海外文学読書録

書評と感想

ジョージ・キューカー『ガス燈』(1944/米)

★★★★

ロンドン。ソントン街9番地でオペラ歌手が何者かに殺害された。姪っ子のポーラ(イングリッド・バーグマン)は事件を忘れるべく、声楽の勉強のために留学する。彼女はそこで出会った作曲家のグレゴリー(シャルル・ボワイエ)と結婚、夫の希望で事件現場であるソントン街9番地に引っ越すのだった。そこでポーラは精神的に追い詰められていく。一方、街で偶然ポーラを見かけたブライアン(ジョゼフ・コットン)は、彼女にオペラ歌手の面影を認め……。

屋内撮影のお手本みたいな映画でとても良かった。特にガス灯で照らされるソントン街9番地の邸内が素晴らしい。灯りが作る陰影がモノクロの画面に映えていて、こういうのは現代の照明では表現できないと思う。また、本作はカメラワークもいい。全体的にカメラの動きがゆっくりで、心理劇にぴったりの落ち着いた画面になっている。もちろんカット割りも完璧だ。ドアを起点にした人物の配置、螺旋階段を上から眺めた構図など、屋内撮影の基本はこの時代に既にできていたのだなあと感心する。惜しむらくは、外の映像がセット丸出しでしょぼいところだけど、これは時代の制約というやつだろう。ともあれ、本作は屋内撮影の教科書みたいな映画で見応えがあった。

ポーラの受ける心理虐待がけっこうつらくて、グレゴリーは現代で言えばモラハラ夫じゃないかと思った。といっても本作の場合、グレゴリーはある目的のために、確信犯的にモラハラをしているのである。日常の細々したことでポーラの記憶を混乱させ、彼女の認知能力に揺さぶりをかけていく。その結果、ポーラはノイローゼになり、まんまと病人に仕立て上げられてしまう。グレゴリーのこの心理虐待は、現代では「ガスライティング」と呼ばれてるらしい。もちろん、元ネタはこの『ガス燈』だ。そういうわけで、本作は心理学に興味がある人が観ると面白いだろう。

物語の展開と同調するように、ガス灯の灯りが強くなったり弱くなったりする。これはグレゴリーが屋根裏部屋でこっそりガス灯を使っているからだけど、同時にポーラの揺れる心理状態も表現していて、ガス灯を隠喩として使う手並みが堂に入っていた。映画の表現手法はこの時点でだいたい確立していたことが分かる。また、グレゴリーの動機を「宝石」で説明するあたりは古典的で、このシンプルさはまるで黄金期のミステリ小説のようだった。現代だったらもう少し凝った動機にしそうである。