の超短編

「見えないX」。大学の授業で推理ゲームをする。内容は、教室に隠れているXを見つけ出すというもの。これは人狼っぽいかも。実際にこういう授業があったら楽しそうだ。ところで、名探偵コナン金田一少年に言及するのは分かるけど、倖田來未やmisonoといった芸能人まで話題にのぼるのには驚いた。というか、『ロンドンハーツ』って香港でも放送してたのか。本作は日本のサブカルチャーがてんこ盛りだった。

ギ・ド・モーパッサン『ベラミ』(1885)

★★★

パリ。アルジェリアからの帰還兵ジョルジュ・デュロワは、鉄道会社に安月給で雇われていた。そんななか、戦友のフォレスチエと偶然再会し、新聞記者の仕事を紹介してもらう。イケメンのデュロワは立場のある夫人たちと不倫し、順調に出世していくのだった。

「聴いてください、愛というものは永遠には続きません。ひとは愛しあい、別れるんです。しかしぼくらの関係のようにずるずる長引けば、それは恐ろしい足かせになるのです。ぼくはもうそんなのは御免です。ね、これが本音なんです。しかし、あなたが聞き分けよくなって、この先、ぼくを友人として迎え、つきあうことができるというのなら、かつてのように、あなたの家を訪れてもいい。どうです、できそうですか?」(p.422)

貧乏青年が美貌でのし上がっていくアンチヒーロー小説である。読んでいて『赤と黒』【Amazon】を連想したけれど、結末は大きく違っていた。この手の話は挫折して終わるのが相場だと思っていたので、いい意味で予想を裏切られたかもしれない。こういう小説もあるんだなあと勉強になった。

19世紀のフランスは階級社会だけれども、本作を読むと今よりも夢があったと思う。というのも、イケメンだったら金持ちの夫人を籠絡して成り上がることができたから。これって現代ではまず無理じゃないかな。僕は若い頃、容姿端麗・頭脳明晰の少年だったけれど、これで得したことと言ったら年上のお姉さま方から贔屓してもらったことくらいで、とてもじゃないが格差社会を駆け上るようなことはできなかった。せいぜい女性教師に好意を持って接してもらったり、弁当屋のおばちゃんに唐揚げをおまけしてもらったりしたくらいである。今だったらママ活で小遣い稼ぎができたろうけど、当時はそんなものなかったし……。そして、そうこうしているうちに歳をとってくたびれたおっさんになってしまった。今ではもう若い頃の面影なんてこれっぽっちもない。そこら辺によくいる量産型のおっさんである。現代日本は夢がなさすぎるんじゃなかろうか。僕は高校時代に『赤と黒』を読んでジュリアン・ソレルに憧れていたけれど、ああいう人生を送ることはついぞ叶わなかった。

フランス文学にはコキュ(寝取られ男)の伝統があって、このブログで取り上げた本だとフランソワ・ラブレー『第三の書』に出てきた。同書は16世紀半ばの小説なのでなかなか古い。で、このコキュというのが本作でも重要な位置を占めていて、デュロワは同僚のフォレスチエに対して「おまえの女房を寝取ってやる」と内心で毒づいているし、実際彼が死んでからは予告通りの結果になっている。すなわち、デュロワはフォレスチエが死んだ後、残された未亡人と結婚したというわけ。そして、これだけで終わらないのが本作の面白いところで、今度はデュロワが妻に裏切られてコキュになってしまう。でも、実はこれが出世の足掛かりになるのだ。デュロワはコキュになったおかげで正々堂々妻と離婚し、すぐさま上流階級の娘と結婚することになる。このようにコキュというマイナス要素をプラス要素に転換したのが本作の面白いところだろう。これはなかなか意外性があった。

本作は自然主義文学だけあって、19世紀パリの風俗が垣間見えるところがいい。たとえば、仲のいい男同士で腕を組んで歩くとか、記者たちが編集室でけん玉に興じているとか。こういう昔の生活を拾えるところが、古典を読む醍醐味のひとつだと思う。