海外文学読書録

書評と感想

エミール・ゾラ『獲物の分け前』(1871)

★★★

南仏から仕事を求めてパリにやってきたアリスティッド・サカールが、兄の紹介で道路管理官の仕事に就く。折しもパリではオスマン計画という都市改造計画が持ち上がっていた。妻と死別したサカールは、金持ちの訳あり令嬢ルネと再婚。不動産投機で一攫千金を狙う。一方、ルネはサカールの連れ子マクシムと不倫するのだった。

この親子はマビーユでは有名だった。どこか極上の夕食をとった後、腕を組んでやってきて、庭をひと回りしながら女たちに挨拶し、通りがかりに声をかけた。腕を組んだまま高笑いし、激しいやり取りになると必要に応じて助け合った。父親はこの点強力で、息子の色恋沙汰が有利にすすむように弁をふるった。時々、二人は腰を下ろして一群の女たちと飲んだ。それからテーブルを替え、また歩き出すのだった。真夜中まで、相変わらず仲良く腕を組んで、黄色い砂を敷いた小道に沿ってガス灯のどぎつい炎の下を、二人が女をくどいてまわるのが見られた。(p.168)

『居酒屋』がパリの庶民を生き生きと描いていたのに対し、本作は人物よりも空間のほうに力を入れていた。これは都市計画がプロットに絡んでくるからだろう。冒頭とラストに出てくるブローニュの森だったり、ルネのやたらと豪華な部屋だったり、パリの大規模な植物園だったり、自然主義文学らしくやたらと文字を尽くして描写している。21世紀の文学は描写を控えめにすることが作法としてあるので、正直、現代人にとってはちょっとくどい。でも、後世の人間が昔のことを知るには、そのくどい細部が重要なのだ。たとえば、上の引用のように当時は親子が腕を組んで行動していたなんて、文字に記されてなければ分からないわけだし。こういうのは時間が経てば経つほど貴重になってくる。だから現代の価値観を元にして切り捨てるわけにはいかない。

都市計画に便乗した不動産投機って、日本だと「ヤ」のつく自由業がもっぱら仕切っているようなイメージだけど、第二帝政期のフランスではその手の反社会的勢力っていなかったのだろうか。サカールみたいな一般人が平然と投機に参加できているのに驚いてしまった。暴力で脅してくる連中が出てこない。状況としては日本のバブル期に似ているけれど、ヤクザが絡んでこないところが決定的に違っていた。

ルネとマクシム、義理の親子が姦通するのも本作の重要な要素だ。この2人は7歳差で、初対面のときはルネが21歳、マクシムが14歳だった。サカールがコキュ(寝取られ男)になるところはフランス文学の伝統だけど、妻の相手が実の息子というのがちょっと捻っている。さらに、母と息子の近親相姦は『オイディプス王』【Amazon】を連想させるが、ルネとマクシムは血の繋がらない親子なので、この辺もちょっと捻っている。著者は意識して定型からずらしたのだろう。ともあれ、不動産投機に代表される物欲と対をなすのがこの肉欲で、本作は世俗の業をこれでもかと描いている。

姦通した女がラストで死ぬのは昔の小説のお約束だ。有名どころだと、『アンナ・カレーニナ』【Amazon】がそうだった。両者は冒頭とラストが対応した関係にあるのも共通している。つまり、本作がブローニュの森で始まってブローニュの森で終わるのに対し、『アンナ・カレーニナ』は汽車で始まって汽車で終わるという次第。常々思うが、19世紀の倫理観は女性に対して厳しすぎる。不倫女は死ななければならないということだから。現代人が読むと違和感をおぼえる。