海外文学読書録

書評と感想

新海誠『星を追う子ども』(2011/日)

★★

母と2人暮らしの明日菜(金元寿子)は、父の形見の鉱石ラジオで不思議な唄を聴いている。ある日、線路上で怪物と遭遇した明日菜は、アガルタから来たという少年シュン(入野自由)に助けられる。ところが、シュンはまもなく姿を消してしまうのだった。その後、新任教師の森崎(井上和彦)が現れ、彼と地下世界アガルタを旅することに。

フラクタル』【Amazon】もそうだったけれど、ジブリのオマージュをやると比較の対象がジブリ映画になるから、無駄にハードルが上がって損するんじゃないかと思った。本作の場合、作画や日常の細かい動きはしっかりしているものの、ジブリ映画に特有の躍動感やわくわく感に乏しいので、見ていて物足りない。おまけに、アガルタの旅は終盤の見せ場までひたすら退屈だ。異世界を舞台にした映画なのに、その世界に魅力がないのは致命的だろう。これならまだ序盤の昭和ノスタルジーのほうが良かった。

随所に散りばめられたジブリオマージュは、見ているほうが恥ずかしくなるような代物で、金のかかった作画じゃなかったら同人映画と勘違いしそうだ。高い場所から落下するシーンが何度も出てくるのには辟易したし、ラピュタの飛行石やロボット兵をパクっているのには苦笑してしまう。ただ、褒めるべき点もあるにはあって、それはアガルタの舞台設定だ。ラピュタが天空の城なのに対し、アガルタは地下世界になっていて、地上(=現実)との連続性を物語に組み込んでいる。この辺は工夫を感じられた。

本作の明日菜は狂言回しで、事実上の主人公は森崎だ。森崎は亡くなった妻に未練があり、彼女を生き返らせる目的でアガルタに入っている。面白いのは、その一途な愛情が作り手によって否定されているところだろう。人間は喪失を抱えながら生きていく。そういう常識的なテーゼを突きつけられている。それまで閉じた恋愛を美しく描いてきた新海誠が、自らの信念に修正を施しているところが興味深い。いくら相手のことを愛していても、死んだらそれを受け入れなければならないのだ。一途な愛情も行き過ぎるとグロテスクになる。それを示したところは良かった。

それにしても、明日菜の体に亡くなった妻の魂が宿る展開には呆れた。これじゃあ、ロリコンおじさんの願望充足じゃないか。対象が女子小学生というのが気持ち悪さに拍車をかけている。そこはせめて女子高生にすべきだった。

チェ・ウニョン『わたしに無害なひと』(2018)

★★★★

短編集。「あの夏」、「六〇一、六〇二」、「過ぎゆく夜」、「砂の家」、「告白」、「差しのべる手」、「アーチディにて」の7編。

二人は仲の良い姉妹みたいに並んで昼寝したりもした。スイは眠るイギョンをただ静かに見つめるのが好きだった。イギョンはうつらうつらしながらもスイの視線を感じ、目を開くと自分に見入るスイの黒い瞳が見えた。同じ枕の上で見つめ合うと、スイの瞳にはスイの顔を湛えた自分が映っていた。二人は温もりを感じながらぼんやりと互いの瞳に浸っていた。言葉は必要なかった。(p.16)

以下、各短編について。

「あの夏」。16歳の夏にイギョンはスイと出会い、同性愛の関係になる。高校を卒業後、2人はソウルに出る。イギョンは大学に、スイは専門学校に通うのだった。2人は交際を続けていたが、イギョンはレズビアンバーで見かけたウンジに惹かれる。交際中に別のいい人が現れたとして、そちらに乗り換えるとだいたい失敗する。僕もそういう経験をした。本作の場合、ウンジの魅力以上に、スイが心を閉ざしていたのが原因だろう。スイは傷を負った人間で、簡単には人を中に入れないところがある。ところで、スイとウンジの間で引き裂かれたイギョンが、直後に病を得る展開には面食らった。こういう古臭いクリシェは現代だと一際目立つ。

「六〇一、六〇二」。小学生の「私」は、同じマンションに住む同い年のヒョジンと友達になる。ヒョジンは兄から暴力を受けていた。さらに、「私」の両親は祖母から跡継ぎの男子を産むようプレッシャーをかけられている。「私」とヒョジン、2つの家庭には旧弊な価値観による理不尽な状況があって、こういうのはいかにもアジアだなと思った。何せ長男が家の跡継ぎになる文化だし。女は家族を支えるという古い価値観の元で育てられる。必然的に男尊女卑の家庭になるわけだ。本作はヒョジンが学校の発表で家族を紹介する場面がせつなくて、この調子じゃ将来精神疾患になるのではと心配になる。

「過ぎゆく夜」。留学先から帰国したユンヒが妹のジュヒと再会する。ジュヒは1年前に離婚したばかりだった。姉妹と言っても別々の人間なので、たとえ同じ釜の飯を食っていたとしても、すれ違いがあったり軋轢があったりする。そして、大人になったらそれぞれ自立していくのだ。そんな2人も久しぶりに再会すると相手を気遣っているのだから、家族って不思議だと思う。過ごした時間の長さは裏切らない。一人っ子はこういう感覚を味わえないから可哀想だ。

「砂の家」。パソコン通信のオフ会で知り合った3人の同級生たち。「私」、モレ、コンムはそれぞれ問題を抱えながらも、リアルで交流を続ける。フィクションで描かれる青春って、ほろ苦かったりひりついていたり、「これが若さか」って感じの複雑さがある。僕は総じて楽しい青春時代を送ったので、こういうのにはどうしても作り物めいたものを感じてしまう。でも、人を愛するだとか、他人に理解される/されないだとか、青年期の悩みを思い出せたのは収穫だった。歳をとると嫌でもタフになる。自分がかつて苦しんでいたことに鈍感になる。そして、若者の悩みに共感できなくなる。たまには青春小説を読んで初心に帰るのも悪くないかもしれない。

「告白」。ミジュの告白。彼女は高校時代にジョナ、ジニの2人と友情を育んでいた。ところが、ある日ジニがカミングアウトする。それを機に3人の関係は崩壊するのだった。この年代はとても残酷で、世間の規範から外れた人間に対して厳しい言葉を投げかける。人の気持ちを考えず、平気で傷つけるようなことを口にする。日本の女子高生も他人に対して「キモい」を連呼するから、こういうのは我々にとっても身近だろう。加害者でも歳をとって分別がつくと後悔するもので、それが呪いのように人生にまとわりつく。何かあるたびに思い出して「あー!」っとなるのだ。人間は嫌なことに限ってよく覚えている。

「差しのべる手」。ヘインが義理の叔母ジョンヒとソウルの街中で偶然再会する。ヘインは子供の頃、ジョンヒによって育てられた。ところが、ジョンヒは叔父の死後に失踪する。光と闇を効果的に使ったラストが素晴らしい。ヘインの抱いていたわだかまりが消え、和解への予感で終わっている。こういうの好きだわ。

「アーチディにて」。ブラジル人のラルドが母親に愛想を尽かされ、アイルランドのりんご園で働くことになる。彼はそこで韓国人のハミンと知り合うのだった。ハミンは母国で看護師をしていたが……。看護師の闇落ちってわりとよく聞くよね。死にかけの患者にいちいち同情してたら身が持たない。だから機械的な流れ作業になっていく。ハミンは自分が人間らしさを失ったことに対して後悔の念があるようだけど、でも、仕事って多かれ少なかれ人間性を犠牲にするから、あれはあれで正しかったと思う。変に使命感を持ったらやりがい搾取によって疲弊する。だから冷たいくらいがちょうどいい。自分の身を守るのが一番だ。

新海誠『雲のむこう、約束の場所』(2004/日)

★★

1996年。北海道がユニオンという異国に征服されており、その中央に謎の巨大な塔が建っていた。津軽半島に住む中学3年生・藤沢浩紀(吉岡秀隆)は、親友の白川拓也(萩原聖人)と飛行機を作っている。2人は塔に憧れており、クラスメイトの沢渡佐由理(南里侑香)を伴って飛行機で飛んで行こうとしていた。ところが、その矢先に佐由理が失踪する。

田舎を舞台にしたありきたりな青春ものかと思いきや、途中から平行宇宙がどうのと言い出して、エヴァンゲリオン風のSFになったのには驚いた。

僕が子供の頃、悪の帝王から世界を救うというのが日本のRPGの王道だった。『ドラゴンクエスト』【Amazon】も『ファイナルファンタジー』【Amazon】もそうだったと記憶している。ラスボスを倒し、世界を救うことで、みんなが救われる。そういうシンプルなストーリーだった。僕も子供の頃は何度も世界を救っていたものである。ところが、ゼロ年代のおたく系コンテンツはそこに捻りを加えている。世界を救うか、ヒロインを救うか、その二者択一を迫ってくる。というのも、ヒロインの命運が世界の命運と直結する仕組みになっているのだ。こういうのはセカイ系と呼ばれていて、物語は色々なバリエーションがある。しかし、一般市民と世界の危機が直結してるところは共通している。個人的にゼロ年代はコンテンツ不作の時期だと思っているけれど*1、それはセカイ系の流行と無関係ではないだろう。

本作は制服・バイオリン・廃駅と、青春の記号が散りばめられた表層的な作品だ。とりわけ薄いのがヒロインの造形で、人格も何もないただの人形でしかないのには面食らう。彼女がどういうキャラクターなのかきちんと掘り下げてないのだ。ヒロインは主人公に救われるお姫様の役割に過ぎず、ただ声が可愛いくらいしか感情移入のポイントがない。人形にセーラー服を着せれば女になるだろう、みたいな投げやり感がある。主要人物をここまで空っぽな人物像にしたのには驚きで、セカイ系とはおたくによるおたくのためのコンテンツであることが窺える。これでは文化が痩せ細るのも無理はないだろう。

主人公にとって塔は憧れであり、約束の場所である。一方、大人たちにとっては手の届かないもの、変えられないものの象徴であり、南北分断を解消するためには破壊しなければならない。終盤では主人公と大人たちの思惑が一致して塔が破壊される。その結果、ヒロインが救われると同時に、約束の場所が消失する。これは青春の終わりを意味しているのだけど、しかし、このラストは収まりが良すぎてつまらない。せっかくヒロインの命運と世界の命運が直結しているのだから、もっと危機的なコンフリクトが欲しかった。これではぬるすぎると思う。

*1:それに対してテン年代は良質なコンテンツに溢れていた。

イーユン・リー『理由のない場所』(2019)

★★★

小説家の「私」が、16歳で自殺した息子ニコライと会話する。ニコライは早熟で詩作の才能があった。2人の会話は、時に言葉をめぐるものになったり、時に口論めいたものになったりする。

私があなたぐらいの年で友達だったら、あなたの前では賢くて頭が切れたでしょうね。だから友達だったらよかったのにと本当に思う。私はあなたをとても愛しているけれど、母親として愛することしかできない。母親は最大の敵になることがあるけれど、それは親友になれないからなんだよ。(p.50)

言葉によって形成された観念の世界を舞台に、母と息子がひたすら対話を繰り広げている。訳者あとがきによると、著者のイーユン・リーも子供を自殺で亡くしているらしい。だから「私」はイーユン・リーがモデルで、ニコライはその子供がモデルのようだ。実際、そう読まれるような書きぶりになっている。僕は作品内にテクスト外の情報を持ち込むのが好きではないだけど、しかし、そうは言っても事情を知ってしまったら読み方が変わらざるを得ない。否が応でも、通常のフィクションとは違った受容の仕方になる。ともあれ、芸術家とはこうやって魂の深奥まで公にしないといけないから大変だ。物語作家とは違って、自分を切り売りしないといけない。

生者と死者の対話が本作の特徴だけど、実際に死者と話ができるわけはないので、冷静に考えると、これはすべて著者の考えたやりとりになる。つまり、ニコライの言ってることも著者が考えている。だから2人の対話は「私」の自問自答にしか見えないし、もっと言えば、自分が作り上げた想像上の息子――イマジナリー・サン――との茶番ではないかと思える。そういう懸念が頭の片隅に残っていたので、少しでもお互いを立てる部分が出てくると、「ナルシシズムの発露では?」と勘繰ってしまう。自分でも嫌な読み方だとは思うけれど、結局のところ私小説とは作者の自意識を楽しむタイプの読み物なので、こればかりはどうしようもない。著者にとっては悲しみを昇華する儀式ではあるにしても、読んでいるほうとしてはその切実さにあまり乗れなかった。

母親だったら子供の死はいつまでも忘れないだろう。でも、第三者にとってはそうではなく、彼の死を惜しむのはほんのひとときである。そして、その悲しみもしばらくしたら日常に埋没してしまう。たとえば、日本では今年の3月に志村けん新型コロナウイルスに感染して死去した。当初は彼を惜しむ声がたくさんあったものの、今では誰もがその存在を忘れている。残酷だけど、他人の死なんてそういうものだ。肉親でないものにとってはただのニュースでしかない。僕が本作に乗れなかったのは、ニコライが僕にとって何の関係もない他者だからであり、その死に切実さを感じる義理がなかったからである。人が共感できる範囲には限りがある。本作を読んでそのことを痛感した。

なくてはならないものとして、「私」が名詞を挙げたのに対し、ニコライは形容詞を挙げている。名詞とは散文的な大人の発想であり、形容詞とは詩的な子供の発想である。どちらも世界の成立には必要不可欠であると言えよう。しかし、ニコライの自殺によって「私」の世界から形容詞が消えてしまった。世界が名詞だけの味気ないものに変わってしまった。生死を超えた2人の対話は、荒廃した世界に彩りを取り戻す試みであり、これは書かれるべくして書かれた喪の儀式だと言える。

シャネル・ベンツ『おれの眼を撃った男は死んだ』(2017)

おれの眼を撃った男は死んだ

おれの眼を撃った男は死んだ

 

★★★★

短編集。「よくある西部の物語」、「アデラ」、「思いがけない出来事」、「外交官の娘」、「オリンダ・トマスの人生における非凡な出来事の奇妙な記録」、「ジェイムズ三世」、「蜻蛉」、「死を悼む人々」、「認識」、「われらはみなおなじ囲いのなかの羊、あるいは、何世紀ものうち最も腐敗した世界」の10編。

あたしはごろりと寝返りを打ってジャクソンと向きあい、無精ひげの生えた顎を額で押した。どうしてあたしを兄さんみたいにさせたいの?

罪の落とし子でいるほうがいいのか?

もうとっくにそうなってる。(p.24)

以下、各短編について。

「よくある西部の物語」。南北戦争後の西部。おじの元で虐待されながら暮らしていた少女ラヴィーニアが、突然迎えに来た兄ジャクソンに引き取られる。ジャクソンはニューメキシコで血と暴力にまみれた生活をしていた。ジャクソンは人殺しも厭わないほど非情なのだけど、妹のことは本気で可愛がっていて、死の直前までその安否を心配している。情と無情が混在している彼の人物像があって、さらにああいう非情な結末になるところが、本作に詩情をもたらしているのだった。ラヴィーニアはどうすれば幸せになれたのだろう?

「アデラ」。オールドミスのアデラは、若い頃パーシーという男と駆け落ち寸前にまでなった。子供たちが2人の恋愛を成就させようと画策する。一方、アデラはクィルビーという紳士といい関係になり……。現代においてPCに反する要素をフィクションに入れるとしたら、遠い過去を舞台にするしかないのだと思う。本作は注釈のついた古典という体裁になっていて、ここまですれば世間からバッシングされる心配もないだろう。古い価値観の物語と新しい価値観の注釈がせめぎ合う。その様子が面白い。

「思いがけない出来事」。ルーシーという中年女がヒッチハイクではるばる父親の住んでいる州にやってくる。ルーシーの母親は癌で死にかけており、死ぬ前に父親と離婚したがっていた。ルーシーは母親の使いで離婚届にサインさせようとする。アメリカ人って離婚率が高いし、シングルマザーは多いし、犯罪に手を染めている者も少なくない。あの国で円満な家庭を築くのは困難ではないかと思える。世界一の超大国がこれでは希望がない。

「外交官の娘」。ナターリアとエリックは、ベイルートでただならぬ事業をしていた。そんな2人の人生を時系列を錯綜させて物語る。場所が場所なのでだいたいのことは察せられるけれど、話が2人の出会いに行き着いたところはなかなか感動的だった。どうして人は簡単に道を踏み外してしまうのか。人間は平和ボケしてるくらいが一番だ。

「オリンダ・トマスの人生における非凡な出来事の奇妙な記録」。1840年に出版された黒人奴隷の手記。奴隷だったオリンダ・トマスは、才能を見込まれて白人クロフォードに買われる。クロフォードはオリンダを自由にし、パートナーとして共同生活するのだった。オリンダは詩作をし、手記を認める。人間が残酷なのか、世界が残酷なのかは分からないけれど、この時代のアメリカは異常と言うしかない。クロフォードはオリンダに対する裏切りが返って自分の寿命を縮めていて、あのラストは余韻があった。

「ジェイムズ三世」。少年は服役中の実父を慕っており、暴力を振るう継父を嫌っていた。家に帰った少年は拳銃を持って継父と対峙するが……。こういう崩壊した家庭ってアメリカあるあるだな。特に黒人の場合、服役してなんぼってところもあるし。それはともかく、3代続けて同じ名前を受け継ぐ文化はちょっと憧れるかも。日本だとせいぜい先祖の名前を一文字拝借するくらいだからね。それだって百姓の僕には関係ない。

「蜻蛉」。刑務所で服役して亡くなった祖父ロバートの手記。ロバートと双子の妹イザベラは、母をインチキ医療で亡くした。そこでイザベラがハサミを持ってあることをする。これはぞっとする結末で、ゴースト・ストーリーというか、はたまた狂人の妄想というか、とにかくそういう類のおぞましさがある。いやはや驚いたね。

「死を悼む人々」。夫を亡くしたエメリンが、父親に呼び戻される。父親は片目を撃ち抜かれて眼帯をしていた。彼は詐欺まがいの阿漕な商売をしており、エメリンを町長と結婚させようとする。『連ちゃんパパ』【Amazon】を読んだときにも思ったけど、人間は自分の欲望に忠実に生きるとクズになる。だからどこかで自制して譲らなければならない。父親のクズっぷりには唖然とするほかなかった。

「認識」。学者のリー・ビブがパーティー会場で赤い髪の女と出会う。彼女のことは見覚えがあった。2人は発掘された遺体を見に行く。不毛の土地で暮らした複数の一家の話、これが何やら神話的だなと思っていたら、何と現代にまで繋がっていた。2人がなぜここに来たのかといったら、自分のルーツを探るためであり、それは移民の子孫で形成されるアメリカの気分を反映している。

「われらはみなおなじ囲いのなかの羊、あるいは、何世紀ものうち最も腐敗した世界」。年老いた書店主のジェロームは、かつて修道士をしていた。当時は国王が教会から独立を奪おうとしており、若かったジェロームは国家権力のスパイになるよう説得される。ヘンリー8世とトマス・クロムウェルの逸話は、欧米社会では有名なようだ。『ウルフ・ホール』を読んでいて良かった。ジェローム修道院長の関係、そしてそこから復讐へと至る話の流れがせつない。