海外文学読書録

書評と感想

エドウィージ・ダンティカ『骨狩りのとき』(1998)

★★★★

1937年のドミニカ共和国。ハイチ移民のアマベルは、祖国で両親を亡くしてからドミニカに来てバレンシアという女性に仕えていた。バレンシアの夫ピコは軍人をしている。あるとき、ピコの運転していた車が、サトウキビ労働者を撥ねて死なせてしまう。その後、アマベルの周囲では、独裁者ラファエル・トルヒーヨが国内のハイチ人を虐殺するという噂が流れる。

彼らがモルタルの山から離れていくときに、男は全員がまだ彼の話についてきていることを確かめるために、グループの人々の顔を探った。「名を成した者たちは、決して本当に死ぬことはありません」と彼は加えて言った。「煙のように早朝の空気に消えていくのは、名もなく顔もない者たちだけなのです」(p.290)

この小説は1937年に起きたハイチ人虐殺を、アマベルという個人の体験に落とし込んだ話で、どっしりと地に足の着いた臨場感のある内容になっていた。上の引用のように、「煙のように早朝の空気に消えていくのは、名もなく顔もない者たちだけ」である。本作の狙いは、そういう人たちを小説のなかに蘇らせることにあったのだろう。歴史的事件をミクロの視点から、すなわち庶民の視点から再構築する。作中の人物は実際には存在しなかったとはいえ、個々の生活、個々の感情、個々の苦しみは紛れもなく紙上に存在する。文学とは現実をトレースするものではなく、現実を新たに作り上げるものだということを実感した。想像力と創造力の交差するところに文学の醍醐味がある。

虐殺の背景については小説を読んだだけでは掴みきれなかったので、訳者あとがきやネットの情報を参考にした。この虐殺は俗に「パセリの虐殺」と呼ばれているようで、パセリがハイチ移民を見分けるためのシボレスとして用いられた。なぜパセリなのかは作中に仮説として語られている。数日のうちに2~3万人が殺されたとか。こういう虐殺って、いかにも20世紀的野蛮といった感じでやりきれなくなる。ミシェル・フーコーによれば、近代以前の権力=人を殺す権力、近代の権力=人の生を管理する権力らしいけど、ここで振るわれているのは紛れもなく近代以前の権力で、あれ? 20世紀は近代じゃないの? と思った。それくらい野蛮でどん引きしてしまう。

たくさんの人が死ぬ本作だけど、唯一の救いは前半で描かれたパピとコンゴの関係だろう。ドミニカ人のパピは支配層で、ハイチ人のコンゴは被支配層である。序盤でパピの娘婿であるピコが、コンゴの息子を車で撥ねて死なせてしまう。コンゴの知人は「公平にするためにはやつを殺すしかない」とけしかけるも、コンゴは「物事が公平であることなどない」「もし公平だったら、彼の人生と私の人生は同じもののはずだった」と返す。このコンゴという人物は市井の賢者でなかなか興味深いのだけど、何より良かったのが、そんなコンゴにパピが会いに行ったことだ。娘婿がやったことに対して贖罪しようというのである。話し合いの後、パピが十字架を背負って歩くところが象徴的で、支配層と被支配層でも分かり合えるのだという希望があった。

ハイチ人虐殺って日本人には馴染みの薄い出来事だけど、だからこそ知っておくべきではないかと思う。僕も本書を手に取らなかったら詳しく知ることはなかった。支配層と被支配層。殺す側と殺される側。世界は公平には作られていないということがよく分かる。