海外文学読書録

書評と感想

ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2005)

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

 

★★★

ニューヨーク。アメリカ同時多発テロ事件で宝石商の父を亡くした「ぼく」が、遺品から鍵を見つける。その鍵は何に使うのか不明だった。唯一のヒントは「Black」という単語。「ぼく」は土曜日と日曜日を使って、ニューヨークに住むブラックという名前の人たちを全員見つけようと決意する。「ぼく」は100歳になる元従軍記者のミスター・ブラックと知り合い、彼とブラック探しをするのだった。

その夜ぼくはベッドのなかで、ニューヨークじゅうのまくらの下を通って貯水池につながる特別な排水管を発明した。夜、泣きながら寝る人がいたら、涙が同じ場所に流れていって、朝に天気予報が涙の貯水池の水位が上がったとか下がったとか報告すれば、ニューヨークの靴が重いかどうかわかる。それで、ほんとうにおそろしいことがあったときは――核爆弾とか、生物兵器攻撃とかでも――ものすごくうるさいサイレンが鳴りだして、みんなにセントラルパークに来て貯水池のまわりに砂ぶくろを置くように伝えるんだ。(p.53)

傷ついた少年の回復の物語を実験的手法で書いている。と同時に、アメリカ文学らしく家族小説の要素も強い。本作はポスト9.11を代表する小説のようで、2011年にはスティーブン・ダルドリー監督によって映画化【Amazon】された。

たびたびこのブログに書いているように、21世紀のアメリカ文学は「どのようにして語るか」という部分に恐ろしいくらい拘っている。写真や図表を挿入するのはもはや当たり前、さらに本作の場合は、黒字のテキストに手書き風の赤字を重ねたり、テキストの行間がだんだん狭まって遂には真っ黒になったり、ヴィジュアル的に目を引くような構成になっている。こういうのは『紙葉の家』と同様、作者の着想よりも印刷会社のほうを褒めたい気分だけど、それにしても、なぜ21世紀のアメリカ文学はこうもアーティスティックになったのだろう? 残念ながら僕には答えが分からない。ただ、自分なりの仮説を述べると、インターネットの影響が大きいんじゃないかと思う。たとえば、Webサイトでは写真や画像を簡単に貼ることができし、テキストもCSSを使って色やサイズや行間を好きに変更できる。レイアウトだって知識さえあれば自由自在だ。日本では2000年代初頭にテキストサイトなるものが流行って、視覚的にインパクトを与えるような表現がふんだんに使われた。アメリカのネット事情はさっぱり分からないけれど、「どのようにして語るか」にあたってこの自由さが持ち込まれたとしたら、それは素敵なことだと思う。僕もネットの表現にはだいぶ影響を受けたからね。活版印刷の誕生によってタイポグラフィが生まれ、それがネットに移植されてカジュアル化し、そしてその成果が活字メディアに逆輸入される。そういう経路を辿っていたら面白いと思う。

イノセンスアメリカ文学のキーワードのひとつで、たとえば『ハックルベリー・フィンの冒険』【Amazon】や『キャッチャー・イン・ザ・ライ』【Amazon】はその代表格だ。端的に言うと、少年にはイノセンスがあるはずだという考え。

このアメリカ文学におけるイノセンスについて、作家の池澤夏樹は次のように述べている*1

実はこれは、アメリカが自分自身に対して言おうとしてきたことなのです。アメリカは若い国である。ヨーロッパのように罪を知らない、まだ穢れていない。なぜならば、罪のない悔い改めた清らかな人たちだけが、メイフラワー号で渡ってきて造った国だから。アメリカはイノセントである、という信念が、最初にあるわけです。(p.296)

本作もこのイノセンスが重要な役割を果たしていて、主人公はその系譜に連なる無垢な少年だ。アメリカ同時多発テロ事件で父を亡くし、精神的に大いに傷ついた9歳の少年。そんな彼が失われた父の残像を追ってニューヨークを冒険する……。ただ、これが一方的にアメリカのイノセンスを表現しているのかと言えばそうではなく、作中ではドレスデン爆撃や広島への原爆投下などにも触れている。どちらもアメリカが深く関わっていることは言うまでもないだろう。決して真っ白とは言えないアメリカの歴史。文学も時代によってアップデートされているのだなあと感心したのだった。

*1:出典は『世界文学を読みほどく: スタンダールからピンチョンまで【増補新版】』【Amazon】。