海外文学読書録

書評と感想

セルジオ・コルブッチ『スペシャリスト』(1969/伊=仏=独)

★★★

銃の所持が禁じられた町ブラックストーン。そこに凄腕ガンマンのハッド(ジョニー・アリディ)が帰ってくる。ハッドの兄は銀行強盗の濡れ衣を着せられ町の人達にリンチ・殺害されており、その復讐のために帰ってきたのだった。町には銀行家の未亡人バージニア(フランソワーズ・ファビアン)がおり、郊外にはならず者のメキシコ人ディアブロ(マリオ・アドルフ)が配下を従えている。保安官(ガストーネ・モスキン)はハッドの銃を預かるが……。

マカロニ・ウェスタン

西部劇の定型を外してくるところがセルジオ・コルブッチの面白さかもしれない。たとえば、ロケーションは通常だったら土色の荒野なところ、本作は青い山脈に緑の大地である。これはフランスで撮影したらしい。また、主人公のハッドは鎖帷子のような防弾チョッキを着ている。これで2度も命を救われているのだから高性能だ。こういったスペシャルアイテムも定型外しの一例だろう。さらに、ライバルとの早撃ち対決も捻っている。両者とも負傷しており、片方は座ったまま、もう片方は立っているのもやっとの体である。そんな手負いの獣同士が一瞬で決着を着ける。この構図も通常の西部劇ではなかなかお目にかかれない。マカロニ・ウェスタン自体がアンチ西部劇であるにしても、セルジオ・コルブッチは他の監督より一歩踏み込んでいる感じがする。

保安官は法による秩序の維持を目指している。そのために町の人たちには銃の所持を禁じているが、それが徹底されてないために効果を挙げてない。たとえば、ディアブロ率いるならず者集団はみんな完全武装である。だから銃を持ってない人たちは自衛できない。生殺与奪の権は銃を持ったならず者たちが握っているのだ。そのことを象徴したのがディアブロ亡き後の終盤だろう。町の人たちは銃を持った若造3人に脅迫され、町の中心部に集められて裸にひん剥かれる。その様子はまるで去勢された豚の群れのようだった。銃を持っていれば防げたのにそれも叶わない。マカロニ・ウェスタンにおいては力こそが正義であり、その源は銃である。公権の行き届かない無法地帯では銃が物を言うのだ。正義を為すためには誰よりも強い暴力装置を持っていなければならない。暴力で脅すからこそ法による秩序は維持される。この冷徹なリアリズムには痺れてしまう。

ある女がハッドに銃なしでの生き方を提案してくる。そのほうが平和に暮らせるだろう、と。しかし、ハッドはそれを突っぱねる。人間は男に生まれたら死ぬまで男として生きなければならない。死ぬまで銃に頼って生きなければならない。男の世界は殺るか殺られるかであり、銃を手放したら一方的に殺られるだけなのだ。そのことを示したのが前述した町の人たちだろう。銃がないゆえに裸にひん剥かれた町の人たち。現代日本では「男らしさ」から降りようみたいな提言がフェミニストから出てきているが、そんなことはとんでもない。一度「男らしさ」から降りたら後は負け犬として蔑まれるだけである。男は男らしくない男を踏みつけにするし、女は男らしくない男には冷淡だ。男は「男らしさ」という銃を捨てることができない。奇しくも本作は男の哀しみを浮き彫りにしている。

ハッドはダイイングメッセージと穴の空いた紙幣から金の隠し場所を見つける。このように軽くミステリ入っているところが面白い。また、ディアブロよりもバージニアのほうが悪辣なところも良かった。「綺麗な薔薇には棘がある」を見事に体現している。