海外文学読書録

書評と感想

エリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィ、ジミー・チン『フリーソロ』(2018/米)

★★★

2017年6月。ロッククライマーのアレックス・オノルドが、エル・キャピタンへのフリーソロ・クライミングに挑戦する。その様子を撮影したドキュメンタリー。

監督は『MERU/メルー』の人。本作も同じくロッククライミングを題材にしたドキュメンタリー映画だけど、今回は命綱なしのフリーソロを扱っている。当然、足を踏み外したら死ぬ。『MERU/メルー』とは違った緊張感があった。

こういう命懸けの挑戦をする人は僕からしたら異人種で、だからこそアレックスの人間性に迫ったところが面白かった。彼は登ることで「生」を実感するのだという。なるほど、よくある動機だ。中東で戦っている傭兵のような感じだろう。しかし恐ろしいのはその人生観で、「幸福な世界は何も起きない」と達観しているところだ。挑戦こそが人生だと思っており、だからこそ命懸けのフリーソロに挑んでいる。確かにこういう戦士の精神は大切で、人生は一度しかないのだから目標に向かって挑戦することには意義があるだろう。とはいえ、常識的に考えてフリーソロはやりすぎだ。一歩間違えたら死んでしまうし、報酬に対してリスクが大きすぎる。もっと穏当な挑戦にしておけばいいのにと思ってしまう。ただ、病院でのMRI検査によると、アレックスの扁桃体は活性化していないようで、通常よりも強い刺激じゃないと反応しないという。だから、ああいう向こう見ずな行為をしているのだ。そう考えると、これは我々凡人とは異なる特殊な人間の物語ということになる。

フリーソロの撮影は、撮るほうにも葛藤がある。カメラを向けることで相手にプレッシャーを与えるし、最悪の場合、それによって滑落する危険もある。観測することで対象に影響を与えるのは、何も量子力学だけではないらしい。一方、アレックスのほうも、見られていることを意識するとパフォーマンスが発揮できないのではと心配している。本作の難しいところはここだ。撮影しないと映画にできない。しかし、撮影すると肝心のフリーソロに影響する。ドキュメンタリーには常にこの種の問題がつきまとっているから大変である。

本作を観ていると、人の生き死にこそが最高のエンターテイメントだと自覚させられるから困ったものだ。命の危険があるからこそ観客もハラハラするし、画面に釘付けになる。フリーソロに挑むラスト20分は圧倒的な緊張感だけど、心の中でワンチャン滑落してくれないかと期待もしていて、そのスリルが見る者を興奮させるのだった。古代ローマ時代に剣闘士競技が流行ったのもむべなるかなである。

スティーヴン・スピルバーグ『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002/米)

★★★

16歳のフランク・W・アバグネイル(レオナルド・ディカプリオ)は日頃から父(クリストファー・ウォーケン)を尊敬していたが、その父が母と離婚して離ればなれになることに。それを聞いて家を飛び出したフランクは、行く先々で小切手詐欺に手を染める。その後、フランクはパイロットや医者に成り済ますのだった。一方、FBI捜査官カール・ハンラティ(トム・ハンクス)は、巨額小切手詐欺の存在を認知、フランクを追いかける。

原作はフランク・W・アバグネイル、スタン・レディング『世界をだました男』【Amazon】。

60年代の牧歌的な犯罪を扱っている。オープニングを観た段階で、コンゲームやケイパー・ストーリーみたいなのを予想していたら、案に相違してハートウォーミングな親子ものだった。実父への思慕も去ることながら、自分を追跡してくるハンラティとも擬似的な父子関係を結んでいる。フランクのファザコンっぷりが愛おしかった。

フランクがルパンだとしたら、ハンラティは銭形警部で、2人が対立しながらも奇妙な友情で結ばれるのは、この手のドラマのお約束である。しかも、大抵は追いかけるほうが間抜けだ。ご多分に漏れず、本作でもハンラティは何度かフランクに出し抜かれている。まあ、簡単に捕まえたらドラマにならないから仕方がない。でも、FBIのベテラン捜査官が、下手したらそこらの巡査よりも無能っぽいのはさすがにきついものがある。

フランクはクリスマス・イヴにハンラティの元に電話して、自身の孤独を指摘される。話し相手がいないから電話をかけてきたんだろ、と嘲笑される。フランクが孤独なのは逃亡犯だからというのもあるけれど、それ以上に愛する父と離ればなれであるところが大きいのだろう。フランクが犯罪に手を染めるきっかけが両親の離婚であることを考えると、歯車の狂い方には情状酌量の余地がある。彼はたまたま知能が高くて犯罪者の適性があったのだ。また、フランクが逃亡中の身であるにもかかわらず、結婚して家庭を持とうとしたのも、定位家族の不幸が原因だ。今度こそ幸せな家庭を築きたい。安心できる居場所を作りたい。そういう思いが伝わってきてちょっと悲しくなった。

アメリカは能力があったら囚人でも公的機関に採用されるから、場合によっては捕まることがハッピーエンドに繋がる。ここら辺は日本とだいぶ事情が異なっていて興味深い。日本だと有無を言わさず服役させてその才能を潰してしまう。日本が超大国になれなかったのは、こういう硬直的な社会制度が原因なのだ。僕は時々、アメリカみたいな柔軟な社会が羨ましくなる。

新海誠『言の葉の庭』(2013/日)

★★★

高校生の秋月孝雄(入野自由)は、雨の日は1限をサボって庭園の休憩所で過ごすことにしていた。彼は靴職人を目指してスケッチを描いている。ある日、いつも通り庭園に行くと、スーツを着て缶ビールを飲んでいる謎の女性と出会う。彼女は雪野百香里(花澤香菜)という名前だったが、孝雄がそれを知るのはもっと後になってからだった。

NHKにようこそ!』【Amazon】や『Fate/Zeo』【Amazon】が世間に受けているの見ると、男性おたくには多かれ少なかれメサコンへの憧れがあるのだと思う。「世界を救いたい」はさすがにないにしても、「弱った女性を救いたい」という願望は内に秘めている。ただ、メサコンとは傷ついた異性を助けることで彼女の好意をゲットし、さらに自己有用感も獲得する非常に醜悪な欲望だ。なのでそれを大っぴらにはしづらいところがある。世に溢れる自称メサコンどもはそういったフェイク野郎であり、自身の支配欲を自虐的に表明しているのだ。真のメサコンはおそらく福祉職に潜んでいるのだろう。老人や障害者を救う行為には、やりがい搾取に繋がる大きな快楽がある……。ともあれ、この世にはメサコンを満足させるコンテンツがちらほらあって、本作もその一つなのだった。

本作のポイントは、主人公の孝雄がメサコンじゃないところだ。孝雄は百香里と交流することで、最終的には彼女を救う。傷ついた女性を一人で歩けるようになるまで回復させる。しかし、それは意図して救ったのではなく、知らず知らずのうちに救っていたのだった。孝雄は百香里に泣きながら抱きつかれて感謝されており、これはメサコン男にとっては理想的な展開だと言えよう。面白いのは、孝雄の愛の告白はやんわりと拒絶されているところだ。2人の間にはプラトニックな絆だけが残っている。当然、性行為もない。アニメらしいとても綺麗な関係だが、観客のメサコン男にとっては一線を越えて交わることこそが理想だろう。しかし劇中でそれをやると、自身の欲望を他人に代行されることになり、それはAVを観ているような居心地の悪さを感じてしまう。性行為をしたいのは自分なのに、実際にやっているのは画面に映っているあいつだ、みたいになってしまう。だから孝雄と百香里がプラトニックな関係のまま終わったのは正解で、これでこそメサコン男のお眼鏡に適うシナリオなのだった。

15歳の孝雄にとって、27歳の百香里は色気ムンムンの熟女である。そんな孝雄が百香里の足を採寸するシーンは、本作のハイライトであると同時に、性的興奮を喚起させる絶好のシチュエーションだ。ところが、そこはストイックに採寸に努めていて、ここまで徹底的にセックスを回避するのは逆にすごいことだと思う。美しいものを美しいまま画面に留めておく。アニメらしく脱臭されたその童貞マインドに僕は感動したのだった。

なお、本作には小説版もある。

 

新海誠『秒速5センチメートル』(2007/日)

★★★

東京の小学生・遠野貴樹(水橋研二)と篠原明里(近藤好美)は、お互いに惹かれるところがあっていつも一緒にいた。ところが、中学進学と同時に明里が栃木に引っ越してしまう。しばらく文通を続ける2人だったが、今度は貴樹が鹿児島に引っ越すことに。このままでは二度と会えなくなると思った貴樹は、電車に乗って明里に会いに行く。

まるで90年代のドラマのような古臭さだった。山崎まさよしの曲がしつこいくらい自己主張していて、それがまた90年代テイストに拍車をかけている。中学時代を扱った第1話は、この年齢ではあり得ないくらいのロマンティックな関係をかましていて、観ていて唖然とした。普段はストイックに文通し、再会したときは駅の待合室で一緒に弁当を食べ、最後は綺麗なキスをして別れる。13歳でさすがにそりゃないだろ、とツッコミを入れたくなるほどだ。しかし、これは最終話(第3話)から逆算されて作られているので、多少早熟になるのは仕方がないことだろう。このパートはラストで落とすためのいわば「振り」なので、これくらい非現実的なくらいがちょうどいいと言える。

高校時代を扱った第2話では、視点を変えて貴樹がまだ明里に気があることを示している。その心情をロケットに例えているのはなかなかお洒落だ。貴樹もロケットも、孤独に世界の深淵に向かっている。その視線は遠くを一直線に見つめており、彼の傍らで思いを寄せている同級生なんて眼中にないのだ。高校生といったら他人の好意に敏感になる時期だけど、それをこんな風にすかされたら観ているほうも変に思うだろう。未だに遠く離れた初恋の女を想っているなんて……と白けてしまう。やはり遠くの恋人よりも近くの女友達ではなかろうか。貴樹については、ここら辺から違和感が出てくる。

社会人になった最終話(第3話)では、貴樹と明里にくっきり明暗が分かれている。貴樹は生活に疲れた負け犬になっており、将来に何の展望もない典型的なロスジェネ男と化している。一方、明里は結婚が決まっていて、この世の春を謳歌している。そして、恐ろしいことに貴樹は今も明里に未練があった。一途な思いもここまで来ると鳥肌が立つけれど、それを綺麗な作画で覆い隠しているのだから悪質だと思う。

本作を観て痛感したのは、不景気にあっては男よりも女のほうが人生イージーモードだということだ。男はいくらイケメンでも仕事ができなければ落ちこぼれる。一方、女は若ささえあれば、適切なときに売り抜けて勝ち逃げできる。貴樹が負け組になって明里が勝ち組になったのは、初恋を捨てられたかどうかよりも、男女を分断する社会構造が原因と言えよう。ロスジェネを題材にした本作は、期せずして男女格差の問題を炙り出したのだった。

なお、本作には小説版もある。

 

マーティン・スコセッシ『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013/米)

★★★

野心満々でウォール街投資銀行に入社したジョーダン・ベルフォート(レオナルド・ディカプリオ)だったが、株式仲介人として力を発揮する前にブラックマンデーで銀行が倒産する。その後、紆余曲折を経て自分で投資会社を立ち上げて荒稼ぎし、セックスとドラッグに満ち溢れた日々を送る。やがてFBIに目をつけられ……。

原作はジョーダン・ベルフォートの回想録【Amazon】。

これを観ると、かつて一世を風靡した堀江貴文村上世彰は小物なんだと思う。ベルフォートは稼いでる額も桁違いだし、仲間内で派手に乱脈の限りを尽くしていて、拝金主義者としての格が違いすぎる。ここまで強欲な人間はアメリカにしかいないのではないか。しかもその欲望が、高級車やクルーズ船といった分かりやすい物欲だったり、セックスやドラッグによって快楽を得ることだったり、妙に薄っぺらいところが笑える。僕がTwitterで観測している人物に、元証券マンで薬物依存症の精神障害者がいる。彼はこの映画がお気に入りらしい。今は何をしているのかというと、生活保護を受けつつブロンをODしては仮初の快楽に浸っている。なるほど、確かに彼の好きそうな映画だ。普段から言動が薄っぺらいし、頻繁に自撮りをアップしてはフォロワーとエンカして陽キャをアピールしている。彼は本作みたいな明るく退廃した生活に憧れているのだろう。金とセックスとドラッグに塗れた人生。こういう映画が駄目人間のロールモデルになっているのは罪深いことである。

ラカンによると、欲求は満足できるのに対し、欲望は決して満足しないのだという。本作を観ていたら、それも一理あるなと納得した。ベルフォートと愉快な仲間たちは、生きていくには十分な額を既に稼いでいるのに、欲望に歯止めが効かない。そのまま破滅への道を突っ走っている。僕だったらある程度稼いだら引退して、読書や映画三昧の日々を送るだろう。金で買える最大の商品は時間であり、その時間でやりたいことをやるのが幸せだと思うのだ。しかし、本作の登場人物はそういう哲学を持ち合わせていない。ひたすら欲望と快楽を追求している。結局のところ、多くのものを得るのは強欲な人間であり、また多くのものを失うのも強欲な人間なのだ。僕みたいにほどほどの欲望しか持ってない人間は、得るものも失うものもほどほどなので、大きな成功もしない代わりに大きな失敗もしないのである。これはこれでちょっと寂しいような気がした。

本作のMVPは、ベルフォートの上司を演じたマシュー・マコノヒー。その変人ぶりが堂に入っていた。また、金融業界が体育会系気質なのは日本もアメリカも同じようで、社員をマイクで鼓舞するシーンは某証券会社を思い出した。きっと社内で乱痴気騒ぎもしていることだろう。こういう連中とは関わりたくないと思った。