海外文学読書録

書評と感想

エレナ・フェッランテ『リラとわたし』(2012)

★★★

1950年代のナポリ。貧困地域に住むリラとエレナは小学1年生のときに出会い、行動を共にするようになる。リラは暴力的な性格ではあるものの、学校の成績は抜群によかった。一方、エレナも勉強はできるものの、二番手に甘んじている。エレナは中学に進学する予定だったが、リラは家庭の事情でそれも叶わないようだった。

裕福になること、それは小学校最後の一年を通じてわたしとリラが熱中し続けた話題だった。ふたりは童話の宝探しの話でもするように、お金持ちになったらあれがしたい、これもしたいと言いあった。あたかも裕福になるための財産は地区のどこかに隠されていて、たとえば、蓋を開ければ金貨が輝く宝箱でも見つけさえすればいいといった調子だった。そのうちなぜかわたしたちは発想を変え、勉強とお金を結びつけて考えるようになった。たくさん勉強すれば、いつか本が書けるようになり、その本が売れてお金持ちになれるという理屈だ。裕福さとは無数の宝箱に入った金貨の輝きであるという考え自体は変わらなかったが、そこに到達するための方法が、勉強をして本を一冊書くだけでいい、に変わったのだ。(pp.78-79)

現代の作家が書いているせいか、あるいは2010年から回想する形式のせいか、50年代のイタリアという感じがしなかった。『自転車泥棒』【Amazon】や『揺れる大地』【Amazon】といった昔のイタリア映画(ネオレアリズモ)で滲み出ていたような不景気感がなく、ほどよく洗練されている。確かに貧しい人たちを描いているのだが、言うほど迫真性がないのだ。まがりなりにも本作は世界的ベストセラーだから、すらすらと読めるようにはなっている。でも、そのぶん自然主義文学で表現されているような「重さ」を削っているため、それが迫真性の欠如に繋がっている。もちろん、これは著者も分かっていて、あくまで大衆向けに割り切って書いているのだろう。リーダビリティ重視の文芸作品として。そういう大人の事情は理解できるにしても、自分が求めていたのとは何か違うなと思った。

貧困地域が舞台だけあって、みんな暴力的なのが印象的だった。殴ったり蹴ったりするのは当たり前。あまつさえ地元の住人が殺人の被害者になっている。思春期の章で描かれるDQNたちの人間模様は、たとえば『太陽の季節』【Amazon】みたいな時代の証言としての価値があるかもしれない。みんなラテン気質が旺盛で、ちょっとでも名誉を汚されたと思ったら暴力で過剰に報復している。こういうのをマチズモと呼ぶのだろう。ラテン系が崇める男らしさ。ただ、血の気が多いのが男だけと思ったら大間違いで、少女であるリラも相手の首筋にナイフを突きつけるようなすごみがある。ぬるま湯で育った僕にはなかなか刺激的だった。

本作にどことなく興味を覚えてしまうのは、プロローグで老婆になったエレナが現在のリラ、不可解な行動をとっているリラに言及しているからだ。ここに至るまでにどういう物語があったのか、2人はどういう子供時代を過ごし、どういう大人になり、どういう関わり合いをしてきたのか。人生という長大な時間を覗き見したいという欲求があるから読んだのだ。第1巻の本作では思春期までを扱っていて、リラとエレナ、少女同士の交流が新鮮に映る。というのも、僕は身も心も男性であり、どうあがいても女性の人生を体験することができないから。年頃の少女が何を考えているかなんて想像もつかない。彼女たちは僕にとって圧倒的他者なのである。自分と違う生き物に対して好奇心が湧くのも当然で、そういう意味で本作は個人的な欲求を満たしてくれる。本作終了時点で16歳になったリラとエレナ。2人はこれからどういう人生を歩むのだろう? 気が向いたら続編も読むかもしれない。

ドン・デリーロ『天使エスメラルダ』(2011)

★★★

短編集。「天地創造」、「第三次世界大戦における人間的瞬間」、「ランナー」、「象牙のアクロバット」、「天使エスメラルダ」、「バーダー=マインホフ」、「ドストエフスキーの深夜」、「槌と鎌」、「痩骨の人」の9編。

戦争は、と彼は言う。戦争は、宇宙に生命体が満ちあふれているという考え方に終止符を打つだろう。これまで多くの宇宙飛行士たちが、星々の彼方に目を向け、無限の可能性を思い描いてきた。高等生物でひしめきあう、葡萄の房のように寄り集まったいくつもの世界を夢見てきた。だがそれは戦争前のことだ。我々の見解、彼と私の見解は、いまこの瞬間、天空を漂うさなかにも変わりつつあるのだ、そう彼は言う。(p.59)

本書は冷戦期からポスト9.11まで、幅広い年代の短編を収録している。なので、いつ書かれたものかを意識して読むと面白いかもしれない。

以下、各短編について。

天地創造」(1979)

カリブ海の島から飛行機で帰ろうとした「僕」とジル。ところが、2人の搭乗はキャンセルされてしまった。やがて彼らはドイツ人女性のクリスタと知り合う。ホテルで過ごした後、予約リストの都合でジルだけ飛行機に乗る。「僕」とクリスタは現地で待機することに。

カフカ的状況を現代で作るとしたら、こういう第三世界が舞台になるのだろうか。たとえば、『エペペ』も先進国の枠組みから外れた架空の異国を舞台にしていた。日本に住んでいると公共交通機関は時間通りというのがデフォルトだから、仮に僕がこの状況に置かれたら、作中人物よりももっと混乱しただろう。未知なる世界というか、未開の地域というか、とにかくそういうマージナルな国の未発達な部分が不条理を誘う。

第三次世界大戦における人間的瞬間」(1983)

エンジニアのヴァルマーが宇宙船から地球の情報収集をしている。地球では戦争をしていた。ところが、テクノロジーの発展によって、人類は戦争に対してかつてのような熱狂を感じていない。

本作は冷戦期に書かれているけど、未来では戦争に核兵器は使われないと予見していて、これは慧眼じゃないかと思った。現代の戦争はまず無人航空機で爆撃して、必要なら地上に兵員を派遣して制圧する。そういう戦争をアメリカは行っている。無人航空機に人間的瞬間はない。遠隔地からゲーム感覚でミサイル発射の操作をしている。攻撃する側の安全を確保することが、結果的に戦争から人間的瞬間を奪っているというわけ。これが良いことなのか、悪いことなのか、あいにく僕には分からない。

「ランナー」(1988)

公園を走っている若い男。突然、車が芝生に乗り上げ、男が子供を拉致した。目撃者の女性によると、犯人は離婚後の父親で、親権絡みで犯行に及んだという。しかし、それはあくまで推測にすぎなかった。

我々は何か事件が起きると、構成要素を分析して物語を作り出す。人間というのは好奇心の抑えられない生き物で、その能力に特化した者が作家になるのだろう。日本でワイドショーが一定の視聴者数を抱えているのも、本作を読めば納得できる。

象牙のアクロバット」(1988)

ギリシャで大地震に遭遇する。

小説にしても映画にしても、フィクションで地震が出てくると東日本大震災を思い出して冷静ではいられなくなる。僕の人生のなかで唯一命の危険を感じた災害だったから。あれのおかげでもう海には近づけなくなった。それはさておき、こういう災害で重要なのは公的機関が正確な情報を素早く提供することで、そうしないとデマがはびこってしまう。それは世界中に当てはまる社会の本質みたいだ。

「天使エスメラルダ」(1994)

修道女のシスター・エドガーが、治安の悪い地域で12歳の少女エスメラルダを探す。ところが、エスメラルダは強姦された後に殺害されていた。

本作を読んで、信仰には奇跡が必要だということが分かった。それは超常現象でもいいし、運命的な出来事でもいい。ただ、今は時代が時代だから、前者に遭遇することはまずない。奇跡には何らかの理屈が伴う。我々は暗黒の中世には住んでないのだ。広告看板に顔が投影されるところが、物質文明における奇跡を如実に表わしている。

「バーダー=マインホフ」(2002)

美術館で出会った男女。2人はテロリストの死を題材にした絵画を鑑賞する。

我々日本人はアメリカの奴隷なので、テロリスト=悪という観念を刷り込まれている。マスメディアによって刷り込まれている。それを信じることで経済的なおこぼれに与っているのだ。今回題材になっているのはドイツ赤軍だけれども、理想の社会を作るために一般人を殺すのは許し難い一方、しかしそれを超越した視点で物事を見るのも大切かもしれないと思った。なかなか難しいけど。

ドストエフスキーの深夜」(2009)

2人の男子大学生が、歳をとったフードの男を見かける。そして、彼についてあれこれ物語をでっちあげる。

こういう遊びは楽しいよね。言われている本人が聞いたら気を悪くしそうだけど。そして、見知らぬ他人にここまで関心を持つのは、生活に余裕のある大学生ならではのもので、要は暇を持て余した神々の遊びである。そして、現代人はこれをインターネットで行っているのだ。主にSNSや匿名掲示板で。

「槌と鎌」(2010)

経済犯罪者ばかりが集められた収容所での生活。

ホリエモンは刑務所に入って健康になったそうだけど、ここの囚人たちも似たような感じだろうか。刑務所ではなくキャンプ。作中にはドバイやギリシャに関する会話が挿入されていて、我々の生活にはいつも経済がつきまとってくる、死ぬまで金勘定からは逃れられないのだと思い知らされる。一時期日本でベーシックインカムが話題になってたけど、実は大多数の日本人は資本主義にうんざりしてるのではないか。

「痩骨の人」(2011)

離婚した後も同居している男女。女はエクササイズに血道を上げ、男は映画館に通いつめる。

エクササイズも映画も極めてアメリカ的な文化だと思う。むかし日本に『ビリーズブートキャンプ』【Amazon】が入ってきて一大ブームになった。映画に関しても、ハリウッド映画が世界を席巻している。どちらも資本主義的な文化と言ってよく、アメリカ文化を理解することは資本主義を理解することに繋がる。

山川吉樹『ハイスコアガール』(2018-2019)

★★★★

1991年。小学6年生の矢口春雄(天﨑滉平)は大のゲーム好きで、特に格闘ゲームをプレイするのを好んでいた。その彼がゲーセンでクラスメートの大野晶(鈴代紗弓)と出会い、『ストリートファイターII』で対戦するも惨敗する。大野はゲーセンとは無縁そうに見える金持ちのお嬢様だった。以降、2人の関係は高校生まで続いていく。さらに、2人の間に日高小春(広瀬ゆうき)も絡んできて……。

90年代のゲーム文化と甘酸っぱいラブコメを両立させた上質のエンターテイメントだった。カプコンSNKの格ゲーにはまっていたおっさん世代だったら本作を見て懐かしく思うだろうし、若い世代にとっても当時の熱狂を見て何か感じる部分があるだろう。だいたいアニメ好きはゲームも好きだから。それにサブカルチャーの歴史はたいてい興味深いものだ。本作はゲームが肯定的に描かれているところが素晴らしく、春雄みたいにゲームに青春を賭けるのも悪くないなって思う。何かに打ち込む姿はとても格好いい。これはある意味でおたく礼賛アニメと言えるのではないか。ゲームやアニメはとかく世間から否定されがちだけど、そういった雑音に負けず、好きなものを好きと認めて精一杯楽しむ。一度しかない人生、どうせなら他人の目を気にせず好きなことに熱中したい。じゃなきゃ生きている意味がないだろう。

本作はラブコメとしてもよく出来ていて、春雄をめぐる三角関係は見ていてキュンキュンしてしまう。春雄は大野と日高、2人の女から好かれるのだけど、この状況がまたせつないのだ。というのも、春雄と結ばれるのは1人だけと決まっているから。もう1人の恋は絶対に実らない。初めから敗れることが約束されている。そして、こういうドラマはシーソーみたいにあちらそちらに傾いていくのがいいのだ。今回は大野のターン、次回は日高のターンという具合に。本作はこのようなラブコメを90年代のゲーム文化と上手く絡めているところが白眉で、趣味にしても恋愛にしても、好きというのは最高の感情なのだということに気づかせてくれる。

本作は日本の一時代を鮮やかに切り取っているので、当時の風俗に興味がある人は絶対に見るべきである。いずれこのアニメは平成を振り返る際の重要な資料になるだろう。90年代。あの頃はみな格ゲーに熱中していた。

ハン・ガン『すべての、白いものたちの』(2016)

★★★

白いものについて書こうと決めた「私」。不慣れな外国の首都に滞在する「私」は、生きられなかった姉、生後2時間で死んだ姉に思いを馳せつつ、雪や角砂糖や白夜など、白いものについて断章形式で綴っていく。

今、あなたに、私が白いものをあげるから。

 

汚されても、汚されてもなお、白いものを。

ただ白くあるだけのものを、あなたに託す。

 

私はもう、自分に尋ねない。

 

この生をあなたに差しだして悔いはないかと。(pp.48-49)

断章形式で綴られた散文詩ってところだろうか、こういう文章を説明するのはなかなか難しい。それはつまり、詩の良さを説明するのと同じだからだ。感性が著しく鈍磨している僕には、詩を語るための語彙がない。絶望的にない。このブログで詩を取り上げないのもそれが理由で、実は陰でこっそり詩集は読んでいたりする(何だか文学青年っぽいな!)。とりあえず、本作は全186頁を1時間以内で読み終えた。

村上春樹風の歌を聴け』【Amazon】に、「結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。」という文章があるけれど、本作もそういう要素があると思う。赤ん坊の頃に死んだ姉というのが作品全体を覆っていて、もしその姉が無事に成長していたら、今度は自分が産まれることがなかった。死んだものと生きているもの。そういう対比の狭間に、自分の運命的な生が存在していて、なかなか一筋縄ではいかない。姉の命の犠牲のうえに自分の命が乗っかっているわけだ。この極めて厄介な状況を踏まえて、「自己療養へのささやかな試み」を実行している……。これが当たっているかどうかは分からないし、勝手に忖度してごめんなさいって感じだけど、まあ、文学というのは自由に読んでいいものだからね。僕のなかではそういうことにしておく。

本書は造りがなかなか凝っていて、全部で5種類の紙が使われている。それぞれ色と質感が微妙に異なっており、読み手の印象を物理的なレベルで変えている。これは持論だけど、読書というのは視覚だけで行っているのではない。紙の肌触りや頁を捲くる手応えなど、触覚が重要な役割を担っている。だから電子書籍では行為としての読書を完全には再現できないのだ。それは読書に似た別の何かである。これって我ながら保守的な見解だと思うけど、現時点ではそういう考えなので、また何かのきっかけで宗旨替えするかもしれない。とりあえず、今は電子書籍で読むことについて疑念を持っているということで。

川面真也『劇場版 のんのんびより ばけーしょん』(2018/日)

★★★★

夏休み。宮内れんげらいつものメンバーがデパートに行き、福引で三泊四日の沖縄旅行を当てる。いつものメンバーは、かず姉と駄菓子屋の2人の大人同伴で沖縄へ。シュノーケリングカヤックを楽しみつつ、宿の手伝いをしている中学生・新里あおいと親しくなる。

テレビシリーズ【Amazon】がド田舎を舞台にした日常もの*1だったのに対し、劇場版は沖縄を舞台にした番外編といった趣。前者は子供ならではの引き伸ばされた時間を描いており、それはいつまでも続くかのような錯覚を覚えるほどだったけれど、後者は旅行という限られた時間を描いていて、非日常ならではの楽しさと同時に、ある種の儚さをおぼえた。旅行の最終日、越谷夏海は新里あおいと離れるのが惜しくてガチ泣きする。そして、なぜかそれに同調している自分が画面の前にいる……。これって出会いがあれば別れがあるというごく当たり前の状況なのに、見ているほうも不思議とほだされてしまうのだ。特に涙腺が弱いというわけでもないのに、なぜかうるっときてしまう。これは観客である僕が70分の時間を登場人物たちと共有したからこその感情で、時間芸術たる映画のマジックと言えるかもしれない。いかにして物語に没入させるかがエンターテイメントの要諦だとすれば、本作はその辺ばっちり成功していると思う。

テレビシリーズも劇場版も、自然と触れ合う楽しさを描いているところは変わらない。テレビシリーズでは、限界集落ならではの牧歌的な暮らしが郷愁を誘った。それに対して劇場版は、シュノーケリングで海の美しさを、カヤックで森と河川の魅力をそれぞれ示していて、一本の映画で違った風景を並行して見せているのが印象的だった。僕も子供の頃は田舎で生活していたけれど、田舎といっても中途半端な田舎で、せいぜい山に入ってカブト虫を獲ったり、川に行って魚釣りをしたり、ごく平凡な遊びしかしてなかった。思えば、自然なんてろくになかった。だから、本作で描かれる自然はとても眩しく魅力的に映る。都会で暮らしている人なら尚更そう見えるのではなかろうか。

というわけで、本作はひとときの現実逃避にちょうどいいかもしれない。自然っていいなあって素直に思える。見るのだったらまずはテレビシリーズから。

 

 

*1:「slice of life」ってやつね。