海外文学読書録

書評と感想

小津安二郎『お早よう』(1959/日)

★★★★

多摩川沿いの新興住宅地。林民子(三宅邦子)は町内会の会計をしているが、会長の妻・原口きく江(杉村春子)は会費を受け取っていないという。原口家では洗濯機を買ったばかりだった。林家の長男・実(設楽幸嗣)と次男・勇(島津雅彦)は、大相撲中継を見るため隣人の家に上がりこんでいる。2人はテレビが欲しかった。また、無職の青年・福井平一郎(佐田啓二)は子供たちに英語を教えており、会社員の有田節子(久我美子)といい仲である。

『三丁目の夕日』【Amazon】とほぼ同年代を扱っている。当時は高度経済成長期の入口に差し掛かり、洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビが三種の神器として庶民の憧れの的になっていた。また、子供たちの間では若乃花(初代)が人気である。この新興住宅地では白黒テレビを所持している家が一軒しかないうえ、洗濯機を買ったら近所の人たちから噂される。三種の神器はまだ庶民に普及しておらず、持っていたら珍しい類の代物だった。当時は物も娯楽も少なかったものの、日本は登り坂で希望に満ちていた時代である。物も娯楽も溢れているのに絶望しかない現代とは大違いだ。我々が昭和にノスタルジーを感じるのは、一度でいいから登り坂の時代を味わってみたいからだろう。失われた三十年。少子化による人口減少。21世紀の日本は衰退を約束されている。そんな現代人にとって本作はとても眩しかった。

新興住宅地は人が密集しているだけあって人間関係がきつそうだ。ご近所さんが引き戸を開けて「ごめんください」と呼ぶ時代である。今みたいにチャイムはない。暇があれば女同士で陰口と噂話に興じて人間関係にひびが入っている。現代は「みんな違ってみんないい」という時代だが、当時は社会がもっと均質化していた。共同体の中の異分子は容赦なく排除された時代である。現に本作でも丸山家が引っ越しを余儀なくされた。この家は住宅地の中で唯一テレビを所持しており、また、妻・みどり(泉京子)はキャバレー勤めで身なりが派手だった。ちょっと周囲と違うだけで居心地が悪くなってしまう。個人主義は個人主義で問題があるとはいえ、こういった均質的な社会もまた地獄である。昭和の暗部といった感じだ。

林敬太郎(笠智衆)が子供たちに「世の中は無駄なことがあるほうがいい」と諭している。タイトルの「お早う」はその象徴である。挨拶や定型表現は無駄である反面、コミュニケーションの潤滑油ということなのだ。しかし、そもそもの発端は敬太郎が子供たちに「男が無駄なことをペラペラ喋るな」と叱りつけたことにあるのだから、この言い草もなかなか調子がいい。大人は子供をやり込めたつもりでも、子供は論理の穴を突いてカウンターを決めてしまう。このように子供が小賢しいところも目を引く。本作は女子供がみんなしたたかなのだ。弱者は弱者なりに知恵を働かせて生きている。そこが庶民といった感じて味わい深い。

俳優で良かったのは杉村春子だった。昭和の典型的な主婦を演じさせたらこの人の右に出る者はいない。女の嫌な部分が昆布だしのように滲み出ていて存在感があった。また、林家の子供を演じた設楽幸嗣と島津雅彦もいい。何をするにも息がぴったりだったし、可愛い顔して大人を翻弄するところが様になっている。

大島渚『太陽の墓場』(1960/日)

太陽の墓場

太陽の墓場

  • 炎加世子
Amazon

★★★

釜ヶ崎のドヤ街。花子(炎加世子)はヤス(川津祐介)たちと協力して売血で稼いでいた。そんなある日、武(佐々木功)と辰夫(中原功二)の幼馴染が愚連隊の信栄会に入る。花子は信栄会の会長・信(津川雅彦)とビジネスをすることになった。信栄会は暴力団の大浜組を恐れてドヤを渡り歩いてる。一方、ドヤ街では動乱屋(小沢栄太郎)が一目置かれるようになっており……。

愚連隊が何なのかよく分からないのだが、要は現代の半グレみたいなものだろうか。反社会的な組織であるものの、暴力団のような格式はない。会長を含め構成員がみな若く、見た感じ不良集団の延長のようである。ただし、掟はとても厳しい。裏切り者は容赦なく殺害している。愚連隊とは不良集団と暴力団の中間にある団体なのだろう。若者を統制したガチな集団であるところが目を引く。

登場人物はドヤ街の住人と愚連隊の若者の二層に分かれているが、完全に分離されているわけではなく、両者は混ざり合っている。どちらも社会の底辺で必死に生きるバイタリティが半端ない。そして、ドヤ街と愚連隊を股にかけるのがヒロインの花子で、彼女は持ち前の気の強さを武器に剣呑な抗争を生き延びている。注目すべきは愚連隊に入ったばかりの武だろう。優男の彼は外見と同じくらい心が繊細で、自分がした行いに罪悪感を抱いている。武は非情になりきれなかったために悲劇に見舞われた。したくもないことをするはめになった。一方、彼とは対照的なのが花子だ。彼女は武と違って非情である。生き馬の目を抜く世界で生き延びるには非情でなくてはならない。他人を食う覚悟を決めないと自分が食われてしまう。生存競争においてはこの覚悟こそが重要なのだ。花子と武の関係においては覚悟の差が如実に表れている。

大日本帝国のために働いていると嘯く動乱屋は扇動者である。彼はソ連が日本に攻めてきて世の中が変わると触れ回っている。その様子はまるでイエス・キリストだ。ドヤ街の人たちも少なからず彼に乗せられている。なぜ乗せられたのかというと、彼らも世の中が変わってほしいと願っているからだ。いつまでもこんな生活は嫌だ。戦争のガラガラポンによって世の中が好転してほしい。戦争の焼け跡よ、もう一度。まさに「希望は、戦争。」なのである。資本主義社会だとどうしても貧富の差が出てしまうわけで、その不満が戦争に吸い寄せられてしまうのは世の常だろう。しかし、実際は平和を維持することによって日本社会は変わった。貧富の差は相変わらずだが、底辺層の生活が底上げされた。現代は当時よりもルンペンの数が少ない。戦争によるガラガラポンよりも平和を維持することのほうが貧困対策としては有効なのだ。ガラガラポンによって焼け跡から一斉スタート。そんなことをしても苦しみが再生産されるだけである。「希望は、戦争。」はやはり浅はかとしか思えない。

印象に残っているシーン。愚連隊が宴会しているところに男が入ってきた。信が命知らずアピールをして男を退散させる。その後、武が入ってきてちょっとした掛け合いをすることになった。ところが、信がいくら怒鳴りつけても武は言うことを聞かない。どちらが男として貫目があるかは一目瞭然である。この掛け合いはそれまで完璧なリーダーだった信にケチがついた瞬間であり、その後の運命を象徴するようなシーンだった。

小津安二郎『彼岸花』(1958/日)

★★★

会社重役の平山渉(佐分利信)には婚期を迎えた長女・節子(有馬稲子)がいた。娘の幸せを願う平山は見合い話を用意するが、娘は知らないうちに別の男とデキていた。それに怒った平山は娘と男の結婚を認めず、あろうことか娘を軟禁してしまう。一方、平山の同期・三上周吉(笠智衆)にも年頃の娘・文子(久我美子)がいるが、彼女は家を出て男と同棲していた。

小津安二郎初のカラー映画である。撮影にあたっては赤の発色のいいフィルムを使っているらしく、劇中にも赤を多く登場させている。タイトルの「彼岸花」はそこから来ているようだ。モノクロのときは和室が貧乏臭く見えたものだが、カラーだとそうでもない。むしろ、プチブル家庭に見合った立派な和室に見える。構図やカメラワークはいつも通り。モノクロからカラーに移行しても特に違和感はなかった。

物語は娘の結婚話という定型的な内容だが、とにかく平山の人物像がすごい。家父長制の権化なのである。外では自由恋愛に理解のあるような言動をしているが、内では娘の自由恋愛を認めてない。娘の幸せを口実にして彼女の自由を制限している。平山は娘が自分に相談しなかったのが気に食わない。すべての発端はここにある。平山にとって娘は所有物も同然であり、彼女の主体性を認めていないのだ。なるほど、フェミニストが家父長制を否定する気持ちがよく分かった。結婚とは人生における一大事だが、家父長制の元では相手を自分で決められない。親の決めた相手と大人しく結婚するしかないのである。子供は親の所有物だから反抗することもままならない。自分の人生を自分で決められないことほど不幸なことはないわけで、平山が家父長制の権化として家庭内に君臨する様子はおぞましいものがある。

平山を演じる佐分利信がはまり役ですごい。会社の重役らしく威厳があるし、その威厳は家庭内での保守的な父親像にも反映されている。ここまで貫禄の俳優もなかなかいないだろう。たとえば、これが笠智衆だとスマートすぎて良くない。佐分利の仕草でもっとも様になっていたのが店員に「君(きみ)」と呼びかけるところで、紳士的な物言いでありながらも歴然とした上下関係を感じさせるところが絶妙だった。我々だったら「すみません」と呼びかけるところを「君(きみ)」である。結局、平山は娘が決めた結婚に対して最後まで釈然としない気持ちを抱いているが、こんな厳ついおじさんが折れたらそれこそ嘘なので俳優と脚本がしっかり噛み合っている。佐分利も笠に負けないくらいいい俳優だ。

平山には妻・清子(田中絹代)がいる。夫婦での語らいの際、清子が戦争の頃は親子4人が一つになれたとか言っていてびびった。今は4人揃ってご飯を食べることも滅多にない。だから一体感のあった戦時中を良き思い出として語っている。これっていわゆる災害ユートピアだろう*1。災害のときには人々が利他的になって相互扶助の共同体が立ち上がる。家族の絆も深まる。本邦では東日本大震災で人口に膾炙した概念だ。僕からしたらこんなものは仮初のユートピアでしかない。清子は穏やかな顔をしながらとんでもないことを言っていて人間の複雑さを思い知る。

*1:詳しくはレベッカ・ソルニット『災害ユートピア』【Amazon】を参照のこと。

キャシー・ヤン『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』(2020/米)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(字幕版)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(字幕版)

  • メアリー・エリザベス・ウィンステッド
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★★★

ゴッサム・シティ。ジョーカーと破局したハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)、暗殺者のハントレス(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)、歌姫のブラックキャナリー(ジャニー・スモレット=ベル)、刑事のレニー・モントーヤ(ロージー・ペレス)、スリの少女カサンドラ・ケイン(エラ・ジェイ・バスコ)。女5人が裏社会の支配者ブラックマスク(ユアン・マクレガー)と対峙する。

原作はチャック・ディクソン、ゲイリー・フランク『Birds of Prey』【Amazon】。

ハーレイ・クインの魅力を全面に出した卒のないアクション映画。逆に言えばハーレイ・クイン以外はまったく魅力がない。みんなDCコミックスの登場人物らしいが、こんなに存在感がなくていいのだろうか。ただ、本作のいいところは全員が一般人であるところで、スーパーヒーローがやるような荒唐無稽なアクションはない。超人的ではあるものの、比較的人間らしい身体能力を感じさせるものになっている。そこは最新の技術で上手く表現されていた。たとえば、60年代の日活アクションや現代のニチアサ特撮に比べたら格段に上等だ。本作は超人的なアクションをどうやって自然な映像に落とし込んでいるのか謎である。おそらくVFX的なトリミング技術でもあるのだろう。この技術で仮面ライダーを作ったらすごいものができそうだ。

取ってつけたようなPCがどうにも引っ掛かる。たとえば、人種的な配慮。アフリカ系、ラテン系、アジア系と登場人物が多彩である。今年の第96回アカデミー賞では、白人のロバート・ダウニー・Jr.がアジア系のキー・ホイ・クァンを壇上で無視したことで話題になった。これは人種差別ではないか、と物議を醸したのである。アメリカではそういうことが日常茶飯事なので、せめて映画の中では人種差別をなかったことにしたいのだ。現実が酷すぎるので配慮をする。言い換えれば、臭いものに蓋をする。ゴッサム・シティは犯罪都市だから人種差別もえぐそうだが、それが一切ないところにアメリカの闇を感じる。

一方、本作はフェミニズムの要素もある。5人の女がチームを組むのは女同士の連帯を表しているし、そもそもハーレイ・クインが目指していたのは自立した女になることだった。ジョーカーと付き合っていたハーレイ・クインは、周囲から「ボスキャラになびく女」「一人じゃ何もできない」と目されていた。ジョーカーのおかげでハーレイ・クインに危害を加えようとする者もいない。ところが、今回ジョーカーと別れたことで状況が一変した。周囲は自分を特別視しなくなった。ハーレイ・クインは男の飾りではなく、一人の自立した女として再出発することになる。女性を主人公にするとこういう要素を入れないといけないから大変だ。入れないとフェミニストからクレームが来る。本作のフェミニズム要素は観客の反応を先取りしたアリバイ作りにしか見えなかった。

過剰なモノローグによって登場人物を手早く紹介したのは良かった。状況へのツッコミもポップな雰囲気を出していて面白い。ただ、警察署に乗り込むシーンで時系列を錯綜させたのは上手いやり口だとは思えなかった。巻き戻って経緯を説明することで物語がもたついているように感じる。とはいえ、全体的にモノローグによって語りの経済性を極限まで突き詰めているのは好感が持てる。エンターテイメントとして卒がなかった。

ホン・サンス『逃げた女』(2020/韓国)

★★★★

ガミ(キム・ミニ)は夫と5年間離れたことがなかったが、夫が出張して初めて1人になった。彼女はソウル郊外に住む3人の旧友と会う。1人目は、離婚してルームシェアしているヨンスン(ソ・ヨンファ)。2人目は、ピラティスのインストラクターをしているスヨン(ソン・ソンミ)。3人目は、イベント関係の仕事をしているウジン(キム・セビョク)。ガミは夫から「愛する人とは何があっても一緒にいるべき」と言われていて、そのことを3人に話すが……。

エリック・ロメールっぽい作風だと思っていたら、ホン・サンスは「韓国のエリック・ロメール」と呼ばれているらしかった。ほとんどが会話シーンで旧友たちとひたすら雑談をしている。会話の内容はあまり覚えてない。するすると引っ掛かりのない自然な会話といった感じだ。ところが、どのエピソードも途中で男が闖入してくるところが共通していて、それが物語のアクセントになっている。ただし、多少のトラブルはあっても日常から逸脱するほどではない。みんなハイソな世界で平穏な生活を送っている。こうやって等身大の人物像を提示しているところが本作の味だった。

印象に残っているシーン。ヨンスンと同居人は野良猫に餌をあげているが、そのことで隣人男性からクレームが来た。隣人は引っ越してきたばかりで遠慮がちだ。ヨンスンたちは隣人のクレームをきっぱり拒否している。この角の立たないようなやりとりも面白いが、もっと面白いのが事後に猫の様子を映すところだ。猫の態度がふてぶてしくて笑ってしまった。お前のことで揉めてるんだぞ、とツッコミを入れたくなる。

また、スヨンの元に若い男が訪ねてくるシーンも面白い。この男は詩人でスヨンに気がある様子。ところが、スヨンは彼をストーカー扱いしてにべもない。男は情けない態度でスヨンの温情にすがっている。韓国って男尊女卑のイメージがあったからこの力関係は意外だった。実は男はドMでこの関係を楽しんでいるのではないかと疑ってしまう。何らかの寓意ではないかと首をひねるくらい奇妙な図式だった。

あとは住まいの3階に立ち入らせてくれないエピソードや、リンゴを食べるのを反復させるところなど、些細な部分が印象に残っている。少しの引っ掛かりを仕込むのがこの手の映画の肝のような気がした。

注目すべきは登場人物が所属する文化的な階層だろう。作家、詩人、建築家などとにかくハイソである。スヨンに至っては10億ウォンも貯金があるようだ。極めつけはガミの夫で、彼は翻訳者であると同時に大学教授でもある。旦那のステータスでカードバトルをしたら優勝できるレベルだ。ガミ自身はほとんど趣味みたいなレベルで花屋をしている。物語はハイソなご夫人によるささやかな一人旅であり(夫と5年間離れたことがなかったのだ)、それを嫌味なく見せているところが良かった。

映像はなるべくワンカットワンシーンで撮るようにしていて、ぎこちないズームを多用している。全体的にカメラの動きが素人臭い。わざとインディペンデントっぽい作りにしているようで、そこは作家主義の映画という感じだった。