海外文学読書録

書評と感想

余華『兄弟』(2005)

兄弟

兄弟

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★★★

母の再婚により、李光頭は相手方の連れ子・宋鋼と兄弟になった。折しも時は文化大革命。李光頭の義父は地主のレッテルを貼られて倉庫に監禁される。一方、母は体調を崩して上海の病院に入院していた。やがて嵐が過ぎ、両親を亡くした2人は、開放経済の時代を迎える。女性問題が原因で袂を分かった兄弟は、それぞれ別の道を歩むのだった。

「中国全土で、オレよりたくさん三鮮麺を食べた人は一人しかない」

趙詩人が尋ねた。「誰だ?」

「毛主席さ」。李光頭は敬虔に答えた。「毛主席さまは、食べたいものは何だって食べられるからさ。他の人は、オレと比べるまでもない」(上 p.30)

文藝春秋の単行本で読んだ。引用もそこから。

文革から開放経済へと価値観が逆転する時代の悲喜劇を描いていて、これぞ中国文学という感じだった。文革期は貧しい人間が正義とされ、金持ちや地主は国家ぐるみで迫害されている。しかし、その後の開放経済では、一転して金持ちが正義とされ、たくさん稼いだ者が民衆から敬意を受けている。中国文学を読むたびに思うのだけど、こういう激動の時代に合わせて生きていくのってとても大変で、だからこそあそこの民衆は鍛えられているのだろう。サバイバル能力に長けているというか。仮に僕が中国社会に放り込まれたら、確実に野垂れ死にしている。教育よりも才覚がものを言う社会だから。僕みたいなぼんくらは振り落とされてしまう。しかし、そういう過酷な環境だからこそ、飛び抜けた英雄が生まれるのだ。

主人公の李光頭は陽気なトリックスターであり、同時に開放経済で成り上がった時代の寵児である。彼は英雄と言ってもいいだろう。李光頭には面白い逸話があって、彼は子供の頃、便所で町一番の美女のケツを覗き見て事件になった。発覚当時は男衆に手ひどく罰せられたものの、その後はすぐさま美女のケツを話のネタにして、町の男たちから飯を奢ってもらっている。すなわち、ケツの話を聞きたければ三鮮麺を奢ってくれ、という次第。彼は少年時代から金儲けの才能を見せつけていたのだ。これなんかは韓信の股くぐりを連想させるエピソードで、英雄とは無名の頃から何か違うものを持っているということなのだろう。中国社会に連綿と続く英雄譚の伝統が見て取れる。

開放経済になると、とにかく金を稼ぐ能力が重要になる。そして、それに応じて勝ち組と負け組に分かれることになる。たとえば同じ兄弟でも、弟の李光頭は勝ち組になり、兄の宋鋼は負け組になった。この兄弟はなかなか関係が複雑で、助け合って富貴を分かち合うこともできたけれど、天のいたずらかそれが叶わない。2人は深い絆で結ばれながらも、それぞれ別の道を歩むことになる。開放経済のパートは、美処女コンテストによる処女膜再生ブームが起きたり、日本で古着を買いつけて三島や川端の刺繍を人々が自慢したり、そういう喜劇的な雰囲気が強いけれど、その影にはマネーゲームから落ちこぼれた負け組がいて、彼らの悲哀も織り込まれている。目に見えて格差が分かってしまう資本主義とは残酷だと思った。