海外文学読書録

書評と感想

アンジェイ・ワイダ『灰とダイヤモンド』(1958/ポーランド)

★★★★

1945年5月8日のワルシャワ。マチェク(ズビグニエフ・チブルスキー)とアンジェイ(アダム・パヴリコフスキ)が、共産党幹部のシュチューカ(ヴァーツラフ・ザストルジンスキ)を暗殺すべく待ち伏せをする。通りがかった車を襲って2人の乗員を射殺するも、相手はただの工場労働者だった。その後、マチェクが一人でシュチューカを暗殺することに。ところが、酒場女のクリスティーナ(エヴァ・クジジェフスカ)と出会うことで決心が揺らぐ。

原作はイェジ・アンジェイェフスキの同名小説【Amazon】。

まるでアメリカン・ニューシネマみたいだった。共産主義国家で映画を撮ると、こういう暗い映画になるのだろうか。

若者が戦争や革命といった危険に身を投じてしまうのは、失うものが何もないからだと思った。いわゆる「無敵の人」である。酒場でマチェクとアンジェイが死者を悼んでグラスに火をつけるシーンがあるけれど、そこで若いマチェクが大義のために死ぬことを力強く肯定している。一方、年かさのアンジェイは「死に希望はない」と達観していた。何も持ってない若者は 得てして英雄的な死に陶酔しがちである。死ぬことで何かが手に入ると錯覚してしまうのだろう。僕は歳をとってから若者の馬鹿さ加減にうんざりすることが多くなった。それもすべて彼らが「無敵の人」だから生じる問題なのだと理解した。

タイトルにもなっている「灰とダイヤモンド」は、ノルヴィトの詩の一節らしい。それによると、ダイヤモンドは灰の奥深くに埋もれているという。マチェクにとってダイヤモンドは「愛」なのだろう。彼はクリスティーナと出会うことで、普通の生活を望むようになった。失うものができたのだ。捨て鉢だったマチェクは、愛を知ることで葛藤するようになる。ところが、そんなマチェクに対してアンジェイはそっけない。大義の前には私情を捨てろと撥ね付けている。個人を尊重しないのがこの手の組織の悪いところで、こうやって下っ端は搾取されるのだなあと悲しくなった。

夜の道端でマチェクがシュチューカを射殺するシーン。死に体のシュチューカが抱きついてきた瞬間、祝砲のように花火があがるのが皮肉だった。ヒッチコックは男女のロマンスが成就する際に花火をあげていたけれど、本作はそれとは正反対の救いのなさが感じられる。方や戦勝の浮かれ気分。方や使い捨てにされる若者の命。明暗が一つのフレームにきっちり収まっていた。