海外文学読書録

書評と感想

今村昌平『神々の深き欲望』(1968/日)

★★

南海の孤島・クラゲ島。太根吉(三國連太郎)は鎖に繋がれて巨石を取り除くための穴掘りに従事している。それは20年前に妹・ウマ(松井康子)と近親相姦したのが神の怒りに触れたからだった。ウマは現在、島の区長・竜立元(加藤嘉)のところで愛人として囲われている。そんななか、東京から技師の刈谷北村和夫)が工場建設の調査をしにやって来る。根吉の息子・亀太郎(河原崎長一郎)が助手になった。亀太郎には妹・トリ子(沖山秀子)がいるが、彼女は気が触れている。

作り手の熱量は伝わってくるが、見ていて全然面白くない。そもそも近代国家の内側にこんな原始的な島なんてないだろう。土人のくせにみんな標準語を喋っているし、因習も風習もすべてが嘘臭い。そして、こういう映画に限って尺が長く、175分(2時間55分)もあるのだから困ったものだ。正直、途中で切るかどうか迷いながら見た。

島民は神や迷信を信じている。若い世代も迷信を迷信と断じながらも、その迷信に逆らえない。言葉では強がっても心と体は神に従っている。そもそも神というのは思い通りにいかない自然を受け入れるためのフィクションだが、原始時代の人間はそのフィクションに縛られてどうにもならなかった。神に逆らったらバチが当たると本気で思っている。島民でもっとも近代人に近いのが竜だが、彼でさえその軛から逃れることができない。竜は島のために工場を誘致しつつ水源の調査は妨害している。なぜならその水源は神の井戸だから。一方、竜は神を利用して島民を搾取している節もあって、たとえば、神の怒りを理由に根吉からウマを奪っている。私利私欲のために巫女の予言も操作しようとしていた。島で一番狡猾なのが竜であり、彼が島の頂点に君臨しているのも伊達じゃない。ちょっと頭のいい人間は、神の存在を信じながらも神の掟から逸脱することも厭わないのだろう。そして、その行為が信仰と矛盾しない。彼の中では整合している。中世ヨーロッパの神学者なんてその手合だったではないか。神を恐れる一方でその神を自分のために利用する。こういった竜の造形にはリアリティがあった。

東京から来た技師・刈谷『城』の測量師Kのような状況である。島民は協力しているようで協力していない。それどころか、神の井戸が見つからないよう妨害している。Kは城から拒絶されつつ城の論理に取り込まれないよう抵抗した。それに対し、刈谷は一時的に島に取り込まれてしまう。その道具に使われたのが女だった。新左翼学生運動では女性メンバーによる肉体オルグが常習化していた。それが当時の日本の気運だったのだろう。正常な男なら女の誘惑には抵抗できない。刈谷は最初、ウマの誘惑を撥ねつけた。それはウマが年増だったから。ところが、若いトリ子の誘惑には勝てなかった。刈谷はトリ子にぞっこんはまって島民と同化している。いつの時代も女体が持つ力は強い。そのことを思い知らされた。

ボートで逃げた根吉を島民が追いかけて殺害するシーンは本作で唯一面白かった。仮面を被って獣性を発揮するところは『蝿の王』【Amazon】を彷彿とさせる。櫂で殴りつけてから海に放り込んで鮫の餌にするなんて最高すぎる。