海外文学読書録

書評と感想

寺山修司『田園に死す』(1974/日)

★★★

15歳の少年(高野浩幸)は恐山の麓で母親(高山千草)と2人で暮らしている。本家には若い人妻(八千草薫)がおり、少年は彼女に惚れていた。少年は母親に嫌気が差していて、この田舎から逃げ出したいと思っている。少年は人妻と駆け落ちの約束を取り付けるのだった。そして、成長して映画監督になった元少年菅貫太郎)は自分の過去を映画にしており……。

母殺しを題材にした自伝的映画。同名の歌集【Amazon】も出版されている。

ケレン味のある映像が特徴で田舎の閉塞感がよく表現されていたけれど、今見るとよくある実験映画としか思えない。時代を経てだいぶ色褪せてしまったのではないか。

とはいえ、随所に光る場面があって、たとえば、3Pしてる現場を見た少年が「地獄だ」とつぶやく場面や、修学旅行みたいな学生集団が実は年寄りだった場面など、秀逸なイメージは確かに存在している。また、雛壇が川を下る映像も良かったし、新宿で母親と対峙するラストも鮮烈だった。でも、全体としてはやはりよくある実験映画という印象は拭えず、時代と寝た映画は評価が難しいと痛感したのだった*1

時計が重要なモチーフとして使われている。少年の家の柱時計は壊れて音が鳴り続けている。そして、サーカスの一座はそれぞれ懐中時計を所持しており、少年はそれを羨ましがっている。少年は自分用の時計を欲しがるものの、母親がそれを許さない。今のまま柱時計を共有することを強いている。実のところ、この柱時計は母親の象徴で、少年が自分の時計を所持することは母親からの自立を意味している。終盤で柱時計を抱えた少年らを映しつつ、「死んでくださいお母さん」をBGMとして流す場面は示唆的である。つまり、序盤で柱時計が壊れていたのは、母親の不快さを少年目線で表現していたのだ。四六時中音が鳴り続けるのは鬱陶しいことこの上ない。このように本作は時計を通じて母殺しの欲望を描いている。

大人になった元少年は、少年に母親を殺させたがっている。「時間は待ったがきかない」と少年に言い放ちながらも、過去をやり直したいと願っている。映画として対象化した過去はたとえ事実に基づいていても虚構であり、どうせ虚構ならもっと大胆に踏み込もうという腹なのだ。そこから一捻りして新宿に繋がるラストが秀逸で、本作は部分的に優れたイメージを表出する瞬間芸的な映画だと思う。

*1:個人的には『スター・ウォーズ』【Amazon】を正当に評価できないのと同じ問題である。あれはあの時代に作られたからすごかったのだろう、みたいな。