海外文学読書録

書評と感想

郝景芳『郝景芳短篇集』(2016)

★★★

短編集。「北京 折りたたみの都市」、「弦の調べ」、「繁華を慕って」、「生死のはざま」、「山奥の療養院」、「孤独な病室」、「先延ばし症候群」の7編。

「時々、抵抗ということについてどう捉えたらいいかわからなくなる」わたしは言った。「聞こえよく自由の追求や不撓不屈と言うべきなのか、それとも幼稚で強情だと言うべきか、時々自分たちが何に抵抗しているのかわからなくなる。みなが受け入れ、運命だとあきらめているのに、どうしてわざわざしなくても良いことをする必要があるのかと思うこともある。考えれば考えるほどわからなくなる」(p.87)

第二短編集『孤独深処(孤独の底で)』から7編を収録している。

以下、各短編について。

「北京 折りたたみの都市」。本作については『折りたたみ北京』を参照のこと。賈平凹の小説を読んでいると、よく中華料理が出てきて食欲がそそられるのだけど、本作にも負けじとばかりに中華料理が出てくる。たとえば、酸辣粉(酸味と辛味のきいたスープで食べるイモの澱粉で作った麺)とか、水煮牛肉(トウガラシのスープで煮こんだ牛肉)とか、東北拉皮(澱粉で作った平麺)とか。文字を見ただけで「美味そうだ」と思うのは、同じ漢字文化圏のサガだろうか。想像力が刺激される。

「弦の調べ」。鋼鉄人の襲来から3年、彼らは古い都市や芸術に関係する場所を破壊しないようだった。「わたし」は人々のために楽団で演奏している。一方、身近では月への反攻計画が進んでいて……。僕が子供の頃、「アメリカが京都に原爆を落とさなかったのは文化遺産がたくさんあったから」という説がまことしやかに語られていた。鋼鉄人がどういう目的で文化を保護しているのかは謎である。ただ、一定のテクノロジーを持った人種ならこういうこともあり得そう。あと、本作は共振がキーワードになるのだけど、「愛情というのはまさに共振だろう」という一文がビシッと決まっていた。

「繁華を慕って」。「弦の調べ」の姉妹編。ロンドンにいる妻に寄り添った視点から語られる。この小説の何が驚いたって鋼鉄人の正体かな。そして、芸術である……。僕も芸術愛好家の端くれだから、わりと言ってることは分かるのだ。僕に力があったら、アニメと文学と相撲の王国を作るよ。わりとマジで。人間の最高の贅沢はパトロネージュだからね。相撲部屋のタニマチなんかはその典型。

「生死のはざま」。交通事故に遭った男が死後の世界へ。これを読んで、立花隆臨死体験』【Amazon】を思い出した。一旦死んで、死後の世界を見て、また帰ってきた人たちの体験談。死後の世界は脳が生み出した幻影なのか、それとももっとスピリチュアルなものなのか。本作はSFなので、そこら辺は上手く理屈が用意してある。それにしても、転生という概念には夢があるよな。僕も次はアラブの石油王に生まれたいよ。

「山奥の療養院」。妻子持ちの男は義父から家を買うよう勧められるも、ローンを払うのがきつそうで躊躇っている。そんななか、彼は療養院で旧友に会うのだった。人間が自分を認識するのってやはり他人を通してなのだなあと思った。自分一人では自分のことは分からない。コミュニケーションによって何かを気づかされる。むかし流行った「自分探し」も、結局は他者との交流のうえで達成されるのだ。まさに「書を捨てよ、町へ出よう」である。

「孤独な病室」。現在の僕はSNSを始めとしたインターネットツールを適切に使いこなしているけど、昔はこれに振り回されて精神的にきつかった。特にmixiが流行っていた頃はしんどさMAXで、「mixi疲れ」という言葉は自分のためにあるものだと思っていた。Twitterも一度黎明期に始めてすぐにやめている。本作を読んで、そういう黒歴史を思い出した。

「先延ばし症候群」。僕が仕事で使っているPCはモニターが2枚あって、片方に仕事の画面、もう片方にTweetDeckの画面を表示している。つまり、仕事をしながらちょくちょく他人のツイートをチェックしている。さらに、仕事が行き詰まってくるとYouTubeツイキャスまで見てしまう。我ながらあかんとは思うけど、しかしこうでもしないと締切仕事はやってられないのだ。というわけで、本作を読んで複雑な心境になった。

劉震雲『わたしは潘金蓮じゃない』(2012)

★★★

29歳の子持ち女性・李雪蓮が、裁判員の元を訪れ、偽装離婚していた元夫の秦玉河を訴えたいと申し出る。既に長男のいた李雪蓮は、一人っ子政策に反して2人目を産むべく秦玉河と離婚したが、秦玉河はそれをいいことに別の女性と結婚したのだった。

「俺と結婚した時、おまえは処女だったか? 新婚の晩、おまえだって人と寝たことがあると認めたじゃないか」

さらにこう言い放った。

「おまえの名は李雪蓮じゃなくて、潘金蓮じゃないのか」(p.77)

タイトルの潘金蓮については『金瓶梅』の項を参照のこと。ひとことで言えば、夫を毒殺して愛人のもとへ走った悪女である。主人公の李雪蓮は元夫から潘金蓮呼ばわりされるのだけど、彼女本人はそれは違うと否定している。

本作は権力者たちを風刺した内容になっていて、李雪蓮という一人の農村女性のために、役人たちが慌てふためく様子が可笑しい。まずは県の裁判員を振り出しに、県の裁判所長、県長、市長、省長と訴訟を持っていく場所がエスカレートし、遂には全人代が行われている北京に乗り込む。ゴマがスイカに、アリがゾウに、ローカルな揉め事が大きくなるという次第。そして、北京で色々あって指導者による驚きの決定が下されるのだけど、それにしても、みんなが保身に汲々として、下々を愚民呼ばわりして見下しているのは、王朝時代から続く典型的な中国の役人という感じだった。この辺は日本とはだいぶ違う。日本の公務員って親方日の丸のサラリーマンだけど、中国の場合はもう少し前時代的な権力者みたいで、どちらかというと政治家に近い。いずれにせよ、こういう役人たちがとにかく困り果てるのだから、中国の読者は胸がすっとすることだろう。これは偏見だけど、中国の庶民って普段から役人に抑圧されてそうだし。

偏見と言えば、意外にも中国は人治ではなく法治の国のようで、李雪蓮を力づくで抑え込むことができないのに驚いた。やることと言ったら、せいぜい全人代の時期に家の外に見張りを立てることくらい。ノーベル平和賞劉暁波とは違って、何かの罪を着せられて投獄されるようなことはなかった。正直、中国って危険分子を予防拘禁するくらいのことは平気でするものだと思ってたよ。日本の転び公妨みたいなのもなかったし。どうも僕には中国で「悪」とされる基準がよく分からない。たとえば、最近ではBL作家が懲役10年の刑を言い渡されていたけれど、これなんかはまったく理解の範囲外である。同性愛を創作で表現することの何が悪いのか? 政権を脅かすようなことなのだろうか? こういうことがあるから安心して中国旅行ができないのだ。何が原因で逮捕されるか分からないから。近くて遠い国、それが中国だと僕は思っている。

なお、話の発端になった一人っ子政策については『蛙鳴』の項を参照のこと。これもなかなかきつい政策のようである。

フェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』(2011)

★★★

2001年5月。元自動車組立工のイタリア人コリーニが、大金持ちの老人ハンス・マイヤーを射殺した。新人弁護士のカスパー・ライネンが彼の弁護を担当するも、コリーニは頑なに供述を拒んでいる。一方、被害者のマイヤーはライネンと親交のある人物だった。ライネンは公私の事情に悩みながら、法廷でベテラン弁護士のマッティンガーと対決する。

ライネンはコリーニのほうを向いた。コリーニはうなだれて、両手をだらりと膝にのせ、大きな体で泣いていた。

マッティンガーはわずか二時間で、コリーニの父をもう一度殺したのだ。

「まだ終わってはいない」ライネンはいった。

コリーニは反応しなかった。(p.168)

戦時中のナチスの悪行と、そこから派生した戦後ドイツの暗黒面をえぐっている。日本でも戦犯が戦後の政財界を牛耳っていたけれど、ドイツでも局地的に似たような出来事があったみたい。元親衛隊でパルチザン殺害の命令を下していた人物が、戦後は大金持ちになっているし、また別の戦犯は、政治の世界に入り込んで自分たちに都合のいい法改正をしている。法治国家においては法律がすべてという建前があるから、勝手にこういうことをされるときつい。本作はナチス絡みの殺人を巡って法廷劇が展開されるけれど、途中から「法を信じるか」「社会を信じるか」という対立軸ができて、どう決着がつくのだろうと興味をそそられた。

それにしても、戦後ドイツのナチスに対する向き合い方は徹底していて、ナチス=絶対悪と規定しているのはすごい。正直なところ、日本人の僕からしたら行きすぎでないかと思う部分もある。たとえば、往来でナチス式敬礼をしただけで逮捕される法律。表現の自由を捨ててまで、ナチス=絶対悪という価値観を貫いている。僕が子供の頃、日本では架空戦記というジャンルの小説が流行っていた。僕が読んだ作品は、旧日本軍が連合国軍相手に破竹の勢いで勝利するというものだった。これは推測だけど、ドイツにこういうジャンルの小説って存在しないのではないか。ナチスが破竹の勢いで連合国軍に勝利する小説。ハイル・ヒトラー! ユダヤ人は消毒だー! みたいな。そういえば、アメリカには『高い城の男』【Amazon】というSF小説があって、あれは枢軸国が勝利した後の架空の世界線を描いたものだった。この小説はドイツだとどういう扱いになっているのだろう? ナチスによる支配はありなのだろうか? 僕はドイツのことをあまりにも知らなすぎる。

本作はラストがあっけなくて不満だった。どうせなら白黒はっきりつけてほしかった。あと、法廷劇を扱っているわりにはアメリカのリーガル・サスペンスみたいな手に汗握る要素がなく、社会派に偏っているのも物足りない。でもまあ、これが著者の味と言われればその通りと頷くしかないのだ。コテコテではなく、あっさりとした味つけ。本作はあまりエンタメエンタメしてないところがいいのかもしれない。

メンヘラの世界~精神障害者を知るための25冊+1~

メンヘラとは、狭義では精神障害者、広義では精神が不安定な困ったちゃんの意味があります。 約20年前に2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)で誕生したネットスラングで、今ではそこかしこでカジュアルに使われています。以下に紹介する南条あやの登場によって、メンヘラはサブカルチャーのひとつになりました。

本稿ではそんなメンヘラを理解するための参考文献を紹介します。皆様のお役に立てれば幸いです。

なお、文末につけた推奨度は星5が最大です。特に星4と星5はお勧め本なので、興味がある人は是非読んでください。損はさせません。

 

1999年3月30日に18歳で自殺した南条あやの日記です。日記はWebに掲載されたもので実際はもっと長いのですが、本書は分量の都合上、1998年5月28日、及び同年12月1日から1999年3月17日までを収録しています。

南条あやはメンヘラとは思えない天真爛漫な文章で人気を博し、当時はネットアイドル扱いされていました。彼女は鬱病で、リストカッターで、処方薬のODをしていますが、日記ではそれらをあっけらかんとした調子で書いてます。苦しみを笑いに変える彼女の芸風は、後にTwitterで流行するメンヘラ芸に通じるものがあると言えるでしょう。この頃の南条は、リストカットの代わりに献血に通って血を抜いており、慢性的な貧血に陥ってました。そのうえ、違法に手に入れたデパスやモダフィニルをスニッフしたり、友人と薬物パーティーを開いたり、その無軌道な生活は現代のメンヘラと変わりません。メンヘラのプロトタイプと言えるでしょう。

南条あやは日記を公開してから1年も経たずに自殺しました。精神科への通院歴も1年に満たないです。僕は昔、Webに公開された彼女の日記をすべて読みましたが、本書には一番面白い部分が欠けています。特に入院中の日記はもっと読まれてもいい。完全版の出版が待ち望まれます。 

なお、南条あや亡き後、メンヘラとして有名になったのがメンヘラ神です。メンヘラ神は2013年に飛び降り自殺しました。彼女がなぜ有名になったかというと、当時付き合っていた彼氏が自殺教唆で逮捕され、ニュースになったからです。これによってメンヘラが再び脚光を浴びました。メンヘラ神がTwitterで行ったメンヘラ芸も、現在では伝説として語り継がれています。

林直樹『リストカット』【Amazon】に自傷行為の事例として南条あやを取り上げた章があります。彼女の生い立ちが手際よくまとまっているので、興味がある人は読んでみるといいでしょう。

推奨度:★★★★★

 

綺麗なものたくさん見られた。しあわせ。
そろそろこの世界をはなれよう。

2003年4月26日に飛び降り自殺した女性編集者のWeb日記です(享年26歳)。本書は2001年6月23日から2003年4月26日まで、すなわち自殺直前までの日記が収録されています。

二階堂奥歯は物語、とりわけ幻想文学に耽溺しており、 今まで生きてきた日数以上の本を読んでいたようです。これはただの本好きと呼ぶには半端じゃない量で、1日1冊で計算しても、20代半ばで1万冊近くに達しています。確かに日記を読むと短いペースでたくさんの本に触れていますし、また引用もかなり充実していて、相当な蓄積があるのだろうと思われます。さらに、彼女は哲学も勉強していました。幻想文学も哲学も病んでる人がはまるジャンルです。

日記は当初、コスメやファッションの話題が多くて健康的だったのですが、中盤から書物の引用が増えて内面世界に入り込んでいきます。一度は浮上していつもの調子に戻ったものの、2003年3月23日に自殺の意思を示してとうとう引き返せない場所まで行く。ただ、彼女はもともとそういう素質があったようで、1996年(19歳)の段階で父親から自殺すると思われていました。

無情にも、人間というコンテンツは死ぬことで完成される。そのことを証明したのが二階堂奥歯でした。彼女本人はメンヘラの定義に当てはまるか微妙ですが、この日記はメンヘラが読んで共感する要素が多分にあります。というのも、本書は繊細にして思索的な内容なのです。自分が生きているこの世界、否応もなく立ちはだかるこの世界に違和感がある人は読んでみるといいでしょう。

推奨度:★★★★★

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チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(2016)

★★★★

2015年秋。33歳のキム・ジヨンは3年前に結婚し、昨年、女の子を出産していた。夫は3歳年上で中堅のIT企業に勤めている。キム・ジヨンは1人で子育てをしていたが、あるとき、解離性障害のような症状が現れる。物語はキム・ジヨンの生い立ちから現在までを追うのだった。

「あのコーヒー、一五〇〇ウォンだよ。あの人たちも同じコーヒー飲んでたんだから、いくらだか知ってるはずよ。私は一五〇〇ウォンのコーヒー一杯も飲む資格がないの? ううん、一五〇〇ウォンじゃなくたって、一五〇〇万ウォンだって同じだよね、私の夫が稼いだお金で私が何を買おうと、そんなのうちの問題でしょ。私があなたのお金を盗んだわけでもないのに。死ぬほど痛い思いをして赤ちゃんを産んで、私の生活も、仕事も、夢も捨てて、自分の人生や私自身のことはほったらかして子どもを育ててるのに、虫だって。害虫なんだって。私、どうすればいい?」(p.159)

女性として生きるのはすごく大変なのだなあ、というのが率直な感想。韓国って女性の大統領が選出されるくらいだから、日本よりも男女平等が進んでいるのかと思っていたけれど、本作を読む限りそうではないみたい。日本とそんなに変わらないか、あるいはそれ以下かも(男性の僕にはよく分からない)。特にキム・ジヨンの母親世代の話が強烈で、子供の頃はお金を稼いで兄たちを学校に行かせなければならなかった、そして、母親になってからはお金を稼いで子供たちを学校に行かせなければならなかったとあって、こんな自己犠牲を払って生きるのはしんどすぎると思った。

キム・ジヨンの代になっても生きづらさはつきまとっていて、母親世代ほどではないにしても、相変わらず女性というだけで自己犠牲を強いられている。特にキャリア志向の女性にとっては、進学やら就職やら出産やらといった人生の節目で、そういう理不尽に直面するようだ。それと、男性が女性の気持ちを踏みにじる場面がちょくちょくあって、読んでいて身につまされるところがあった。僕もけっこう無神経な性格をしているので、これからは気をつけようと思う。

ところで、僕は仕事をするのが嫌で嫌で仕方がなくて、専業主夫になりたいという願望を強く持っている。すべてのキャリアを投げ捨てて、本を読んだりアニメを見たり、家で好き勝手して暮らしたいと思っている。だから専業主婦を羨望の眼差しで見ているし、その境遇に嫉妬さえしている。現状、男性が女性に養ってもらうのは反社会的だとされているからね。しかも、今の日本は人手不足だから、政府は猫も杓子も働かせようと躍起になっている。そういう状況のなか渋々仕事をしているので、ひょっとしたら嫉妬に根ざした無意識のミソジニーが自分のなかにあるかもしれない。普段は表には出さないけれども、何かのきっかけでそれが態度に出ているかもしれない。しかし、女性は女性で生きづらさを抱えている。その事実は頑然としてあるわけで、自分の贅沢な悩みを他人にぶつけるのは絶対にしまいと思った。

本作は年代記っぽい構成のせいか、その時々の韓国の世情が分かりやすい形で反映されている。だから、韓国について知りたいのだったら必読だろう。個人的には、90年代にあったIMF危機のくだりが興味深かった。