海外文学読書録

書評と感想

ジョナサン・フランゼン『フリーダム』(2010)

★★★

ミネソタ州セントポール。学生時代に女子バスケットボールの花形選手だったパティは、知性溢れる苦労人ウォルターと結婚して2人の子供をもうけていた。一家は地元の善き住人として幸せな家庭を築いているように見えたが、そこには小さいひび割れが。反抗心旺盛の息子ジョーイは家から出ていき、パティはウォルターの友人リチャードと不倫する。

ふとパティの脳裏にやけにくっきりと、何やらパワーポイント風の氏名リストが浮かんだ。善良さによる降順リストで、いちばん上はもちろんウォルター、次いで僅差でジェシカ、少し離れてジョーイとリチャード、そして大きく引き離された最下位に、ぽつんと一つ自分の醜い名前。(p.238)

いかにもアメリカ文学という感じの家族小説だった。人口問題や環境問題、ポスト9.11のイスラエル問題など、社会的トピックをふんだんに盛り込みながら、円満な家族が壊れていく様をじっくりと描いていく。中流階級の不倫という題材は20世紀で終わったものだと思っていたけれど、本作を読む限りではそうではないみたいだ。郊外に住む善良そうな家族も、一皮剥くと危ういバランスの上に立っている。我々が歩む人生の行く手にはぽっかりと大きな穴があいていて、それを回避するのは容易ではないということだろう。結婚して、子供を育て、穏やかな老後を過ごす。そのような「普通の人生」を送ることのいかに難しいことか!

本作を読んでいて、「ああ、こういう人物って実際にいそうだなあ」と不思議なリアリティを感じたのだけど、しかしこれってよく考えたら、映画やドラマに出てくるようなアメリカ人のステロタイプを描いているからかもしれない。ヨーロッパ文学を読んだときのリアリティとはまた一味違うのだ。あちらは緻密に心理の襞を構築した果てのリアリティなのに対し、こちらは「どこかで見たことがあるぞ」という感じのリアリティ*1なのである。しかし、だからと言って心理が書けてないのかと言えばそうではなく、不倫に向けて揺れに揺れる複雑な心境を説得力のある形で捉えている。こういった人物造形の仕方は、ひょっとしたら国ごとに何らかの傾向があるのかもしれない。僕が日本文学にあまりリアリティを感じないのも、そこら辺のメソッドに原因がありそうだと思った。

登場人物が地球規模の問題に首を突っ込んで、世界をより良くしよう奮闘しているところは、日本に住む僕にとってはかなり異質な感じがした。国際政治学者のヘンリー・キッシンジャーは、その著書*2のなかで、「米国の特異性はその伝道好きにあって、自らの価値観を世界の隅々にまで広める義務を負っているという考えを持っている」と述べている。本作を読む限り、その特異性は個人レベルにまで浸透していて、たとえばウォルターなんかは環境リベラルの権化みたいになっていた。彼みたいに世界の公益に尽くすのって、やはり教育の賜物なのだろうか。他にも、共和党支持派と民主党支持派の違いが浮き彫りになっているところが面白い。その国の細かい事情が垣間見えるところがドメスティックな作品の魅力である。

21世紀になったとはいえ、現実のアメリカは相変わらず離婚率が高くて家族が崩壊している。だから本作みたいな再生の物語に需要があるのだろう。アクチュアルな問題に一定の理解を示しつつも、個人的にこの手の話は食傷気味なのだった。

*1:たとえば、登場人物が抗うつ剤を飲んだり、手首を切ったりしているなんて、いかにも現代のアメリカ人ではないか。

*2:キッシンジャー回想録 中国』【Amazon】。