海外文学読書録

書評と感想

山中貞雄『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935/日)

★★★★

柳生家に代々伝わる「こけ猿の壺」に百万両の価値があることが判明した。ところが、その壺は持ち主を転々として幼子・ちょび安(宗春太郎)の金魚入れになる。孤児になったちょび安は、お藤(喜代三)が経営する矢場に引き取られることに。その矢場では丹下左膳大河内傳次郎)が用心棒をしていた。一方、柳生家の次男坊・源三郎(沢村国太郎)は剣術道場の婿養子になっており、妻・萩乃(花井蘭子)の尻に敷かれている。源三郎は妻にせっつかれて壺探しをするが……。

古い映画だがとても面白かった。近代社会に生きる日本人にとって江戸時代とは壮大なモラトリアムであり、そこにはある種の憧憬がある。庶民がその日暮らしをできる天下泰平の世の中。『銀魂』【Amazon】はそれを反映したギャグ漫画だし*1、少し前には江戸時代を肯定的に取り上げたノンフィクション(タイトル失念)がベストセラーになっていた。近代社会の人間は、資本主義の論理によって懸命に働くことが良しとされている。金持ちになることが幸せだと刷り込まれている。つまり、貨幣が人間の価値を規定しているのだ。翻って本作はそういった意識から距離を置き、矢場で射的をしたり、露天で金魚を釣ったり、日常のささやかな楽しみが重視されている。百万両の壺は物語を転がす動力であるものの、そこに資本主義的な欲望は介在しない。血みどろの争いが起きてもおかしくないのに、大して揉めないまま丸く収まっている。これこそが当時の観客にとっての理想なのだろう。昭和初期から江戸時代がモラトリアムとして受容されていたのが興味深い。

本作では男よりも女のほうに物事の決定権があって、こうした力関係もモラトリアム的な雰囲気に合致している。たとえば、丹下左膳とお藤はたびたび意見が対立するのだが、結局はお藤の意見が通ることになる。また、源三郎は妻の尻に敷かれており、後半は彼女によって自由が制限されてしまう。これは別にフェミニズムが浸透しているわけではない。根底には力を持った者の韜晦があり、男性性の喪失が可笑しみに繋がっているのだ。こうした「余裕」が生まれるも天下泰平の世の中だからこそで、やはりモラトリアムは尊いのだと思う。

映画としてもなかなか洗練されていて完成度が高い。たとえば、殺しの場面を直接見せずに犬の鳴き声で表現しているし、またシーンの切り替えも現代的で、源三郎がふて腐れて蹴飛ばしたダルマから矢場のダルマへとスムーズに場面転換している。さらに、捨てカットの使い方も巧妙だ。火鉢に乗せられた餅によって時間経過を示し、同時に餅が焼けた匂いでちょび安の家出に気づくようになっている。これはとても戦前の映画とは思えない。現代人が見てもすごい映画だということが分かる。

*1:といっても、幕末をモデルにした社会なのでシリアスな動乱も描かれる。

東陽一『サード』(1978/日)

サード

サード

  • 永島敏行
Amazon

★★★

高校生の妹尾新次(永島敏行)は殺人を犯して少年院に入っている。彼は野球部で三塁手をしていたことから「サード」と呼ばれていた。彼は自分が長打を放ってもホームベースにたどり着けないという悪夢を見ている。サードは娑婆にいた頃、女子の「新聞部」(森下愛子)と共謀して売春の斡旋をしていた。ある日、彼らはヤクザ(峰岸徹)とトラブルになり……。

若者の閉塞感を描いた青春映画。途中まで少年院を題材にした疑似ドキュメンタリーかと思っていた。

サードや新聞部といった男女4人組はこの町から出たいと思っていて、その資金を稼ぐために売春に手を染めることになる。驚くべきは新聞部が処女だったことだ。性経験がないのに売春で稼ごうと言い出すあたり、よほど切羽詰まっているのか、あるいはこれからやることに想像が及ばないのか、とにかく、身を削ってまでして町を出たいというのは伝わってくる*1。サードによると、彼の地元は「死んだような町」らしい。僕は自分の故郷にはわりと満足しているので、彼らの閉塞感がいまいちピンとこない。けれども、団塊の世代集団就職が終焉していた当時、この手の若者が地方に燻っていたことは想像に難くない。それに当時はインターネットがなかった時代だから、「死んだような町」に住んでいてもやることがなくて退屈してしまう。生きる実感を持つためにも町を出ていくしかない。町の外に希望を見出すところは『ひぐらしのなく頃に業』【Amazon】にも見られる問題意識で*2、昭和後期の地方民にとっては当たり前のことだったのだろう。これが解消されるのはおよそ20年後、インターネットの普及を待つしかなかった。昭和とはつくづく暗い時代だったと思う。

サードはホームベースを「帰るべきホーム」に見立てているけれど、人生におけるホームベースなんてとどのつまり「死」でしかないだろう。サードにホームベースが見えないのは、彼がまだ若くて「死」からほど遠いからだ。その証拠に、僕くらいの年齢になると薄っすらホームベースが見えている。ともあれ、一度出塁したランナーはホームベースという名のゴールに向かってひた走るしかない。サードは欠落を抱えているようで、その実「死」を意識せずに済んでいる幸せな境遇と言えよう。これこそが若さであり、青春の鬱屈とは僕にとって眩しいのだった。

護送車が祭りの行列の中をのろのろ進んでいく絵が良かった。冷静に考えると、あそこは歩行者天国で車両の通行は禁止されているはずだけど、とにかく映像としては対比効果が抜群でインパクトがある。ハレとケが同じフレームに収まった絵面は、同時に娑婆と少年院の隔絶を表しているようで趣深い。

*1:新聞部を演じる森下愛子がとてつもない美人であることを特筆しておきたい。

*2:このアニメの時代設定は昭和58年(1983年)である。

東陽一『もう頰づえはつかない』(1979/日)

★★★

早稲田大学の学生・まり子(桃井かおり)は、バイト先で知り合った学生・橋本(奥田瑛二)と同棲していた。ところが、まり子は自分の前から去った左翼崩れのルポライター・恒雄(森本レオ)に未練があり、彼のために私生活を犠牲にしていたのだった。やがてまり子と恒雄が再会する。

原作は見延典子の同名小説【Amazon】。

この時代の空気が知れたので観て損はなかった。当時はまだ学生運動の余波があったようで、大学には「武器とヘルメットの持ち込み禁止」と書かれた看板がフェンスに取り付けてある。学生に関してはおたくっぽい男や芋臭い女などがいて、この辺は現代とあまり変わってない。ある男子学生は教室でまり子の隣りに割り込み、「素っ裸のときどこを隠しますか?」と尋ねている。見るからに秋葉原にいそうな陰キャだ。初対面の女にセクハラ質問をするあたり、脳に何らかの欠陥を抱えてそうだけど、まあ昔の学生なんてこんなものだろう。後の精神医学はこういう輩に発達障害のレッテルを貼ることになった。病気や障害は作られるものだということが分かる。

桃井かおりはもっと気怠いイメージがあったけれど、本作では意外と普通だった。少なくとも社会に溶け込めるくらいの愛想はある。特にバイトではハキハキ喋っていて、普段のあの気怠い雰囲気はキャラ作りのような気がした。こういうときの桃井はなかなかチャーミングである。本作では内に向けた顔と外に向けた顔の二面性を垣間見ることができて面白い。

この時代に吉野家ブルドックソースがあったのは感動的だった。吉野家は今と内装が全然違っていて、チェーン店らしさがあまりない。まだ食堂らしさが残っている。一方、ブルドックソースは現代とほとんど変わってなくて、安心と安全の老舗ブランドといった風情である。どちらもよく現代まで生き残ったものだ。

本作に登場する男たちは基本的にしょうもないのだけど、とりわけ群を抜いていたのがルポライターの恒雄だった。こいつはとんでもないクズである。突然行方をくらましたかと思えば、電話でまり子に30万円の金を無心している。その後、まり子から妊娠を告げられた際には、「堕ろしてほしい」とためらいなく言い放っている。恒雄はいい歳こいて自分のことしか考えていない。彼のおかげで相対的に橋本の格が上がっている。

それにしても、インターネットの人たちはみんなライターになりたがるけど、ライターなんていい加減な職業で、労力に比べて原稿料は安いし、専業で食っていけるほど収入は安定しないし、福利厚生は皆無に等しいし、会社員よりもよっぽど気苦労が多い。関係者も人格破綻者が多く、本作に出てくる恒雄みたいなのがゴロゴロいる(精神病質者のオンパレードである)。なぜか楽して稼げるというイメージがあるけれど、全然そんなことはなく、とにかく量産を続けないと生活できない。基本的には食い詰めた人間がなる底辺職なので、インターネットの人たちは真面目に就活すべきだと思う。

ジョン・カーペンター『遊星からの物体X』(1982/米)

★★★★

1982年の南極大陸ノルウェーの観測隊がヘリコプターで犬を銃撃しながらアメリカの観測基地にやってくる。ノルウェーの隊員がアメリカの隊員を銃撃してきたため、応戦して射殺する。R・J・マクレディ(カート・ラッセル)らがノルウェーの基地を調査した結果、生物に寄生する「物体(The Thing)」の存在が明らかになった。その「物体」はグロテスクな形状をしており、生物に寄生して同化していく。

原作はジョン・W・キャンベル「影が行く」【Amazon】。『遊星よりの物体X』【Amazon】に続く2度目の映画化。

あまり予算がかかってなさそうなB級ホラーだけど、「物体」の造形がグロテスクでとても良かった。CGでは表現しきれない生々しさがあったと思う。エイリアンやプレデターは生物としてきっちりした外見を持っていて、あれはあれで芸術的な造形である。一方、本作に出てくる「物体」も、グロテスクな造形に独特の味わいがあって、同じくらい芸術性を感じさせる。思うに、生物とは内臓も含めて存在自体が奇跡で、どんな形をしていても人々の感興をそそるものだ。そして、本作の「物体」はその究極に位置しており、彼らが登場するシーンは怖いもの見たさでつい凝視してしまう。場面によって様々な形態を見せる「物体」たち。本作はストーリーよりも「物体」の芸術性を堪能する映画だろう。

基地の隊員たちが置かれた状況はまるで人狼のようだ。人間に同化した「物体」が隊にしれっと紛れ込んでおり、仲間を増やすべく虎視眈々としている。隊員たちはそのことを分かっているから疑心暗鬼になる。あわや同士討ちというところまで取り乱す。ここで面白いのは、人間をむやみに殺さないという「倫理」が隊内で貫かれているところだ。発狂して暴れた隊員のことは殺さずに隔離しているし、周囲から疑いをかけられたマクレディは薄氷を踏むような状況でありながらも、隊員を集めて「物体」を判定するためのテストをしている。この「倫理」は傍から見たら制約だけど(言うまでもなく、「物体」のほうにはこのような制約はない)、同時にこの制約が映画をホラーとして成り立たせている。

最後にアメリカの観測基地がボロボロになるのは、序盤で示されたノルウェーの基地の反復で、これはもうこの手の映画のお約束である。でも、こういう伏線をきっちり回収しないと収まりが悪いから困ったものだ。分かっていてもやめられないからこそ、お約束として長く続いている。

寺山修司『書を捨てよ町へ出よう』(1971/日)

★★

21歳の北村英明(佐々木英明)は都内の貧乏長屋で家族3人と暮らしている。祖母(田中筆子)は万引き常習犯、父親(斎藤正治)は無職、妹(小林由起子)はウサギを偏愛する人間嫌いだった。英明は予備校通いをやめて大学のサッカー部に入り、そこの主将(昭和精吾)と懇意になる。主将は面倒見がよく、英明が童貞を捨てるのを手伝ってくれるが……。

洗練とは程遠い泥臭い実験映画。これに比べると『田園に死す』は完成度の高い映画だった。今からでも評価を上げるべきかもしれない。それと、『新世紀エヴァンゲリオン』【Amazon】と『少女革命ウテナ』【Amazon】が寺山修司の影響下にあることを確認できた。

若者には内なる衝動があって、機会があったらそれを爆発させたい。そのことがビンビン伝わってくる。英明が見る人力飛行機の夢は「自由になりたい」という欲求の表れだけど、終盤でその飛行機が燃えてしまう。だから叫ぶしかない。内なる衝動を外に吐き出すしかない。そして、終わった後は第四の壁を超えて観客に語りかける。映画なんて所詮は嘘っぱちなんだ、と。彼は観客に行動するようアジテーションしているのだ。公開当時に本作を観ていたのはたぶん若者だから、彼らには相当突き刺さったのだろう。コラージュ的な映像表現もあいまって、観客が衝撃を受けたのは想像に難くない。本作にはそれだけの熱量が感じられる。ただ、僕はもう若くないので、こういう荒っぽい映画には胃もたれしてしまうのだった。

この時代の男にとって重要なのは、童貞を捨てることと父親を殺すことらしい。そうすることで一人前になれるという認識があるようだ。童貞はともかくとして、この時代の青春映画はだいたい父殺しを扱っている。

当時の父親は従軍経験があり、戦争でたくさんの人を殺してきた。そういう人たちが何食わぬ顔で社会に溶け込んでいる。『青春の殺人者』もそうだったけれど、子供の敵が元兵隊なのが複雑なところで、兵隊とは国から強制召集された被害者なわけだ。若い頃は国家から抑圧され、中年になって子供を育てたら今度は下から突き上げを食らう。子供にとって父親は乗り越えるべき存在とはいえ、父親の立場からしたらえらい理不尽だと思う。

本作によると、書物とは家族や地縁的結合から人間を解放し、考え方の違う人を同志的結合に導くものらしい。それはそれで尊いのだけど、やはり行動することが大事で、書物とはそのための燃料なのだ。だから書を捨てて町に出るべきなのである。出演者が第四の壁を超えて観客に語りかける演出は、今見ても新奇性がある。