海外文学読書録

書評と感想

ルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』(1974/伊=仏)

★★★★

ローマ。教授(バート・ランカスター)がアパルトマンで絵画に囲まれながら隠居生活を送っていた。そこへ侯爵夫人のビアンカシルヴァーナ・マンガーノ)がやっきて上階を間借りしたいと申し出る。彼女は愛人のコンラッドヘルムート・バーガー)、娘のリエッタ(クラウディア・マルサーニ)、リエッタの恋人ステファノ(ステファノ・パトリッツィ)と共に入居するつもりだった。静かに暮らしたい老教授はそれに難色を示すが……。

人生の黄昏に訪れた束の間の騒擾といった趣だった。今回は屋内劇に終始している。相変わらず、画面がブルジョワ趣味に溢れていて美しい。70年代にもまだこういう世界があったのかと驚いた。

見ていて教授が他人に思えなくて困った。というのも、教授は孤独を好む老人で、人と関わるのを面倒がっている。楽しみといったら一人で絵画を愛でること。家族はおらず、使用人や管理人といった最小限の人間関係の中で静かに暮らしている。

これは我々の理想である。本作を観るような層は、社交するより一人で読書や映画鑑賞をするほうを好むだろう。しかし、実際は渡世の義理があってそれも果たせない。おまけに現代はスマホによって四六時中誰かと繋がっている。孤独を好んでも世間が孤独にしてくれないのだった。

もちろん、完全に孤独だったら発狂してしまう。しかし、好きな時に好きなことができるくらいの孤独なら歓迎だ。現代人はとにかく人と繋がり過ぎている。我々のような内向的人間にとって趣味とは一人でやるものだから、それにじっくり打ち込む時間が欲しい。社交はあくまでライフワークの邪魔にならない程度。老後はそんな風に静かに過ごしたいと願っているのであり、教授の生活には憧憬の念を抱く。

本作において重要な人物はコンラッドだ。彼は今時の軽薄な若者かと思いきや、ヨーロッパの芸術に造詣が深かったのである。会話の端々からこぼれ出る教養と感性。ワイルドな見た目とは裏腹に、教授の歓心を買うような高い素養を備えている。

コンラッドは教授の息子になり得たかもしれない人物だ。子供のいない教授は、コンラッドのような若者に自分の知識を伝えたいと願っていた。しかし、その一方で静かな生活への未練は断ち切れない。教授は怪我をしたコンラッドの看病を通してある程度の友情を育むも、完全に心を開くまでには至らなかった。「君を助けるのは私の務めだ」と言いつつまだ孤独を欲している。

と、そんな教授が意を決して間借り人たちと食卓を囲んだとき、悲劇の幕が上がるのだからたまらない。良かれと思ってやったことが人生の致命傷になる。ほんの一瞬だけ家族のような時を過ごせただけに、このラストは最悪である。

そして、困ったことに最悪だからこそ映画としては面白いのだ。それまでに築き上げたものがあっさりと壊れる。掴みかけた幸福に手が届かずに死んでいく。人生とはままならないからこそ尊いのであり、悲劇こそが人生の本質を浮き彫りにする。 

今際の際の教授に、「悲しみなんていつまでも残らないわ」と言い放つビアンカ。これは確かに真理である。人間の脳には「忘れる」という便利な機能がついているのだから。しかし、教授は忘れる前に死ぬことで悲しみを永遠化した。これこそままならない人生への最後の抵抗だろう。