★★★
高校生の妹尾新次(永島敏行)は殺人を犯して少年院に入っている。彼は野球部で三塁手をしていたことから「サード」と呼ばれていた。彼は自分が長打を放ってもホームベースにたどり着けないという悪夢を見ている。サードは娑婆にいた頃、女子の「新聞部」(森下愛子)と共謀して売春の斡旋をしていた。ある日、彼らはヤクザ(峰岸徹)とトラブルになり……。
若者の閉塞感を描いた青春映画。途中まで少年院を題材にした疑似ドキュメンタリーかと思っていた。
サードや新聞部といった男女4人組はこの町から出たいと思っていて、その資金を稼ぐために売春に手を染めることになる。驚くべきは新聞部が処女だったことだ。性経験がないのに売春で稼ごうと言い出すあたり、よほど切羽詰まっているのか、あるいはこれからやることに想像が及ばないのか、とにかく、身を削ってまでして町を出たいというのは伝わってくる*1。サードによると、彼の地元は「死んだような町」らしい。僕は自分の故郷にはわりと満足しているので、彼らの閉塞感がいまいちピンとこない。けれども、団塊の世代の集団就職が終焉していた当時、この手の若者が地方に燻っていたことは想像に難くない。それに当時はインターネットがなかった時代だから、「死んだような町」に住んでいてもやることがなくて退屈してしまう。生きる実感を持つためにも町を出ていくしかない。町の外に希望を見出すところは『ひぐらしのなく頃に業』【Amazon】にも見られる問題意識で*2、昭和後期の地方民にとっては当たり前のことだったのだろう。これが解消されるのはおよそ20年後、インターネットの普及を待つしかなかった。昭和とはつくづく暗い時代だったと思う。
サードはホームベースを「帰るべきホーム」に見立てているけれど、人生におけるホームベースなんてとどのつまり「死」でしかないだろう。サードにホームベースが見えないのは、彼がまだ若くて「死」からほど遠いからだ。その証拠に、僕くらいの年齢になると薄っすらホームベースが見えている。ともあれ、一度出塁したランナーはホームベースという名のゴールに向かってひた走るしかない。サードは欠落を抱えているようで、その実「死」を意識せずに済んでいる幸せな境遇と言えよう。これこそが若さであり、青春の鬱屈とは僕にとって眩しいのだった。
護送車が祭りの行列の中をのろのろ進んでいく絵が良かった。冷静に考えると、あそこは歩行者天国で車両の通行は禁止されているはずだけど、とにかく映像としては対比効果が抜群でインパクトがある。ハレとケが同じフレームに収まった絵面は、同時に娑婆と少年院の隔絶を表しているようで趣深い。