海外文学読書録

書評と感想

ク・ビョンモ『破果』(2013,2018)

★★★

65歳の老婆・爪角は45年間殺し屋稼業に就いている。業界では殺しのことを「防疫」と呼び、企業として依頼人から仕事を受けていた。爪角の後輩にトゥという若造がいるが、彼は何かと爪角に突っかかってくる。ある日、負傷した爪角が顔見知りの医者の元に行くと、そこには見知らぬ医者がいて……。

年数にすればほぼ一〇年ぶりの銃で、運動能力をはじめ何もかもが昔とは違っていた。すでに息は上がり、全身の表面が砂利でこすられたように痺れている。血が流れている左腕は冷たい風にたちまち感覚を失い、彼女はリュウが恋しくなる。これまで、特にそうする理由がなくて延ばし延ばしにしてきたけど、とうとう今日こそ、あなたのそばに行くのを先送りにはできないようだよ。(p.223)

岩波書店が犯罪小説を出版していたなんて意外だった*1。内容は絵空事という感じで物足りないが、エンタメとはこういうものなので仕方がない。非情な世界を舞台にしながらも、そこに人間性の輝きが垣間見えるところに面白みがあった。

爪角は45年間殺し屋をしているだけあって、その道のプロフェッショナルである。65歳でしかも女の身でありながら現役であり続けている。殺しというのはフィジカルが強くなければいけないし、非情なメンタルも持ち合わせていなければならない。ターゲットを始末するには、技術的・心理的ハードルを乗り越える必要があるのだ。中途半端に人情があったらとてもこの仕事はできない。爪角も基本的には非情な人物であるが、あることがきっかけでそれが崩れてしまう。眠っていた人間性がひょっこり顔を出してしまう。それでのっぴきならない状況に追い込まれるのだった。ただ、そういう選択をした萌芽は最初に示されていて、爪角は拾った犬を家に連れて帰ってペットにしている。これも一種の憐れみの情だろう。彼女は天然のサイコパスではない。心身ともに訓練された殺し屋である。そういう意味では軍人に近く、人間性を完全に捨てきれていない。そこに葛藤の生まれる余地がある。

そして、リュウやトゥも同じようなタイプだろう。リュウはまだ少女だった爪角を拾って殺し屋に仕立てた人物である。自分の部下として利用しつつも2人には愛情があった。妻子を失ったリュウは、「だから、守らなきゃならないものは、つくらないことにしよう」と爪角に言い含める。この仕事では守るべき者がいると足枷になってしまうから。しかし、そんな彼は爪角を庇って死んでしまう。実に殺し屋らしくない最後である。リュウにも人間性が残っていたのだ。さらに、トゥも殺し屋でありながらある事情を抱えていて、それが原因で爪角にちょっかいを出している。終盤ではそれが命の奪い合いにまで発展した。トゥもまた非情になり切れてない。本人は認めていないが、憎しみが行動の原動力になっている。クールな殺し屋なんていうのは幻想だった。トゥからは人間の抱える痛みが溢れ出ている。終盤の対決は読んでいてひりひりするものがあった。

65歳の爪角が異様に強い。終盤では複数の殺し屋を返り討ちにしている。これが老人ファンタジーという感じで乗り切れなかった。普通はあんなに動けないだろう、と。しかし、彼女が最後にネイルをしてエンパワーメントするところは後味が良かった。ネイルとはいつかは消え去る一瞬の輝き。これぞ人生である。

*1:5年前に岩波新書から『声優 声の職人』【Amazon】が出版されたときも同じことを思った。