海外文学読書録

書評と感想

ジム・シャーマン『ロッキー・ホラー・ショー』(1975/英)

★★★★★

婚約中のブラッド(バリー・ボストウィック)とジャネット(スーザン・サランドン)は、友人の結婚式の帰り道、豪雨に見舞われた挙げ句車がパンクしてしまう。電話を借りに近くの屋敷を訪れた2人だったが、邸内では奇妙なパーティーが行われていた。さらに、主のフランクン・フルター(ティム・カリー)が人造人間ロッキー(ピーター・ハインウッド)を披露して……。

フランケンシュタイン』【Amazon】を下敷きにしたミュージカル映画

見世物小屋みたいな映画で素晴らしかった。物語としては決して面白くはないのだけど、キッチュな魅力が詰まっていて褒めるしかないという。奇妙な人物が織りなす退廃的な雰囲気が圧倒的で、こういうのは今までに観たことないかも。強いて言えば、『ファントム・オブ・パラダイス』【Amazon】や『時計じかけのオレンジ』【Amazon】に近い。あとは『未来世紀ブラジル』とか。でも、本作のほうがはるかに振り切っていて、唯一無二の地位を確立している。全編製作者の正気を疑うような弾けっぷりだった。本作がカルト映画になったのも納得できる。

フランクン・フルターがトランスジェンダーで、屋敷のパーティークィアパーティーみたいになっているところが面白い。70年代から既にこういうのがあったことに驚く。また、本作は『フランケンシュタイン』を下敷きにしているのだけど、生命を創るだとか、人が神になるだとか、そういう哲学的な葛藤をすっ飛ばし、ロック音楽に乗せて屈託なく話を進めているのに笑ってしまう。しかも、できあがった人造人間が、金髪マッチョのイケメンなのだからずっこける。これって明らかに製作者(フランクン・フルター)の趣味だろう、と。その後、主人と人造人間が結婚しているのだからお察しである。本作のキッチュな魅力って、大部分はこうしたクィア要素によるものだと思う。

ヒロインのジャネットは、婚約者のブラッドとキスしかしたことのない処女だった。しかし、フランクン・フルターと寝ることで、彼女の処女はあっけなく奪われる。トランスジェンダーの変態によって、官能の味を覚えさせられたのだ。周知の通り、カトリックでは婚前交渉が禁じられているけれど、ジャネットは律儀にそれを守っていたのだろう。カトリックでは同性愛も婚前交渉も禁忌だ。しかし、本作ではそれらを敢えて破っている。ホラー映画とは、キリスト教的価値観に反抗する装置なのかもしれない。

クリスティーナ・ダルチャー『声の物語』(2018)

★★

アメリカ。ピュア・ムーブメントを支持する大統領が政権をとったことで、女性の人権が著しく制限されることになった。女性は家庭に押し込まれたうえ、手首にワードカウンターをつけられて1日100語しか発話できないようにされている。元認知言語学者のジーンもそんな不自由な生活を強いられていたが、ある時、政府から研究への参加を要請される。ジーンはある条件と引き換えにそれを引き受けるが……。

一家の男たちがソニアのことをかわいいと褒めるのが憎らしい。ソニアが自転車で転んだとき、慰めるのは男たちなのが憎らしい。男たちがお姫様や人魚の作り話をソニアに聞かせるのがねたましい。自分は見たり聞いたりするだけなのが腹立たしい。(p.38)

『侍女の物語』本歌取りしたフェミニストSF。

序盤はその抑圧的な設定が上質なディストピア文学のようで面白かったけれど、ジーンが研究を始める中盤から面白さが逓減していき、ラストはちょっとあり得ないオチだった。そんなことで社会を覆すことはできないだろう、みたいな感じなのだ。ディストピア文学の名作がたいていバッドエンドなので、その逆を狙ったのかもしれない。1日100語しか喋れないという設定が新鮮だっただけに、その後の尻すぼみが残念だった。

男は外で働き、女は家で家庭を守る。聖書によると、女は男から造られた存在だから、男に従うのが当然だ。本作のピュア・ムーブメントはそういった時代錯誤の思想を振りかざしており、その土台にはキリスト教原理主義がある。宗教が女性差別の原因になっているところは、30年前に書かれた『侍女の物語』と同じだ。アメリカでは依然として原理主義の存在が重くのしかかっているのだろう。日本で言えば、神道系の日本会議に相当するのかもしれない。ともあれ、女性に対して「従順な女」という役割を押し付けるのがグロテスクで、しかもその手段として言葉を奪うのは残酷すぎる。

個人的には最近フェミニストに対する不信感が根強い。KKO(キモくて金のないおっさん)と呼ばれる弱者男性に差別的な文句をぶつけたり、献血ポスターの漫画イラストに妙ちくりんな難癖をつけたり、自身がPCの立場にいるのをいいことに男性を抑圧している。おまけに、フェミニストは党派性が強く、仲間の不祥事には寛容だ。たとえば、2016年にある男性フェミニストが不倫騒動を起こしたけれど、フェミニストは誰も彼のことを批判しなかった。それどころか、彼の立場に同情する者まで出ていた。まさに「不倫は文化だ」と言いたげな雰囲気だった*1

本作でも主人公のジーンが不倫してるけれど、その行動は概して肯定的に描かれており、都合のいい三角関係はまるでハーレクインのようである。その背景には、家父長制への不満があるのだろう。貞淑な妻という役割を敢えて捨てることで、旧弊な価値観を打破しようというわけだ。そのためには、配偶者の感情を蹂躙することも厭わない。婚姻という契約関係を蔑ろにすることも辞さない。個人的には、不倫する人間を人として信用するなんてできないけれど、どうやらフェミニストは違う考えのようである。このギャップはなかなか面白い。

ところで、僕は最近マスキュリズムに興味があって、その前段階としてフェミニズムを勉強する必要があると思っている。自分は女性の権利拡張よりも、男性の生きづらさにコミットすべきなのではないか。突然そういう使命感が降って湧いたので、しばらくは関連する文献を漁る予定である。何かいい本があったら教えてほしい。

*1:そもそも、リベラルというのは理想を語る立場なのだから、その思想で飯を食っている人間は清廉潔白であることが求められる。でなければ発言に説得力が出ない。

『ケイゾク』(1999)

★★

ケイゾク」と呼ばれる未解決事件を担当する警視庁捜査一課弐係。そこに東大卒のキャリア官僚・柴田純(中谷美紀)が配属される。彼女と元公安の刑事・真山徹(渡部篤郎)が、様々な事件を解決していく。さらに、真山には悲惨な過去があって……。

全11話。

このドラマは大昔にネットで知り合ったお兄さんに勧められた。長らく観る機会がなかったが、最近になって偶然プライム・ビデオで見かけたので視聴することにした。

シリーズ前半は天然娘の中谷美紀がキュートで、その造形は翌年に作られた『TRICK』【Amazon】の仲間由紀恵に受け継がれている。いつの時代も男はああいううぶで無防備な女が好きだと思う。露骨な言い方をすれば、処女っぽい女。ところが、終盤に入って雰囲気がシリアスになるとそういう部分は影を潜め、ヒロインの可愛さは減退していく。実に惜しいことである。

1話完結の事件はミステリとしてはやや強引ながらも、後味がほろ苦く、これはこれで作家性の強いドラマと言える。手術をめぐるジレンマが絡む第2話、母親と子供が離れ離れになる第3話、芸術に対する歪んだ愛情を描いた第7話が印象に残っている。僕がテレビドラマを見慣れていないせいか、45分のフォーマットはいささか冗長だったものの、週1で観るならギリギリ許容できるかもしれない。当時の日本人がどういう娯楽を享受していたのか知れたのは良かった。

1話完結の事件はまあまあ見れたが、真山をめぐる縦軸のエピソードがしんどかった。ひとことで言えば、荒唐無稽である。SWEEPという組織はファンタジーにも程があるし、早乙女管理官を殺して朝倉がそれに成り済ましていたというオチも納得できない。前者はそれこそバレたら日本を揺るがすスキャンダルだし、後者はさすがに周囲の人たちが気づくだろう。そもそも催眠術で人を操るという事件の構図がおかしい*1。全体的にアニメでやるようなことを実写でやっていて違和感がある。

渡部篤郎ぶっきら棒なセリフ回しが良かった。こういう演技をする人はなかなか見ないから新鮮である。また、鈴木紗理奈が重要な役どころを演じていたが、バラエティ番組の印象が強いせいか、終始場違いのように見えた。これは現代の映画に劇団ひとりが登場するときの感覚に似ている。俳優は妙なパブリックイメージがつくと損なので、なるべくバラエティ番組には出ないほうがいいと思う。

*1:「操り」はミステリでよく使われるモチーフだが、この方法は安直としか言いようがない。

余華『兄弟』(2005)

兄弟

兄弟

Amazon

★★★

母の再婚により、李光頭は相手方の連れ子・宋鋼と兄弟になった。折しも時は文化大革命。李光頭の義父は地主のレッテルを貼られて倉庫に監禁される。一方、母は体調を崩して上海の病院に入院していた。やがて嵐が過ぎ、両親を亡くした2人は、開放経済の時代を迎える。女性問題が原因で袂を分かった兄弟は、それぞれ別の道を歩むのだった。

「中国全土で、オレよりたくさん三鮮麺を食べた人は一人しかない」

趙詩人が尋ねた。「誰だ?」

「毛主席さ」。李光頭は敬虔に答えた。「毛主席さまは、食べたいものは何だって食べられるからさ。他の人は、オレと比べるまでもない」(上 p.30)

文藝春秋の単行本で読んだ。引用もそこから。

文革から開放経済へと価値観が逆転する時代の悲喜劇を描いていて、これぞ中国文学という感じだった。文革期は貧しい人間が正義とされ、金持ちや地主は国家ぐるみで迫害されている。しかし、その後の開放経済では、一転して金持ちが正義とされ、たくさん稼いだ者が民衆から敬意を受けている。中国文学を読むたびに思うのだけど、こういう激動の時代に合わせて生きていくのってとても大変で、だからこそあそこの民衆は鍛えられているのだろう。サバイバル能力に長けているというか。仮に僕が中国社会に放り込まれたら、確実に野垂れ死にしている。教育よりも才覚がものを言う社会だから。僕みたいなぼんくらは振り落とされてしまう。しかし、そういう過酷な環境だからこそ、飛び抜けた英雄が生まれるのだ。

主人公の李光頭は陽気なトリックスターであり、同時に開放経済で成り上がった時代の寵児である。彼は英雄と言ってもいいだろう。李光頭には面白い逸話があって、彼は子供の頃、便所で町一番の美女のケツを覗き見て事件になった。発覚当時は男衆に手ひどく罰せられたものの、その後はすぐさま美女のケツを話のネタにして、町の男たちから飯を奢ってもらっている。すなわち、ケツの話を聞きたければ三鮮麺を奢ってくれ、という次第。彼は少年時代から金儲けの才能を見せつけていたのだ。これなんかは韓信の股くぐりを連想させるエピソードで、英雄とは無名の頃から何か違うものを持っているということなのだろう。中国社会に連綿と続く英雄譚の伝統が見て取れる。

開放経済になると、とにかく金を稼ぐ能力が重要になる。そして、それに応じて勝ち組と負け組に分かれることになる。たとえば同じ兄弟でも、弟の李光頭は勝ち組になり、兄の宋鋼は負け組になった。この兄弟はなかなか関係が複雑で、助け合って富貴を分かち合うこともできたけれど、天のいたずらかそれが叶わない。2人は深い絆で結ばれながらも、それぞれ別の道を歩むことになる。開放経済のパートは、美処女コンテストによる処女膜再生ブームが起きたり、日本で古着を買いつけて三島や川端の刺繍を人々が自慢したり、そういう喜劇的な雰囲気が強いけれど、その影にはマネーゲームから落ちこぼれた負け組がいて、彼らの悲哀も織り込まれている。目に見えて格差が分かってしまう資本主義とは残酷だと思った。

デヴィッド・O・ラッセル『世界にひとつのプレイブック』(2012/米)

★★

高校教師だったパット(ブラッドリー・クーパー)は躁鬱病で精神病院に8ヶ月入院していたが、母親の助力で退院する。パットは妻ニッキー(ブレア・ビー)の浮気現場に遭遇し、浮気相手を殴ったことで入院させられたのだった。未だニッキーへの未練を断ち切れないパット。そんななか、友人の食事会でティファニージェニファー・ローレンス)と出会う。彼女は夫を事故で亡くして性依存症になっていた。

映画としては終盤のダンスシーン以外に見せ場がないものの、主要人物のほとんどがキ印なところが面白かった。パットやニッキーは言わずもがな、パットの父親(ロバート・デ・ニーロ)まで気が狂っている。

ミシェル・フーコー『狂気の歴史』【Amazon】によると、昔は精神病院で「躁暴性の狂人」を見世物にして金を取っていたそうだ。その是非は措くとして、本作を観ると確かに躁鬱病の人は独特だと思う。読んでいた本が気に入らないと言って窓に放り投げてガラスをぶち破ったり、極端なポジティブ思考で逃げた妻と復縁できると決め込んでいたり、明らかに認知がおかしい。Twitterでは躁状態の人が異様にテンションの高い文章を連投し、直後に気分が落ち込んで何日も沈黙するというムーブがよくある。映像で躁状態の人を見るとまた強烈で、こういう人はちゃんと実在するのだと納得する。それまで観念上の存在だったものに形が与えられて、心の中ではっきり像を結ぶようになった。我々が住んでいる世界は健常者が中心で、平凡な生活を送っているとまずこういう人にはお目にかかれない。だからこそ希少価値があり、見世物として一定の需要が生まれている。本作はそういった需要をすくい上げているのだろう。人間の人間たる所以は、その好奇心にあるのだから。本作は従来「変人」とされていたものに診断名を与えたところが目新しいと言える。

少し前までは精神障害者を何十年も病院に隔離することが当たり前だった。今ではなるべく娑婆で生活させる方針になっている。少なくとも日本ではそうだ。けれども、この方針が正しいのか時々疑問に思う。というのも、彼らの一部は日常的にブロンをODし、膣にマイスリーを入れ、サイゼリヤで薬物パーティーを開いているのだ。大麻も当たり前のように吸っている。とにかく薬物依存から抜けられない。そして、彼らは次々と他人を巻き込んで、アメーバのように仲間を増やしている。この状況を放置したままでいいのだろうか。薬物に溺れるのが本人だけならまだしも、周囲を同じ悪癖に引きずり込むのだからたちが悪い。何らかの対策が必要だと思う。

男女のペアダンスはまるでセックスのようで、濡れ場のない本作ではそれが隠喩として意図的に提示されている。衆人環視のもとで行われる2人の濃密なコミュニケーション。これを見て『ボールルームへようこそ』【Amazon】を思い出した。