海外文学読書録

書評と感想

是枝裕和『空気人形』(2009/日)

★★★

ファミレス店員の秀雄(板尾釧路)は、ラブドールに「のぞみ」と名付けて夜な夜な可愛がっていた。ある日、そのラブドールに心が芽生える。メイド服を着たラブドールペ・ドゥナ)は秀雄がいない日中、外に出て街を散策。通りがかったレンタルビデオ店で純一(ARATA)と出会い、彼と一緒にバイトをする。

原作は業田良家『ゴーダ哲学堂 空気人形』【Amazon】。

人間と人形の関係を描いているところは押井守を連想した。

序盤はメイド服を着たペ・ドゥナがとにかく可愛くて、世界に向けた好奇心といい、子供じみた物腰といい、まるで天使のようだった。彼女が外出をする際にメイド服を選んだのは、ラブドールが主人に奉仕する道具だからだろう。このときはまだ自我が芽生えて間もなかった。後に彼女はメイド服から私服へと服装が切り替わる。自分で買った服を着るようになる。これは彼女が主体性を持ったことの表れで、以降自ら率先してメイド服を着ることはなくなるのだった。僕は全編メイド服のほうが眼福だと思ったけれど、それでは世のフェミニストたちが黙っていないだろう。しかし、ペ・ドゥナは人間らしくなればなるほど可愛さを失っていった。人形みたいだった頃が一番可愛かった。それを裏付けるかのように、終盤、人間化したペ・ドゥナを目の当たりにした秀雄が、彼女に「人形に戻ってくれ」と頼んでいる。これってつまり、男は自我のない女が好きなわけで、まったくしょうもない嗜癖だと思う。

人間は燃えるゴミであり、人形は燃えないゴミである。そして、人間も人形も何かの代用品で、いくらでも代わりが存在する。たとえば、天皇や総理大臣だって代わりはいる。死んだら別人が後を継ぐだけだ。その存在が唯一無二であるかどうかは、家族や恋人といった私的な領域でしかあり得ない。公的な領域ではいくらでも差し替えがきくのである。自分で書いていて何だか虚しくなってきたけれども、そういう問題意識が本作を貫いていて、だからこそ誕生日を祝うシーンに感動するのだ。というのも、誕生日を祝ってもらうことは、愛されている証であり、この世に必要とされている証なのだから。そこには誰の代用品でもない固有性が認められる。僕は誕生日を迎えるたびに、一歩ずつ死に近づいていることを実感して憂鬱になっていた。けれども、これからはもっとポジティブに捉えようと思った。

それにしても、メイド服姿のペ・ドゥナは可愛かった。制服は女を7割増しに見せる。おっさんがJKにくらくらしてしまうのも仕方のないことだと納得した。

ジョエル・シュマッカー『セント・エルモス・ファイアー』(1985/米)

★★

ジョージタウン大学を卒業して数ヶ月の7人は、セント・エルモス・バーを溜まり場にしていた。弁護士を目指しているカービー(エミリオ・エステベス)、サックス奏者のビリー(ロブ・ロウ)、新聞記者のケヴィン(アンドリュー・マッカーシー)、銀行員のジュールズ(デミ・ムーア)、共和党議員の元で働くアレック(ジャド・ネルソン)、アレックと同棲しているレズリー(アリー・シーディ)、福祉施設で働くウェンディ(メア・ウィニンガム)。大人になりきれない彼らが騒動を起こす。

80年代を代表する青春映画。日本のトレンディドラマ『愛という名のもとに』【Amazon】の元ネタらしい。この手のドラマには疎いので何だけど、僕は『ビバリーヒルズ青春白書』【Amazon】を連想した。雰囲気がとてもよく似ている。

登場人物がみんなモラトリアムを引き摺っていて、やることなすことすべてが痛々しかった。これは偏見だけど、京都のシェアハウス界隈がこんな感じなのだと思う。社会に適応せず、仲間内で騒いで終わらない青春を夢見ている。こういう人たちはもはやマイノリティなわけで、「早く大人になれるといいね」とお祈りするばかりである。

本作には色々エピソードがあったけれど、一番面白かったのはレズリーを巡る三角関係だった。レズリーは当初アレックと付き合っていた。しかし、途中で喧嘩別れしてしまう。その後、彼女はケヴィンの元に転がり込み、2人はセックスする。ケヴィンはレズリーに対して密かに恋心を抱いており、その想いを彼女に伝えるのだった。ところが、レズリーは彼の告白を拒絶し、「セックスと愛は別」と言い放っている。レズリーはアレックのことを忘れるためにセックスしたのだった……。この女、結果的に2人の男を手玉に取っていてかなりの曲者だと思う。

さらにもうひとつ。仕事をクビになったジュールズが、部屋に立てこもってメンヘラムーブをかますところも見所だ。このエピソードでは仲間が全員集合してドタバタ騒いでおり、映画全体のクライマックスになっている。そしてラストでは、それぞれの問題を解決した7人が、いつものセント・エルモス・バーに入らず、別の酒場に向かう。これはモラトリアムの終焉を意味しているのだろう。この映画、最初は「痛い連中だなあ」と呆れながら観ていたけれど、終わり方が予想外に爽やかでカタルシスがあった。青春ドラマの楽しみ方が分かったような気がする。

本作は80年代テイストが色濃く、現代人が真面目に観るにはなかなかきつい。しかし、曲がりなりにも一世を風靡した映画なので、教養として割り切るなら観ても損はしないだろう。

是枝裕和『歩いても 歩いても』(2008/日)

★★★★

絵画修復師の横山良多(阿部寛)が、再婚した妻(夏川結衣)とその連れ子(田中祥平)を伴って帰郷する。横山家では兄の15周忌のため、親族が集まっていた。元開業医の父・恭平(原田芳雄)とその妻で専業主婦のとし子(樹木希林)が暮らす家に、良太の姉・ちなみ(YOU)とその夫(高橋和也)、さらに2人の子供も来ている。良多と恭平は関係がぎくしゃくしていた。

これはすごかった。三世代にわたる家族の何気ない日常を描いている。台所での調理から食卓を囲んでの団欒まで、隅々まで神経が行き渡っていてその迫力に打ちのめされた。アニメの日常ものも悪くないが、あれは癒し系なのでだいぶ理想化されている。本作みたいな生々しいやりとりは実写映画でしか不可能だろう。こういう映画こそ日本映画の醍醐味だと思うので、今後は意識して小津安二郎や山田洋次に手を出していこうと決心した。

樹木希林、YOU、夏川結衣といった女性陣が芸達者で、会話による攻防にリアリティがあった。家族を描くとはすなわち関係の網の目を描くことで、誰が誰をどう思っているのか、言葉遣いや態度で浮き彫りにしていく。樹木希林とYOUは血の繋がった親子を演じているから、お互い気の置けない態度でいるが、夏川結衣は次男の嫁だから終始笑顔で気を使う。おまけに彼女は後家で連れ子もいるから、かかるプレッシャーが半端ないのだった。この微妙な空中戦は日本人なら誰もが体験しているので、見ていてつい我が事のように感じてしまう。そして、お互い気を使いつつも本音がちらりと覗いたとき、人間の持つすごみというか、言い知れぬ闇が肌をそっと撫でてきて思わずぞっとするのだった。特に樹木希林が夏川結衣に軽く嫌味を言い、そこからストレートに子供を作るかどうか訊いてくる2段コンボは強烈だ。まるでボクシングのコンビネーションブローのようである。樹木希林はこれ以外にも、死んだ長男を巡って赤の他人に痛烈な嫌がらせをしていて、おっとりした外見とは裏腹に救い難い陰湿さを抱えている。その人間性がとても恐ろしかった。

本作はカメラワークも絶妙だった。一家の団欒を安定した画角で捉え、どっしりとした印象を与えるところは、いかにも映画の映像という感じがする。こういうのはテレビドラマだと絶対に出ない味わいだ。また、長回しによる会話劇も見応えがあって、丁々発止のやりとりはうらぶれた日本家屋によく似合う。本作は日本映画の最良の部分を結集した映画と言えよう。

クリント・イーストウッド『運び屋』(2018/米)

★★★

園芸家のアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は家族と折り合いが悪く、80代になっても孤独に暮らしていた。経済的に行き詰まった彼は、債権者に自宅を差し押さえられてしまう。そんななか、アールはひょんなことから麻薬の運び屋になるのだった。麻薬取締局のコリン・ベイツ(ブラッドリー・クーパー)が彼を追う。

犯罪を扱いつつ同時に家族の再生も描いていて、随分とありきたりな脚本だと思った。ただ、あのクリント・イーストウッドが矍鑠としたお爺ちゃんを演じているのは面白い。途中で話の道筋が分かってしまうものの、それでも彼の演技を確認するために最後まで見た。

周知の通り、クリント・イーストウッドマカロニ・ウェスタンの頃から孤独なカウボーイを演じていた。本作でも孤独な老人を演じていて、この辺の役回りは昔からブレてないと感心する。もちろん、歳をとっても男根主義的な面は色濃い。アールは朝鮮戦争の復員兵であることを誇りに思っていて、ギャングに銃で脅されても、「俺は戦争に行ったんだ。そんなもの怖くない」と撥ねつけている。また、麻薬を運ぶ際もギャングの指示通りには動かず、好き勝手に寄り道したり停車したりする始末。老人だからこそ死を恐れないのか、犯罪組織と互角に渡り合う怖いもの知らずの性格をしている。これがイーストウッドの考える老人のダンディズムなのだろう。さらに、アールにはチャーミングな一面もあって、際どい冗談や軽口を平然と飛ばすし、インターネットには疎いというステレオタイプな欠点も備えている。弱々しい外見とは裏腹に強固な自我を持ち合わせていて、人間は何歳になっても現役なのだと感心した。

初めはバイト感覚でやっていた運び屋が、いつしかのっぴきならない状況にまで追い込まれる。アールのやっていることといったら車を目的地まで運転するだけ。しかし、それだけで大金が手に入る。一度楽して稼いでしまうともうカタギには戻れなくなるのだろう。正直、序盤を観た段階では僕もあの仕事をやりたいと思ったくらいだ。けれども、何度も運び屋をするうちに深い沼にはまってしまう。ボスの胸三寸で命の危機に見舞われてしまう。こうなるともはや麻薬取締局に摘発されることが唯一救われる道で、ああいう結末に至ったのも必然だろう。本作は犯罪組織に関わることのリスクをリアルに描いていて、やはり法を守るのが一番だという気分になる。自分の身を守るためにも遵法精神は大切だ。

家族の再生については凡庸なハリウッド映画そのもので、犯罪だけじゃドラマにならないからとりあえず付け足したような間に合わせ感がある。この辺はテンプレ通りで物足りない。結局、ハリウッドで撮るとハリウッドの文法に従わなければならなくなる。売れ線の要素を入れなければならなくなる。そういう暗黙の制約が感じられてきつかった。世界の映画産業がハリウッド一色でないことを我々は喜ぶべきだ。

是枝裕和『誰も知らない』(2004/日)

★★★★

アパートに母親・けい子(YOU)と長男・明(柳楽優弥)が引っ越してくる。荷物の中から次男・茂(木村飛影)と次女・ゆき(清水萌々子)が現れ、さらに外では長女・京子(北浦愛)と合流する。けい子は明の存在だけを公にし、残り3人のことは世間から隠して育てていた。当然のことながら全員学校に行かせてない。ある日、けい子が現金と書き置きを残して失踪、子供だけの生活が始まる。

同じ監督の『万引き家族』は本作の変奏じゃないかと思った。社会制度の隙間を題材にしているところといい、寄せ集めの家族を描いているところといい、根底にある問題意識が共通している。

人間は人混みの中でこそ孤立するのだろう。子供たちは都市部で漂流しているような感じで、社会制度からこぼれ落ちながら生活している。むしろ、自ら社会に取り込まれるのを拒否していると言ったほうが正しい。彼らが福祉に頼らないのは、行政にバレたら兄弟が引き離されると信じているからだ。子供たちはそれぞれ父親が違うし、親権がどうなっているのかも分からない。それどころか、戸籍があるのかどうかも不明である。だから仮に行政に頼ったとして、今後も円満に暮らせるかは未知数だ。

と、そういう事情があるので、彼らは不便を受け入れつつ、社会の隙間でこっそり生息している。生きる希望になっているのは、失踪した母親が帰ってくるかもしれないという期待だけ。電気・ガス・水道が止められても、行政に頼らず何とかやりくりしている。人間はこの地上に存在する限り、どこかに所属しなければならない。行政に存在を捕捉されなければならない。都市部で漂流している彼らは、社会のシステムエラーみたいなもので、日本の社会制度が不完全なことを物語っている。現行の法律では彼らを救うことはできない。

母親のけい子は、ネグレクトをしているとはいえ悪い人物ではない。ただ、大人として最低限必要とされる責任感が欠けているだけである。ひょっとしたら発達障害か知的障害を抱えているのかもしれない。少なくとも子供と一緒にいるときは愛想がよく、何か粗相をしても体罰を与えないだけの分別はある。とはいえ、子供たちには身勝手なエゴを押し付けている。学校に行かせなかったり、外に出るのを禁じていたりする。愛情を餌に子供たちを従わせているのだ。このやり方は傍から見ると悪辣で、子供たちを救うにはまず彼女をどうにかするしかないと思わせる。しかし、そんな母親でも親であることには代わりがなく、子供たちを彼女と引き離すべきかは疑問だ。引き離したら当然、子供たちは施設送りになってしまう。誰もそんなことは望んでいないだろう。そこが家族関係の難しさで、ここにも社会のシステムエラーが存在するのだった。

この社会は完璧ではない。いくらでも隙間が存在する。本作はその事実をこれでもかと突きつけてくる。