海外文学読書録

書評と感想

スティーヴン・ミルハウザー『ある夢想者の肖像』(1977)

★★★

1950年代のコネティカット州。語り手のアーサーは退屈と倦怠に塗れた凡庸な少年期を送っていた。そんななか、彼は自分の分身のような少年ウィリアムと出会う。その後、拳銃でロシアンルーレットをするフィリップ、不登校で人形とひきこもっているエリナなど、同年代の少年少女と親交を深める。

フィクションとは想像力の根源的な営みであり、その唯一の目的は世界に取って代わることである。この目的を遂げるために、フィクションは使いうるすべての手立てを――抹殺せんと図るまさにその世界も含めて――活用する構えである。ユダがキリストを模倣するように、芸術は自然を模倣する。(p.33)

ほとんどが緻密な描写で成り立っている白昼夢のような小説だった。デビュー作の『エドウィン・マルハウス』【Amazon*1が伝記のパロディだったのに対し、長編2作目の本作は、ジュヴナイルの骨格を持ちながらもその枠組みを超える野心的な小説になっている。どちらかというとストーリーは二の次で、語り手の観察と認識を事細かに書くことが目的になっているような感じだ。一見すると自然主義文学のようにも思えるけど、読み味としてはそこまで固くはなく、一人称のフィルターを通して世界の豊かさを描き出す、そういう魅惑に満ちた彩りのようなものがある。最初はただただ読みづらくて困惑したものの、中盤まで読んだら本作の意図が分かってきたので、とりあえず最後まで読み通した。もしこれが初ミルハウザーだったら、間違いなく途中で投げ出していただろう。この著者の小説を何作か読んで、ちゃんと作者との信用取引が成立していたから読み通せた。少なくとも駄作ではないだろうという確信があったから読み通せた。

語り手はやたらと「退屈」「退屈」言っていて、子供時代ってそんなに退屈だろうかと疑問に思ったけれど、彼らがやっている遊びといったら2人で卓球やトランプ、モノポリーといった辛気臭いものばかりで、そりゃ退屈なのも仕方がないと思った。僕が子供の頃はとにかくテレビゲームばかりで、一人でいるときもテレビゲーム、友達といるときも一緒にテレビゲーム、そして、それに飽きたらメンバーを集めて野球やサッカーをやるという生活だった。今みたいにインターネットはなかったので、確かに退屈だったかもしれない。その点、現代の子供は恵まれているんじゃないかなあ。ソシャゲやツイキャスSNSなど、娯楽に溢れていて暇つぶしには事欠かない。時々思うのだけど、僕は生まれる時代が早すぎたのではないか。ネットが普及した時代に生まれていたら、今より充実した人生が送れただろう。

「死」というのが本作の根底に流れていて、それはフィリップが持っている拳銃だったり、エリナと執り行う死の儀式だったり、随所でクローズアップされながら不可避的な結末を迎える。やはり退屈と死はセットなのだろう。拳銃については中村文則の『銃』【Amazon】を思い出した。拳銃は死と隣接しているからこそ魅力的なのだ。それを所持していたら、引き金を引く誘惑にはまず勝てない。

本作は初心者向けの小説ではないので、人には勧めない。ただ、読めば間違いなく経験値は上がり、小説観が広がるだろう。僕は文学を極めたいと思っているので、とりあえずいい経験ができた。

*1:これは掛け値なしの傑作で、個人的にはオールタイム・ベスト級である。

ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2005)

★★★

ニューヨーク。アメリカ同時多発テロ事件で宝石商の父を亡くした「ぼく」が、遺品から鍵を見つける。その鍵は何に使うのか不明だった。唯一のヒントは「Black」という単語。「ぼく」は土曜日と日曜日を使って、ニューヨークに住むブラックという名前の人たちを全員見つけようと決意する。「ぼく」は100歳になる元従軍記者のミスター・ブラックと知り合い、彼とブラック探しをするのだった。

その夜ぼくはベッドのなかで、ニューヨークじゅうのまくらの下を通って貯水池につながる特別な排水管を発明した。夜、泣きながら寝る人がいたら、涙が同じ場所に流れていって、朝に天気予報が涙の貯水池の水位が上がったとか下がったとか報告すれば、ニューヨークの靴が重いかどうかわかる。それで、ほんとうにおそろしいことがあったときは――核爆弾とか、生物兵器攻撃とかでも――ものすごくうるさいサイレンが鳴りだして、みんなにセントラルパークに来て貯水池のまわりに砂ぶくろを置くように伝えるんだ。(p.53)

傷ついた少年の回復の物語を実験的手法で書いている。と同時に、アメリカ文学らしく家族小説の要素も強い。本作はポスト9.11を代表する小説のようで、2011年にはスティーブン・ダルドリー監督によって映画化【Amazon】された。

たびたびこのブログに書いているように、21世紀のアメリカ文学は「どのようにして語るか」という部分に恐ろしいくらい拘っている。写真や図表を挿入するのはもはや当たり前、さらに本作の場合は、黒字のテキストに手書き風の赤字を重ねたり、テキストの行間がだんだん狭まって遂には真っ黒になったり、ヴィジュアル的に目を引くような構成になっている。こういうのは『紙葉の家』と同様、作者の着想よりも印刷会社のほうを褒めたい気分だが、それにしても、なぜ21世紀のアメリカ文学はこうもアーティスティックになったのだろう? 残念ながら僕には答えが分からない。ただ、自分なりの仮説を述べると、インターネットの影響が大きいんじゃないかと思う。

たとえば、Webサイトでは写真や画像を簡単に貼ることができし、テキストもCSSを使って色やサイズや行間を好きに変更できる。レイアウトだって知識さえあれば自由自在だ。日本では2000年代初頭にテキストサイトなるものが流行って、視覚的にインパクトを与えるような表現がふんだんに使われた。アメリカのネット事情はさっぱり分からないが、「どのようにして語るか」にあたってこの自由さが持ち込まれたとしたら、それは素敵なことだ。僕もネットの表現にはだいぶ影響を受けたから。活版印刷の誕生によってタイポグラフィが生まれ、それがネットに移植されてカジュアル化し、そしてその成果が活字メディアに逆輸入される。そういう経路を辿っていたら面白い。

イノセンスアメリカ文学のキーワードのひとつで、たとえば『ハックルベリー・フィンの冒険』【Amazon】や『キャッチャー・イン・ザ・ライ』【Amazon】はその代表格だ。端的に言うと、少年にはイノセンスがあるはずだという考え。

このアメリカ文学におけるイノセンスについて、作家の池澤夏樹は次のように述べている*1

実はこれは、アメリカが自分自身に対して言おうとしてきたことなのです。アメリカは若い国である。ヨーロッパのように罪を知らない、まだ穢れていない。なぜならば、罪のない悔い改めた清らかな人たちだけが、メイフラワー号で渡ってきて造った国だから。アメリカはイノセントである、という信念が、最初にあるわけです。(p.296)

本作もこのイノセンスが重要な役割を果たしていて、主人公はその系譜に連なる無垢な少年だ。アメリカ同時多発テロ事件で父を亡くし、精神的に大いに傷ついた9歳の少年。そんな彼が失われた父の残像を追ってニューヨークを冒険する……。ただ、これが一方的にアメリカのイノセンスを表現しているのかと言えばそうではなく、作中ではドレスデン爆撃や広島への原爆投下などにも触れている。どちらもアメリカが深く関わっていることは言うまでもないだろう。決して真っ白とは言えないアメリカの歴史。文学も時代によってアップデートされているのだった。

*1:出典は『世界文学を読みほどく: スタンダールからピンチョンまで【増補新版】』【Amazon】。

ケン・リュウ編『折りたたみ北京』(2016)

★★★

アンソロジー。陳楸帆「鼠年」、陳楸帆「麗江の魚」、陳楸帆「沙嘴の花」、夏笳「百鬼夜行街」、夏笳「童童の夏」、夏笳「龍馬夜行」、馬伯庸「沈黙都市」、郝景芳「見えない惑星」、郝景芳「折りたたみ北京」、糖匪「コールガール」、程婧波「蛍火の墓」、劉慈欣「円」、劉慈欣「神様の介護係」、劉慈欣「ありとあらゆる可能性の中で最悪の宇宙と最良の地球:三体と中国SF」、陳楸帆「引き裂かれた世代:移行期の文化における中国SF」、夏笳「中国SFを中国たらしめているものは何か?」の16編。

「娼婦に自分の男がいちゃいけない? 彼はうしろからやるのが好きなの。だからそこにフィルムを貼って、客に教えてるのよ。いくら金を積んでも買えないものがあるってことを」(p.76)

現代中国SFをケン・リュウが英語に翻訳して、世界に紹介したというのが本書。

以下、各短編について。

陳楸帆「鼠年」。西側同盟との貿易戦争が起きている21世紀。遺伝子改造によって作られた鼠(ネオラット)が大量に野に放たれた。それを「僕」たちが小隊に入って駆除する。狩る者と狩られる者の立場が曖昧になって、自分たちがゲームの駒に過ぎないと悟るの虚しいよな。個人ではどうにもならないし。あと、我々は鼠やGといった不衛生な生き物を毛嫌いし、本能的にそれを駆除しようとするけれど、中にそういう生き物に共感する場合もあって、そんな思考実験が面白かった。

陳楸帆「麗江の魚」。精神の病気に罹った「僕」が、リハビリのため10年ぶりに麗江を再訪する。そこで同じくリハビリをしている看護師の女性と出会う。意外な真相が隠れていて面白かった。陰と陽という考え方は中国ならではのものだろうか。そして、我々は生き方を自由に選んでいるようで実はそうではない。水路の魚と同じなのだ。

陳楸帆「沙嘴の花」。沙嘴村に滞在している「僕」が、娼婦の雪蓮と知り合う。「僕」には表沙汰にできない過去があった。やがて雪蓮に困った事態が起きたため、「僕」が力を貸す。この著者はなかなかエモい小説を書くなあと思った。テクノロジーを掻い潜って示される人間というものの業。ラストがすごい。

夏笳「百鬼夜行街」。百鬼夜行街で唯一の生者である「ぼく」は、大人になったらここを出ていかなければならない。ところが……。当初は『ゲゲゲの鬼太郎』【Amazon】を思い浮かべながら読んでいたけど、それが途中から『攻殻機動隊』【Amazon】になった。機械の体にゴースト(魂)は宿るのか? みたいな。

夏笳「童童の夏」。童童の住んでいる家に祖父が引っ越してくる。祖父は怪我で介護を必要としていた。数日後、父が阿福というロボットを持ってくる。このおじいちゃんがなかなか偏屈だったけれど、しかし最後まで読んだら心温まる話でとても良かった。こういうの大好き。ロボットを使って要介護者同士で介護し合うというのは盲点だった。日本も中国も介護事情は変わらないね。

夏笳「龍馬夜行」。人がいなくなって廃墟になった世界。鉄の体でできた龍馬が、旅の途中で蝙蝠と出会う。中国みたいに豊穣な神話があると、SFもこういう幽玄な物語になるのかと感慨深くなった。機械に魂が宿るという考え方は、『ドラえもん』【Amazon】の専売特許じゃないんだな。

馬伯庸「沈黙都市」。2046年。世界は一つの国だけが存在していた。そこは言語を規制した監視社会であり、ウェブもリアルも著しい制限を受けている。そんななか、プログラマーのアーバーダンが、会話クラブという非合法な秘密クラブと出会う。これはディストピアSFの傑作では。『一九八四年』【Amazon】を踏まえつつ、特に言語に焦点を当てているところが素晴らしい。要注意語を規制するシステムから健全語だけを許可するシステムに転換するあたりはぞっとする。こういうのを読むと、我々の社会もいつかこうなるのでは? と想像してしまう。ああ、恐ろしい。

郝景芳「見えない惑星」。「僕」が「きみ」に今まで見てきた惑星の話をする。これは『見えない都市』【Amazon】を惑星に置き換えたオマージュだろうか。こういう架空の生態系をぽんぽん思いつくのってすげーわ。想像力の極みである。

郝景芳「折りたたみ北京」。24時間ごとに世界が回転して交替する都市・北京。そこは貧富の差によって居住スペースが3つに分かれていた。第三スペースに住む老刀(ラオ・ダオ)が、依頼人から預かったブツを届けるべく非合法に第一スペースに潜入する。本作を読んで真っ先に思い出したのが、中国で格差を生んでいる農村戸籍都市戸籍。現実でも空想でも、経済的な恩恵を受けられるのは人口のごく一部なのだ。それがこの世界の残酷な側面である。

糖匪「コールガール」。15歳の少女が金持ちの中年男に車の中で……。タイトルで想像されるような出来事を上手くずらしているところが面白かった。SFの世界ならこういうサービスもあるよな。むかし河出書房新社奇想コレクションというシリーズを出版していたけれど、本作はそれに収録されてそうな感じ。

程婧波「蛍火の墓」。ロザマンドと母が〈無重力都市〉へ。母は魔術師に会いに城のなかに入る。母をめぐる恋物語はなかなかせつないものがあるな。本作は童話っぽいシチュエーションとSF要素がいい感じに溶け合っている。

劉慈欣「円」。燕の太子丹から秦王政のもとに刺客として送り込まれた荊軻は、任務を放棄して政に仕える。2年後、不老不死の秘密を得るべく円周率を求めることになるが……。これは捻りが効いていて面白かった。当時の歴史について一通りの知識があるとなお面白い。300万人の兵士を使って円周率を求める光景はさぞ壮観だろうなあ。

劉慈欣「神様の介護係」。地球に大量の宇宙船が到来、彼らは地球で人類を繁栄させた神だった。ところが、神は年老いており、50億人の地球人で20億人の神を介護することに。これは壮大な話で面白かった。ユーモアとペーソスとアイロニーが絶妙にブレンドされている。あれよあれよと様々な真相が暴露されるくだりはわくわくしたし、何よりラストのセリフが最高だった。

劉慈欣「ありとあらゆる可能性の中で最悪の宇宙と最良の地球:三体と中国SF」。中国SFが清王朝末期に誕生したという事実に驚いた。そんなに歴史があったとは。あと、改革開放路線によって西洋SFからの影響をもろに受けるようになったそうだけど、個人的には影響を受ける前の原始的な中国SFが読みたい。

陳楸帆「引き裂かれた世代:移行期の文化における中国SF」。1978年以降に生まれた中国人は「引き裂かれた世代」に属するらしい。価値観もライフスタイルも多様化しているとか。しかし、その最初の世代ってもう中年だよな。

夏笳「中国SFを中国たらしめているものは何か?」。最初期の中国SFが「中国の夢(チャイニーズ・ドリーム)」の確立を表現して、そこからしばらくは理想を語っていたという。昔の中国SF、ますます読みたくなってきたぞ。歴史的資料として。

村上春樹『騎士団長殺し』(2017)

★★★

画家の「私」は、6年連れ添った妻から突然別れを切り出される。「私」はそれを了承して家から出ていき、友人の伝手で高名な日本画家が住んでいた山荘を借りる。ひょんなことから「私」は、屋根裏で「騎士団長殺し」と題された未発表の絵を見つけるのだった。その後、免色と名乗る謎の人物から肖像画を描くよう依頼される。

彼女はため息をついた。あちこちのため息をひとつにまとめ、圧縮したようなため息だった。そして言った。「あなたが今ここにいるといいと思う。そして後ろから入れてくれるといいなと思う。前戯とかそういうのはとくにいらない。しっかり湿ってるからぜんぜん大丈夫よ。そして思い切り大胆にかき回してほしい」(上 p.269)

ハードカバーで読んだ。引用もそこから。

本作は相変わらずの村上節で、期待していたほどではないものの、しかしそれなりに読書の楽しみを味わわせてくれた。喪失を抱えた「私」の生活に非現実が入り込み、ファンタスティックな回路によるイニシエーションを経て、最後はめでたく大団円を迎える。村上春樹の小説がなぜベストセラーになっているかと言えば、近代以前の古典文学における異界の伝統を、現代人向けにソフィスティケートして提供しているからだろう。核の部分には異界という日本文学の伝統があって、その周りを欧米の文学や音楽といった外来文化で包んでいる。要するに和洋折衷ってやつだ。個人的に村上春樹の小説は、『源氏物語』【Amazon】にまで遡る古典文学の発展的進化形という位置づけだけど、しかしこんなことを書いたら一部の文学ファンに噛みつかれそうだ。あんなの二流のポルノ作家だろ、みたいに。でも、村上春樹って日本文学の文脈から外れた世界文学の作家だと思われがちだけど、実は彼こそが正統派ど真ん中の日本文学なのだということを僕は主張したい。

本作を読んで驚いたのが、「私」を含めた主要人物が子供を持つことだった。今までの村上文学ではあり得ない展開だろう。しかし振り返ってみれば、『1Q84』【Amazon】ではそれまで徹底的に避けていた父との関係を正面から書いていたので、少しずつ課題を克服しているような趣がある。若い頃に目を背けていたものに向き合い、1作ごとに精算しているというか。だから著者の小説を年代順に読んでいくと、だんだんと成熟しているのが分かる。ターニングポイントになったのが、2002年に発表された『海辺のカフカ』【Amazon】だろう。ここから成熟がスタートしている。

ところで、中国文学研究者の藤井省三は、『世界は村上春樹をどう読むか』Amazon】のなかで次のように述べている。

日本には二十世紀の初めと終わりにそれぞれ強い歴史意識を文学で語ろうとした作家が登場しました。ひとりは夏目漱石です。漱石の歴史意識というのは日本近代の終わりへの予感でした。具体的に言いますと、日本の上海から朝鮮半島まで東アジア進出に対するひじょうに大きな憂慮です。この憂慮のあまり漱石は、中国人留学生に襲われたと言いたてる「夜の支那人」事件を起こすなど、神経衰弱に陥りました。もうひとりは村上春樹です。村上の歴史意識というのは現代日本から過去を振り返る「歴史の記憶」です。(p.204)

「歴史の記憶」というと、『ねじまき鳥クロニクル』【Amazon】に出てきたノモンハン事件を真っ先に思い出すけれど、実は本作にもそういう要素が出てくる。すなわち、ナチスによるアンシュルスと旧日本軍による南京虐殺事件だ。戦争を体験した世代が次々と亡くなっている現在、文学がこういった負の歴史に目を向けるのはますます重要になっていると僕は思っていて、読者が自然に飲み込める形、つまり作劇上の内的必然性を持った形で歴史に言及しているところが好ましい。ただ、欲を言えば、この要素を終盤にまで持ち越して、びしっとダメ押ししておけば強い印象を残したと思う。読後は、「そういえば、そんなこともあったな」程度にしか覚えてない。これはちょっと残念だった。

まあ、何だかんだ言って村上春樹は気になる作家なので、新作が出たらこれからも読んでいくつもりだ。今回みたいにブログでも取り上げるかもしれない。

ジョナサン・フランゼン『フリーダム』(2010)

★★★

ミネソタ州セントポール。学生時代に女子バスケットボールの花形選手だったパティは、知性溢れる苦労人ウォルターと結婚して2人の子供をもうけていた。一家は地元の善き住人として幸せな家庭を築いているように見えたが、そこには小さいひび割れが。反抗心旺盛の息子ジョーイは家から出ていき、パティはウォルターの友人リチャードと不倫する。

ふとパティの脳裏にやけにくっきりと、何やらパワーポイント風の氏名リストが浮かんだ。善良さによる降順リストで、いちばん上はもちろんウォルター、次いで僅差でジェシカ、少し離れてジョーイとリチャード、そして大きく引き離された最下位に、ぽつんと一つ自分の醜い名前。(p.238)

いかにもアメリカ文学という感じの家族小説だった。人口問題や環境問題、ポスト9.11のイスラエル問題など、社会的トピックをふんだんに盛り込みながら、円満な家族が壊れていく様をじっくりと描いていく。中流階級の不倫という題材は20世紀で終わったものだと思っていたけれど、本作を読む限りではそうではないみたいだ。郊外に住む善良そうな家族も、一皮剥くと危ういバランスの上に立っている。我々が歩む人生の行く手にはぽっかりと大きな穴があいていて、それを回避するのは容易ではないということだろう。結婚して、子供を育て、穏やかな老後を過ごす。そのような「普通の人生」を送ることのいかに難しいことか!

本作を読んでいて、「ああ、こういう人物って実際にいそうだなあ」と不思議なリアリティを感じたのだけど、しかしこれってよく考えたら、映画やドラマに出てくるようなアメリカ人のステロタイプを描いているからかもしれない。ヨーロッパ文学を読んだときのリアリティとはまた一味違うのだ。あちらは緻密に心理の襞を構築した果てのリアリティなのに対し、こちらは「どこかで見たことがあるぞ」という感じのリアリティ*1なのである。しかし、だからと言って心理が書けてないのかと言えばそうではなく、不倫に向けて揺れに揺れる複雑な心境を説得力のある形で捉えている。こういった人物造形の仕方は、ひょっとしたら国ごとに何らかの傾向があるのかもしれない。僕が日本文学にあまりリアリティを感じないのも、そこら辺のメソッドに原因がありそうだと思った。

登場人物が地球規模の問題に首を突っ込んで、世界をより良くしよう奮闘しているところは、日本に住む僕にとってはかなり異質な感じがした。国際政治学者のヘンリー・キッシンジャーは、その著書*2のなかで、「米国の特異性はその伝道好きにあって、自らの価値観を世界の隅々にまで広める義務を負っているという考えを持っている」と述べている。本作を読む限り、その特異性は個人レベルにまで浸透していて、たとえばウォルターなんかは環境リベラルの権化みたいになっていた。彼みたいに世界の公益に尽くすのって、やはり教育の賜物なのだろうか。他にも、共和党支持派と民主党支持派の違いが浮き彫りになっているところが面白い。その国の細かい事情が垣間見えるところがドメスティックな作品の魅力である。

21世紀になったとはいえ、現実のアメリカは相変わらず離婚率が高くて家族が崩壊している。だから本作みたいな再生の物語に需要があるのだろう。アクチュアルな問題に一定の理解を示しつつも、個人的にこの手の話は食傷気味なのだった。

*1:たとえば、登場人物が抗うつ剤を飲んだり、手首を切ったりしているなんて、いかにも現代のアメリカ人ではないか。

*2:キッシンジャー回想録 中国』【Amazon】。