海外文学読書録

書評と感想

黒澤明『醜聞』(1950/日)

★★★

画家の青江一郎(三船敏郎)がバイクで伊豆にやってきて山をスケッチしている。そこに声楽家の西條美也子(山口淑子)が登場。青江は彼女を旅館に送り届ける。旅館の部屋で2人きりで談笑していたところ、ゴシップ記者に写真を撮られてしまった。スキャンダルをでっち上げられた青江は出版社を提訴することに。そこへ弁護士の蛭田(志村喬)が売り込みにやってきた。

志村喬の演技は大袈裟であまり好きではないが、ここまで大袈裟にしないとドストエフスキー的人物は表現できないから難しい。つまり、彼が演じる蛭田は人間的な弱さによるルサンチマンを抱えており、それを乗り越えようとして一線を越えている。蛭田はとある機会にそのことをくだくだしく喋り散らかすが、根が悪人じゃないから悪人に徹することができない。金のために青江を裏切ったものの、青江は自分の身内に親切にしてくれた。良心の重みが彼を苦しめている。蛭田は自己嫌悪に駆られて自分のことをウジ虫となじるのだった。

こういう弱い人物を表現するにはやはり演劇的にならざるを得ないのだろう。蛭田が裏切った青江は蛭田と違って純粋無垢な性格である。見た目からして男らしいし、中身も真っ直ぐで男らしい。邪なところは何一つない星のような人物だ。青江は不当な物事に対して断固として立ち向かう勇気を持っており、そんな好漢と対比されることで蛭田の弱さが際立っている。蛭田の卑屈な態度はいちいち大袈裟だが、ドストエフスキー的人物を映像で表現するとこうなってしまうのは仕方がない。アニメだったらはまる表現も実写だとはまらないことはよくあることだ。小説のような人物を人間が演じるのは難しいのである。本作には実写映画の限界が刻印されていた。

蛭田には娘・正子(桂木洋子)がいる。結核で寝たきりだ。彼女は聖女みたいな存在で、不治の病によって聖性が強調されている。正子は父を疑っていた青江の心を浄化し、最終的には父の心も浄化した。彼女は父と同じドストエフスキー的人物であり、いささか単純化された聖女の記号として物語を動かしていく。蛭田の周りは正子を筆頭に、青江、美也子と無垢な人物ばかりだ。その図式的な人間模様にはいまいち乗れないものの、星が生まれる瞬間を描く布石としては重要で、ラストのヒューマニズムに一点集中させた工夫は認められる。ここで重要なのはクリスマスパーティーで蛍の光を合唱するシーンだろう。このシーンでは歌が蛭田の心に訴えかける様子を観客が追体験できるようになっている。本作はウェットなエモーションとは裏腹に作劇はドライで、図式的な人間模様と計算され尽くした名シーンの混在が目を引く。どうやったら観客を感動させられるのか。そのことに注力していることが窺えた。

本作は『醜聞』というタイトルのわりに醜聞は大して重要ではなく、蛭田の回心に焦点を当てている。青江の醜聞をでっち上げたマスコミは単純化された悪に過ぎない。そこは少し物足りなかった。