海外文学読書録

書評と感想

ジョーダン・ピール『NOPE/ノープ』(2022/米)

NOPE/ノープ(字幕版)

NOPE/ノープ(字幕版)

  • ダニエル・カルーヤ
Amazon

★★

OJ(ダニエル・カルーヤ)とエメラルド(キキ・パーマー)の兄妹は亡くなった父から牧場を受け継いで経営している。父は空からの落下物が頭に当たって死んでいた。ある日、牧場で異変が発生する。UFOの仕業と睨んだ兄妹は敷地内に防犯カメラを設置することに。一方、近所では元子役のジュープ(スティーヴン・ユァン)がテーマパークを営んでおり……。

ダリオ・アルジェントの時代に比べたら撮影技術は桁違いにすごいが、物語は捻りもなく退屈でいまいち評価できない。演出も特に目を引くものはなく、ちょっと平板ではないかと思った。昔の映画は演出で頑張っていたなあ、と。そして、デジタル技術を駆使したホラー映画はディザスター映画に限りなく接近するようで、「Gジャン」が生物の形を借りた災害にしか見えない。Gジャンは食欲と縄張り意識で動いている原始的な生物だから余計そう感じる。広範囲を巻き込む大掛かりなSFXはディザスター映画そのものだった。

映画自体はデジタル技術をふんだんに駆使しているが、物語はアナログの強さを強烈に印象づけている。そこは倒錯していて面白かった。というのも、Gジャンが近づいてくるとすべての電力がシャットダウンするのである。防犯カメラは映らないし、電動バイクは停止するし、デジカメも使えなくなる。だから地上の人間たちは原始的な手段でGジャンに立ち向かうことになる。防犯カメラの代わりに手回しカメラ、電動バイクの代わりに馬、デジカメの代わりに銀塩カメラ。電力に頼らず巨大生物と戦うというコンセプトは確かに面白く、人間の知恵が試されている感じがあった。銃器に頼らないのもいい。そもそもあれだけ大きかったらまず通用しないので、始めからその手段を放棄していたのはクレバーだった。

商業映画なのに見世物を否定的に扱うところも倒錯している。商業映画なんて見世物の最たるものなのに、その媒体でこんなことをする根性がすごい。ともあれ、OJたちの行動原理は徹頭徹尾私欲である。Gジャンを撮影してテレビに出て一獲千金を狙う。そのことに命を懸けている。巨大な敵と戦うのは男性性の回復のためでもなければ、危機の克服のためでもない。どちらかといったら狩猟に近い行為だ。彼らのやっていることはあまり褒められたものではなく、むしろ下賤である。スペクタクルでありながらもOJたちを神話的な英雄にしないところが捻っていた。

ロケーションは抜群だし、映像も綺麗だが、夜のシーンはデジタル処理によってかなり不自然に見える。弄らないと見づらいから仕方がないのだろう。また、UFOネタは当初ミスディレクションかと警戒していたので、ほとんどそのままの形で話が進んだのは拍子抜けだった。この辺、『ゲット・アウト』のどんでん返しが念頭にあったので逆にサプライズだったかもしれない。結果的にはストレートで面白味のない映画になっていた。

Gジャンは人間や動物を捕食するが、その割にはグロ描写が一切ない。おそらくR指定にしないためだろうが、せっかくのデジタル技術なのだからグロ描写をガンガン入れてほしかった。その点、『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』は評価できる。

小津安二郎『お茶漬の味』(1952/日)

お茶漬の味

お茶漬の味

  • 佐分利信
Amazon

★★★★

大企業の部長・佐竹茂吉(佐分利信)にはお見合いで結婚した妻・妙子(木暮実千代)がいる。妙子は金持ちの子女で育ちが良く、茂吉を放っておいて友達と遊び歩いていた。妙子は茂吉に不満を募らせている。ある日、些細なトラブルから妙子が茂吉を避けるようになるのだった。

115分(1時間55分)というそこそこ長い尺だが、テンポが良くてあっという間に終わった。こういう体感時間の短い映画もなかなか珍しい。晩年の小津映画は人間模様をワイドスクリーンで捉えるようになるが、この頃はまだ焦点を絞っているような感じである。色々な脇役が出てくるものの、すべては茂吉と妙子の夫婦関係に寄り添っている。どちらかというと、僕はこういう作劇のほうが好みだ。

お見合いによる結婚と自由恋愛による結婚はだいぶ勝手が違いそうだ。お見合いによる結婚は家と家との結婚であるうえ、半ば強制的である。だから恋愛感情がなくても結婚してしまう。一方、自由恋愛による結婚は恋愛感情が結婚の決め手になる。だからお見合いよりも2人の意向が尊重される。妙子が茂吉に不満を募らせているのはお見合いによって結婚したからだろう。恋愛感情で結びついてないから他人という意識が強い。当然一緒にいてラブラブというわけでもなく、側にいないほうが気楽なのである。離婚するほど配偶者が嫌いなわけではない。しかし、現状にうっすらと不満を抱えている。妙子の姪・節子(津島恵子)はそのことを見透かしていて、お見合いという制度には懐疑的だ。戦後民主主義の時代においては封建的に過ぎるし、夫婦が愛情で結びつかないのはマイナス要因である。ところが、周囲の大人たちは言う。愛情は後から湧いてくる、と。昔の日本人はそうやって騙し騙し夫婦生活を営んできた。彼らは絶え間なき妥協の果てに愛情が萌え出ると信じている。この辺、昔の日本人の思想が透けて見えて興味深い。

茂吉がかなり心の広い人物で、妙子のわがままを一切咎めないのだから驚く。この夫婦は一般的な夫婦とはやや異なっていて、要は茂吉の上昇婚なのである。地方出身の庶民が上流階級の娘を娶った。そういう特殊な関係なのだ。だから夫婦の力関係は妻のほうが上である。茂吉が妙子に対して大きく出られないのは生来の性格もあるが、より大きな要素としてこの上昇婚が挙げられるだろう。現在、SNSの男女論界隈では女性が下方婚しないことが問題になっている。女性が格下の男性と結婚しないことが男性差別に繋がっていると一部の論者は主張している。しかし、実際に女性が下方婚すると茂吉と妙子のような夫婦になってしまう。この関係が世の男性に受け入れられるとは到底思えない。「理解のある旦那さん」でいるのも才能なわけで、お互いが満足する理想的な結婚はなかなか難しいようである。

佐竹家はとても裕福で自宅に電話と冷蔵庫がある。女中も雇っている。特に目を引いたのが電話をかけるシーンで、電話交換手を介さず通話していたのには驚いた。当時、大都市の市内電話は自動接続だったらしい。意外と技術が進展していて感心した。

リチャード・アッテンボロー『遠い夜明け』(1987/英=米)

遠い夜明け (字幕版)

遠い夜明け (字幕版)

  • ケヴィン・クライン
Amazon

★★★

1970年代の南アフリカ。当地ではアパルトヘイトによって黒人が不当に弾圧されている。そんななか、新聞社の白人編集長ドナルド・ウッズ(ケヴィン・クライン)が、黒人運動家のスティーヴ・ビコ(デンゼル・ワシントン)を白人差別の扇動者だと批判する。リベラル派のウッズは女性医師に促されてビコと会うことに。ビコに感化されたウッズは彼の協力者になる。

原作はドナルド・ウッズ『Biko』【Amazon】、『Asking for Trouble』【Amazon】。

事実に基づいた映画ということらしい。予備知識なしで見たので途中の急展開には驚いた。当時リアルタイムで見ていた観客も同じ思いを味わったのではないか(原作を読んでから見に行くとは思えないし)。南アフリカは思った以上にやばい国家で、リアリズムとはこういうことなのか、と思い知らされた。

やはりアパルトヘイトはとんでもない。植民地主義の負の遺産を見せつけられているようで、こんな制度が90年代まで存在していたことにどん引きする。日本人も名誉白人という不名誉な称号を南アフリカ政府から賜っていたのだからまったくの無関係ではない。むしろ、国際世論に逆らって貿易を続けたのだから間接的な加害者と言える。ともあれ、後からこの地にやってきた白人が地元の黒人を虐げる制度は醜悪で、まるで現代のパレスチナ問題のようである。村上春樹はエルサレム賞のスピーチでこう述べた。「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と。イスラエルにおいて卵はパレスチナ人であり、南アフリカにおいて卵は黒人である。少なくとも第二次大戦後の世界はそういう倫理の上で成り立っている。アパルトヘイトという高くて頑丈な壁は即刻破壊しなければならない。

かつてソクラテスは「悪法も法なり」と言って死刑を受け入れたが、本当に悪法に従う必要があるのだろうか。この世には普遍的な正義というのがぼんやり存在しているわけで、悪法という確信があるなら従わないのが良心的とさえ言える。法制度が間違っているなら正さなければならない。しかし、既にその間違った法制度が正規の手順で正せない状態になっていたらどうだろう。中国や北朝鮮、あるいはロシアのように。そういう国の法に従うのは「悪」に従うのと同義で犯罪的であるが、かといって逆らったら自由を奪われてしまうのだからどうにもならない。力なき国民は間違った法に強制的に従わされる。国家が恐ろしいのはこういうところで、やはり国ガチャは重要だと痛感する。

「ペンは剣よりも強し」という格言は実際のところ説得力があって、言論によって世論に働きかけることは重要だ。活字を通じて人々の正義感に訴える。あるいは現代だったらYouTubeの動画で広く拡散させる。20世紀は映画がその役割を担っていた。当時本作を見た人は誰もがアパルトヘイトに憤慨したに違いない。こういうのは一種のプロパガンダであるが、世の中には普遍的な正義というのがぼんやりと存在している。その事実は相対主義に毒された我々でも認めるしかないだろう。正義の反対はまた別の正義、という言葉はあまりに冷笑的すぎる。世の中は白黒つかないことが多いが、稀に白黒つくこともある。90年代にアパルトヘイトが廃止されたのは喜ばしいことだ。

本作で一番すごかったのはエンディングだ。淡々と文字を並べているだけなのだが、ここに事実の重みがある。物語よりも雄弁に不条理を物語っている。人類の歴史とはこのような散文的な記録にしか存在しないのかもしれない。

蔵原惟繕『執炎』(1964/日)

執炎

執炎

  • 浅丘ルリ子
Amazon

★★

平家部落の娘・きよの(浅丘ルリ子)と海の男・拓治(伊丹一三)が再会する。紆余曲折を経て2人は結婚するのだった。ところが、間もなく太平洋戦争が勃発。拓治の元に赤紙が来て招集されてしまう。拓治は負傷して帰ってくるが……。

原作は加茂菖子の同名小説(Amazonに書誌情報がない)。

ナレーションと劇伴が鬱陶しくていまいちだった。ナレーションは状況や心情に踏み込んでいて説明過剰に思えるし、劇伴はこちらの情動をコントロールしようという意図が透けて見えてうんざりする。浅丘ルリ子100本出演記念映画ということで気合を入れ過ぎたのではなかろうか。俳優の演技やカメラワーク、ロケーションなどは悪くなかったのに、語りの枠組みが最悪なせいで評価が下がってしまう。こういう映画は文芸大作と呼ばれるジャンルでたまに見かける。昔の日本映画の悪癖だ。

遠くを映したショットが印象的だった。たとえば、拓治に召集令状が渡されるシーン。拓治と配達員がまるで豆粒のようでかなり極端な構図である。こういうのはプログラムピクチャーではあまり見かけない。また、直後にきよのと拓治が鉄橋を走るシーンも同様だ。ここは遠距離から中距離に切り替わるところがダイナミックだった。さらにもうひとつ。雪の中をきよのと拓治が傘を差して歩くシーンがある。ここは真上から撮っているのだが、被写体との距離があまりに遠いのでミニチュアを使ったトリック撮影ではないかと疑った。実際は鉄橋から見下ろしていると思われるが、いまいち確信が持てない。どうやって撮ったのか謎だった。

屋内で拓治ら男衆が話し込んでいる。扉の外ではきよのが一人で着物を畳んでいる。この構図も良かった。映画は画面(スクリーン)が平面だから奥行きのあるショットが出てくると頭に残るのである。手前と奥でそれぞれが違った動きをしている。別々の思惑で作業をしている。それを一つのフレームに収めているだけでぐっとくる。

物語は市井の人々が戦争という大きな物語に翻弄されるというもので、あまり言うことがない。ちょっと変わっているのが、拓治が脚を負傷したとき医者が切断を勧めたのに、きよのが頑なに拒否したことだろう。きよのは拓治が片輪になるのを容認できなかった。そうなるくらいなら死んだほうがマシだと思っていた。結果的には切断しなくても無事回復したが、しかしそれゆえにまた招集されてしまう。無惨にも拓治は戦死するのだった。もし片輪になっていたら死ぬことはなかったはずで、回復したのが裏目に出たわけだ。戦争という大きな物語の前では個人はまったくの無力。生きるか死ぬかはほとんど運ゲーになってしまう。だかこそ純愛が映えるわけで、大きな物語がロマン主義に利用されているところが目を引いた。

主演の浅丘ルリ子は男優の添え物でいるのが嫌だったそうだが、正直、僕は添え物だった頃のほうがチャーミングで好きだ。小林旭と組んでいたときも良ければ、石原裕次郎と組んでいたときも良い。本作の浅丘はあまり好みではなかった。

ジェームズ・ガン『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』(2021/米)

★★

アメリカ政府が犯罪者によって構成された特殊部隊スーサイド・スクワッドを南米の島国に派遣する。メンバーはハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)、ブラッドスポート(イドリス・エルバ)、ラットキャッチャー2(ダニエラ・メルシオール)、ピースメイカー(ジョン・シナ)、ポルカドットマン(デヴィッド・ダストマルチャン)、キング・シャーク(スティーヴ・エイジー)、リック・フラッグ大佐(ジョエル・キナマン)など。彼らの任務はスターフィッシュ計画の研究所を破壊することだった。

根本的に日本の漫画原作映画と大差ないような気がした。こちらのほうがちょっとばかり金がかかっているだけ。本作はデジタル技術をふんだんに使用しているが、確かにニチアサの特撮ドラマよりは映像がリッチであるものの、一般映画に比べるとリッチではない。全体的に嘘臭くていまいち没入することができなかった。押井守も言っていたが、デジタル技術を使いまくると映画はアニメと変わらなくなる。本作の嘘臭さはそこに由来する。今どき生身の人間を起用しているのは安く済ませるためだろう。50年後のヒーロー映画は全編フルCGアニメーションになってそうな気がする。

R指定にしてまでグロ描写を入れまくったのは『ザ・ボーイズ』の影響ではないか(『ザ・ボーイズ』は2019年公開)。表現が悪趣味でそれがギャグになっているところが共通している。こういうのはデジタル技術の正しい使い方だ。逆に怪獣映画のオマージュみたいなのは興醒めだった。「カイジュウ」という日本語はアメリカでも通用するらしく、ある人物がその言葉を発している。ただし、「カイジュウ」と戦うのは巨大化したヒーローではない。生身の人間(そうじゃないのもいるが)である。クライマックスに巨大生物を持ってくるのはいいとしても、無駄にスペクタクル感を出しているところが好みではなかった。

南米の反米国家を敵にするところは古典的だと思ったが、そこはちゃんとどんでん返しがあったので安心した。ここで興味深いのはアメリカの立ち位置だ。アメリカが外国で非人道的な実験に関与していた。ヒーローものだとアメリカは守るべき大切な故郷だが、本作ではそれが「悪」として真の姿を表すのである。これってシナリオとしてはわりと巧妙で、敵を外国に求めないのだからよくできている。つまり、敵はロシアでもなければイスラム国家でもないし、中国や北朝鮮でもない。言ってみれば己自身である。外国を敵にしないところは弁えている感じがして好ましかった。

冒頭の戦闘シーンが捨て石みたいな扱いだったり、殺した連中が実は味方の反政府軍だったり、予想を裏切る展開をぶっ込んできたところは現代的だった。イタチ人間ウィーゼルの扱いも人を食っている。本作は過激なグロ描写を含め、ところどころ悪趣味なところがセールスポイントだろう。こういうのは正統的なヒーローものだとやりづらいが、ヴィランを主人公にした映画なら違和感がない。まさに『ザ・ボーイズ』の類縁みたいな映画だった。

本作には色々な能力を持ったヴィランが出てくる。ところが、誰も彼もハーレイ・クインに及ばない。ハーレイ・クインは赤いドレスを着てのアクションが様になっていてやはり格が違っていた。たった2時間で多数のキャラを立たせるのは難しいと痛感する。