海外文学読書録

書評と感想

黒沢清『CURE』(1997/日)

CURE

CURE

  • 役所広司
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★★★★

連続殺人事件が発生。犯行の手口はどれも同じでX字に首が切り裂かれていた。ところが、犯人はみな違っていて犯行後にそれぞれ逮捕されている。刑事の高部(役所広司)は取調をするも、なぜ共通した手口なのか分からない。一方、海岸では記憶喪失の男がうろついていた。衣服のタグから間宮(萩原聖人)と分かるが、身元は不明である。彼は色々な人たちと関わっていく。

精神医学を題材にしたサスペンス。ツボを押さえた内容でかなり面白い。物事の因果関係をはっきりさせず、曖昧にしたからこそ余韻があるのだろう。間宮がなぜあんなことをしているのか全然分からないし、そもそも本当に記憶喪失なのかも怪しい。確かに中盤まではそれっぽい挙動を見せるが、高部との邂逅を果たしてからははっきりとした意思を見せている。彼が何に突き動かされているのかまったくの謎だ。ある意味ではウイルスのようでもあるし、何かしらの本能に従っているようにも見える。彼は精神科医の佐久間(うじきつよし)から「伝道師」と呼ばれるが、その能力は伝染するようで、それが不気味なラストシーンに繋がっている。こういった構成は見ていて好奇心をそそられる。見終わった後の余韻が半端なかった。

間宮という男は触媒である。言葉で相手を操って人を殺させる。彼自身は空洞で他人を動かす装置に過ぎない。面白いのはその手口だろう。彼は常に問いかける。「あんた誰?」と相手のアイデンティティに揺さぶりをかけるのだ。彼と対話を始めたら最後、相手は催眠状態になって罪を犯してしまう。ここで注目したいのは質問が孕む暴力性だ。間宮が相手に「あんた誰?」と問いかける。相手はそれに答える義務はないのだが、質問は質問したほうに主導権があるため、予め腹を決めていないとつい答えてしまう。それが間宮の思うツボなのだ。質問して相手に答えさせることで対話に持っていく。こういった会話の手筋は我々も日常的に行っているが、質問が孕む暴力性には無自覚だ。質問は会話の糸口になる反面、質問したほうが主導権を握って相手に応答の義務を負わせてしまう。間宮は記憶喪失で自分のことは何も話さない一方、相手には質問をして巧みに自己開示を迫っていく。このように抜け目のない挙動がホラーだった。

トランスジェンダー界隈では「ノーディベート」「ノープラットフォーム」というタームがある。すなわち、トランスヘイターとは議論をしないし、発言の場を与えないという意味だ。このタームは2023年、アビゲイル・シュライアーの「トランスヘイト本」がKADOKAWAから出版されようとした際、TRA(Transgender Rights Activist)の抗議によって出版中止にされたことで有名になった。この本は後に産経新聞出版から『トランスジェンダーになりたい少女たち』【Amazon】という邦題で出版されることになる。結果的にTRAは出版を阻止できなかったが、彼らの「ノーディベート」「ノープラットフォーム」という手法は悪質なキャンセルカルチャーとして一定の批判を浴びた。

本作を見て思い出したのがこの手法で、質問で主導権を握る間宮に対し、「ノーディベート」「ノープラットフォーム」を貫けば被害を防ぐことができたはずだ。相手の言うことに耳を貸さない。相手に発言権を与えない。こういった手法は言葉を駆使する我々にとっては時に有効な手段になる。それは甚だしい人権侵害を伴うが、それゆえにサディスティックな魅力に富んでいる。キャンセルカルチャーの手法もバカにできたものではないと思った。