海外文学読書録

書評と感想

シャルル・バルバラ『赤い橋の殺人』(1855)

★★★

パリ。芸術家グループに身を置くマックスは色々な人たちとつき合いがあった。その中にはクレマンという癖の強い人物もいる。クレマンはその日暮らしをしてブルジョワの生活を馬鹿にし、おまけに強固な無神論者でもあった。ところが、今では妻帯して慎ましい生活を送っている。マックスはクレマンから打ち明け話をされることに。

「もし殺人の結果金持ちになり、しかも罰せられない保証があるのなら、そうしない理由はないだろう」(Kindleの位置No.709-710)

映画化されていてもおかしくないような犯罪小説だった。犯罪者が神の不在を主張するところは近代らしいかもしれない。

ここでクレマンは、それまでより断固たる口調になった。

「君はこう確信している。われわれは善悪の感情をもって生まれ、『神』や『摂理』は存在すると。要するに、君は物理の世界を超えたこうしたあらゆる愚劣な考えの餌食になっているのだ。そんなものは人が愚か者どもを利用するために考え出した手段に過ぎない。君からひどい幻想を根こそぎひっぱがしてお人好したちの群れから引きずり出してやりたい! 僕を見たまえ! これこそ僕の喜びであり誇りなのだ。僕はこうした信仰と偏見に対する活発で旺盛な、生ける否定なのだ。そればかりではない。誠実、公正、美徳と呼ばれる価値に対して、巧妙で卑劣な行為がこれほど輝かしい勝利を収めている例がかつてあっただろうか……」(Kindleの位置No.610-617)

罪を犯したクレマンは、「神は存在しない」という思想にしがみつくことで己の行為を正当化していた。『カラマーゾフの兄弟』【Amazon】にも、「神がいなければすべてが許される」と言っていた人物がいたけれど、当時の人にとってはそれくらい神の存否は重要だったのだろう。西洋人の道徳はすべて神の存在によってもたらされている。悪いことをしたら神が罰するから善行を重ねる。死後に天国へ連れていってもらうことを期待する。ところが、その神がいないとなったら何をしてもいいわけだ。物を盗んでもいいし、人を殺してもいい。庶民にとって道徳とはその程度のものなのである。

クレマンは完全犯罪の結果、莫大な富を手に入れた。しかし、何の代償もなかったわけではない。夫婦には息子がいるのだけど、実の父はクレマンが殺した証券仲買人ティヤールだった。妻のロザリはティヤールの愛人の一人であり、その縁で彼の子供を身籠ったのだ。息子の顔はティヤールそっくりだから、否が応でもこちらの罪悪感を掻き立ててくる。ロザリは罪の大きさに耐えきれなかったのか、早々と病死してしまった。残されたのはクレマンとティヤールの遺児のみ。後悔や良心を喚起する存在が生身の人間として刻一刻と成長している。傍から見てこの状況はきつい。妻の死後、クレマンは渡米して大富豪になり、数々の善行を成したけれど、その生涯は常に「痛み」と共にあったのだった。

クレマンの言うように確かに神は存在しない。けれども、彼は罰を受けている。この状況をどう評価すべきだろう? クレマンはロザリが死ぬ前、「罰とか報いとかは人間の気紛れなでっちあげ」と言っていた。ところが、彼はその「気紛れなでっちあげ」を一身に浴びることになった。一生涯、自分が殺した男と向き合うことになった。ティヤールの遺児は罰の象徴である。いくら「神は存在しない」と嘯いても罪悪感からは逃れない。当時は道徳の根拠が神から人に移る過渡期であり、本作はそれを反映しているのだと思う。

ところで、新しい人物が出てくるとまず外見を描写するところはいかにも19世紀文学だった。