海外文学読書録

書評と感想

齋藤武市『口笛が流れる港町』(1960/日)

★★

宮崎。流しのギター弾き・滝伸次(小林旭)が殺し屋の太刀岡(宍戸錠)と出会う。当地では鉱山主の相良(木浦佑三)がやくざの的場(山内明)から鉱山の権利証を狙われていた。そんななか、相良の妹・杏子(浅丘ルリ子)が海外留学から帰ってくる。的場は杏子に惚れていたが杏子にその気はなかった。やがて的場が相良への締めつけを厳しくする。

渡り鳥シリーズ第2弾。

やはりこのシリーズの小林旭は宍戸錠に食われてるような気がする。2人はライバルであり後にバディにもなるが、小林のほうが宍戸より格上というのが納得いかない。小林は博打や暴力で2度も宍戸に勝利するのだ。それまで斜に構えていた宍戸が敗北を認めて下手に出るところは違和感がある。宍戸のニヒルで底が知れないキャラクターのほうが魅力的で、彼に比べると小林はあまりキャラが立ってない。見ているほうとしては気取りに気取った宍戸の方に肩入れしてしまう。

例によってヒロインは浅丘ルリ子だが、浅丘が小林に惚れる流れが理解できない。好きになるまでのプロセスが省略されているのだ。てっきり小高雄二と恋仲になると思っていたので、小林に惚れていると分かったときは意外だった。小高も小林に負けないイケメンだし、何より小林が登場する前から浅丘に惚れていた。これでは今流行りのBSS(僕が先に好きだったのに)である。本作は小林と宍戸に焦点が当たっているため浅丘の影は薄い。ヒロインの存在は不可欠だから無理やり浅丘を出した感じがある。最後に小林が当地を立ち去ったのが救いだった。

小林と宍戸がキャバレーでやっていた博打はおそらくヤッツィーだろう。最初にチップを賭け、5つのサイコロをダイスカップで振って役を作る。役の大きさで勝ち負けを決めて勝者がチップを総取りする。1954年にカナダ人が考案し、1956年に商品化されたようだ。それが1960年の日本で行われている。当時としては最先端の遊びだったのだろう。こういうモダンな光景を入れてくるところがいかにも日活らしかった。

冒頭のシーンはもはやテンプレの域だが、それでも掴みは上々だった。荒野の山道で馬に乗る小林。通りの岩場で座り込んでいる宍戸。2人は和やかに言葉を交わした後、拳銃を撃ち合って剣呑な挨拶をする。まるで犬のじゃれ合いだ。このように男性性を競って互いの腕を認め合うところが男の映画という感じで好ましかった。このシーンを見たらヒロインはいらないと思う。浅丘の影が薄くなったのも必然だった。

小林がギターで弾き語りをして場をもたせるところはいかにもアイドル映画だった。当時はスター俳優が劇中で歌を披露し、それをレコード会社が円盤にして大衆に売っていたのだ。こういうのを見たら最近のジャニタレドラマ(SMILE-UP.ドラマ?)も迂闊に否定できない。やっていることは当時とほとんど変わらないのだから。すなわち、最初に俳優ありきの人気者企画である。ジャニタレドラマも半世紀後にはレトロ枠として好事家に愛でられていることだろう。時代は変われど芸能界のシステムはそうそう変わらないようだ。

ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014/米=独)

★★★

中欧の国ズブロフカ共和国。1932年、移民の少年ゼロ(トニー・レヴォロリ)がグランド・ブダペスト・ホテルのボーイとして働く。彼はコンシェルジュのグスタヴ(レイフ・ファインズ)の従者になるのだった。グスタヴには懇意にしていた老女マダム・D(ティルダ・スウィントン)がいたが、彼女は突然亡くってしまう。遺産として高価な絵画を受け取る予定だったが、遺族はそれが気に入らない。グスタヴは殺人の濡れ衣を着せられてしまう。

おもちゃ箱みたいな世界観は魅力的だったが、終わってみれば小洒落た小品といった感じ。良くも悪くも現代の映画で、個人的に現代の映画は映像が肌に合わないのだった。デジタル技術によって構成された映像美はまやかしの映像美で、そこには常に嘘臭さが付きまとう。本作は敢えてその嘘臭さを強調しているのである。なぜそうしているのかというと、グランド・ブダペスト・ホテルが在りし日の幻として設定されているからだ。ゼロの物語は遠い過去の出来事である。かつて栄華を誇ったグランド・ブダペスト・ホテルも今や見る影もない。そういった追憶の意識が映像の嘘臭さに繋がっている。この辺は好き好きだろうが、僕は好きではない。現代の映画に映像美を求めることほど愚かなことはないと痛感した。

物語はどこかで見たようなファンタスティックなおとぎ話で、アメリカのトールテールっぽい雰囲気がある。見ていて21世紀のアメリカ文学を連想したほどだ。具体的に何かに似ているわけではないが、作品を貫くマインドがそれっぽい。映画にしてはかなり饒舌である。モノローグもセリフも映像も過剰さで満ち溢れているのだ。このような過剰な語りが本作の魅力になっていることは間違いない。監督は本当は小説を書きたかったのではないか、と疑うほど饒舌である。そして、その語りは悲劇を喜劇に作り変える。物語はファシスト政権が台頭して人死が出て殺人の濡れ衣を着せられるというものだが、総じてあまり緊迫感がない。終始軽やかに進んでいく。だからこそ最後の転調にほろりとくるわけだが、それも含めてデジタル技術による手工業的な小品に収まっている。目の前にあるのは徹底的に作り込まれたテーマパーク。そこが物足りないと言えば物足りない。

作中に出てくるファシスト政権はおそらくナチス・ドイツがモデルだが、本作は1930年代のおいしい部分だけ頂いたような感じである。戦争への足音が聞こえてくる時代。グランド・ブダペスト・ホテルがある中欧もきな臭くなってきた。過去の追憶を描くにあたってその背景だけ欲しかったのだろう。アジア系の戦争難民はいてもユダヤ人はいない。従ってユダヤ人への迫害も存在しない。そうやって歴史の都合のいいところだけ切り取ったのは賛否両論ありそうだが、特に問題視されてないのでこれはこれでありなのだろう。あくまで架空の国、架空のヨーロッパである。こういうところが言い訳じみていていくぶんもやもやするものがあった。

本作はディズニー映画がCGでやったことを実写でやったような映画である。おもちゃ箱みたいな世界観は確かに魅力的だった。

ジョーダン・ピール『NOPE/ノープ』(2022/米)

NOPE/ノープ(字幕版)

NOPE/ノープ(字幕版)

  • ダニエル・カルーヤ
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★★

OJ(ダニエル・カルーヤ)とエメラルド(キキ・パーマー)の兄妹は亡くなった父から牧場を受け継いで経営している。父は空からの落下物が頭に当たって死んでいた。ある日、牧場で異変が発生する。UFOの仕業と睨んだ兄妹は敷地内に防犯カメラを設置することに。一方、近所では元子役のジュープ(スティーヴン・ユァン)がテーマパークを営んでおり……。

ダリオ・アルジェントの時代に比べたら撮影技術は桁違いにすごいが、物語は捻りもなく退屈でいまいち評価できない。演出も特に目を引くものはなく、ちょっと平板ではないかと思った。昔の映画は演出で頑張っていたなあ、と。そして、デジタル技術を駆使したホラー映画はディザスター映画に限りなく接近するようで、「Gジャン」が生物の形を借りた災害にしか見えない。Gジャンは食欲と縄張り意識で動いている原始的な生物だから余計そう感じる。広範囲を巻き込む大掛かりなSFXはディザスター映画そのものだった。

映画自体はデジタル技術をふんだんに駆使しているが、物語はアナログの強さを強烈に印象づけている。そこは倒錯していて面白かった。というのも、Gジャンが近づいてくるとすべての電力がシャットダウンするのである。防犯カメラは映らないし、電動バイクは停止するし、デジカメも使えなくなる。だから地上の人間たちは原始的な手段でGジャンに立ち向かうことになる。防犯カメラの代わりに手回しカメラ、電動バイクの代わりに馬、デジカメの代わりに銀塩カメラ。電力に頼らず巨大生物と戦うというコンセプトは確かに面白く、人間の知恵が試されている感じがあった。銃器に頼らないのもいい。そもそもあれだけ大きかったらまず通用しないので、始めからその手段を放棄していたのはクレバーだった。

商業映画なのに見世物を否定的に扱うところも倒錯している。商業映画なんて見世物の最たるものなのに、その媒体でこんなことをする根性がすごい。ともあれ、OJたちの行動原理は徹頭徹尾私欲である。Gジャンを撮影してテレビに出て一獲千金を狙う。そのことに命を懸けている。巨大な敵と戦うのは男性性の回復のためでもなければ、危機の克服のためでもない。どちらかといったら狩猟に近い行為だ。彼らのやっていることはあまり褒められたものではなく、むしろ下賤である。スペクタクルでありながらもOJたちを神話的な英雄にしないところが捻っていた。

ロケーションは抜群だし、映像も綺麗だが、夜のシーンはデジタル処理によってかなり不自然に見える。弄らないと見づらいから仕方がないのだろう。また、UFOネタは当初ミスディレクションかと警戒していたので、ほとんどそのままの形で話が進んだのは拍子抜けだった。この辺、『ゲット・アウト』のどんでん返しが念頭にあったので逆にサプライズだったかもしれない。結果的にはストレートで面白味のない映画になっていた。

Gジャンは人間や動物を捕食するが、その割にはグロ描写が一切ない。おそらくR指定にしないためだろうが、せっかくのデジタル技術なのだからグロ描写をガンガン入れてほしかった。その点、『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』は評価できる。

小津安二郎『お茶漬の味』(1952/日)

お茶漬の味

お茶漬の味

  • 佐分利信
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★★★★

大企業の部長・佐竹茂吉(佐分利信)にはお見合いで結婚した妻・妙子(木暮実千代)がいる。妙子は金持ちの子女で育ちが良く、茂吉を放っておいて友達と遊び歩いていた。妙子は茂吉に不満を募らせている。ある日、些細なトラブルから妙子が茂吉を避けるようになるのだった。

115分(1時間55分)というそこそこ長い尺だが、テンポが良くてあっという間に終わった。こういう体感時間の短い映画もなかなか珍しい。晩年の小津映画は人間模様をワイドスクリーンで捉えるようになるが、この頃はまだ焦点を絞っているような感じである。色々な脇役が出てくるものの、すべては茂吉と妙子の夫婦関係に寄り添っている。どちらかというと、僕はこういう作劇のほうが好みだ。

お見合いによる結婚と自由恋愛による結婚はだいぶ勝手が違いそうだ。お見合いによる結婚は家と家との結婚であるうえ、半ば強制的である。だから恋愛感情がなくても結婚してしまう。一方、自由恋愛による結婚は恋愛感情が結婚の決め手になる。だからお見合いよりも2人の意向が尊重される。妙子が茂吉に不満を募らせているのはお見合いによって結婚したからだろう。恋愛感情で結びついてないから他人という意識が強い。当然一緒にいてラブラブというわけでもなく、側にいないほうが気楽なのである。離婚するほど配偶者が嫌いなわけではない。しかし、現状にうっすらと不満を抱えている。妙子の姪・節子(津島恵子)はそのことを見透かしていて、お見合いという制度には懐疑的だ。戦後民主主義の時代においては封建的に過ぎるし、夫婦が愛情で結びつかないのはマイナス要因である。ところが、周囲の大人たちは言う。愛情は後から湧いてくる、と。昔の日本人はそうやって騙し騙し夫婦生活を営んできた。彼らは絶え間なき妥協の果てに愛情が萌え出ると信じている。この辺、昔の日本人の思想が透けて見えて興味深い。

茂吉がかなり心の広い人物で、妙子のわがままを一切咎めないのだから驚く。この夫婦は一般的な夫婦とはやや異なっていて、要は茂吉の上昇婚なのである。地方出身の庶民が上流階級の娘を娶った。そういう特殊な関係なのだ。だから夫婦の力関係は妻のほうが上である。茂吉が妙子に対して大きく出られないのは生来の性格もあるが、より大きな要素としてこの上昇婚が挙げられるだろう。現在、SNSの男女論界隈では女性が下方婚しないことが問題になっている。女性が格下の男性と結婚しないことが男性差別に繋がっていると一部の論者は主張している。しかし、実際に女性が下方婚すると茂吉と妙子のような夫婦になってしまう。この関係が世の男性に受け入れられるとは到底思えない。「理解のある旦那さん」でいるのも才能なわけで、お互いが満足する理想的な結婚はなかなか難しいようである。

佐竹家はとても裕福で自宅に電話と冷蔵庫がある。女中も雇っている。特に目を引いたのが電話をかけるシーンで、電話交換手を介さず通話していたのには驚いた。当時、大都市の市内電話は自動接続だったらしい。意外と技術が進展していて感心した。

リチャード・アッテンボロー『遠い夜明け』(1987/英=米)

遠い夜明け (字幕版)

遠い夜明け (字幕版)

  • ケヴィン・クライン
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★★★

1970年代の南アフリカ。当地ではアパルトヘイトによって黒人が不当に弾圧されている。そんななか、新聞社の白人編集長ドナルド・ウッズ(ケヴィン・クライン)が、黒人運動家のスティーヴ・ビコ(デンゼル・ワシントン)を白人差別の扇動者だと批判する。リベラル派のウッズは女性医師に促されてビコと会うことに。ビコに感化されたウッズは彼の協力者になる。

原作はドナルド・ウッズ『Biko』【Amazon】、『Asking for Trouble』【Amazon】。

事実に基づいた映画ということらしい。予備知識なしで見たので途中の急展開には驚いた。当時リアルタイムで見ていた観客も同じ思いを味わったのではないか(原作を読んでから見に行くとは思えないし)。南アフリカは思った以上にやばい国家で、リアリズムとはこういうことなのか、と思い知らされた。

やはりアパルトヘイトはとんでもない。植民地主義の負の遺産を見せつけられているようで、こんな制度が90年代まで存在していたことにドン引きする。日本人も名誉白人という不名誉な称号を南アフリカ政府から賜っていたのだからまったくの無関係ではない。むしろ、国際世論に逆らって貿易を続けたのだから間接的な加害者と言える。ともあれ、後からこの地にやってきた白人が地元の黒人を虐げる制度は醜悪で、まるで現代のパレスチナ問題のようである。村上春樹はエルサレム賞のスピーチでこう述べた。「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と。イスラエルにおいて卵はパレスチナ人であり、南アフリカにおいて卵は黒人である。少なくとも第二次大戦後の世界はそういう倫理の上で成り立っている。アパルトヘイトという高くて頑丈な壁は即刻破壊しなければならない。

かつてソクラテスは「悪法も法なり」と言って死刑を受け入れたが、本当に悪法に従う必要があるのだろうか。この世には普遍的な正義というのがぼんやり存在しているわけで、悪法という確信があるなら従わないのが良心的とさえ言える。法制度が間違っているなら正さなければならない。しかし、既にその間違った法制度が正規の手順で正せない状態になっていたらどうだろう。中国や北朝鮮、あるいはロシアのように。そういう国の法に従うのは「悪」に従うのと同義で犯罪的であるが、かといって逆らったら自由を奪われてしまうのだからどうにもならない。力なき国民は間違った法に強制的に従わされる。国家が恐ろしいのはこういうところで、やはり国ガチャは重要だと痛感する。

「ペンは剣よりも強し」という格言は実際のところ説得力があって、言論によって世論に働きかけることは重要だ。活字を通じて人々の正義感に訴える。あるいは現代だったらYouTubeの動画で広く拡散させる。20世紀は映画がその役割を担っていた。当時本作を見た人は誰もがアパルトヘイトに憤慨したに違いない。こういうのは一種のプロパガンダであるが、世の中には普遍的な正義というのがぼんやりと存在している。その事実は相対主義に毒された我々でも認めるしかないだろう。正義の反対はまた別の正義、という言葉はあまりに冷笑的すぎる。世の中は白黒つかないことが多いが、稀に白黒つくこともある。90年代にアパルトヘイトが廃止されたのは喜ばしいことだ。

本作で一番すごかったのはエンディングだ。淡々と文字を並べているだけなのだが、ここに事実の重みがある。物語よりも雄弁に不条理を物語っている。人類の歴史とはこのような散文的な記録にしか存在しないのかもしれない。