海外文学読書録

書評と感想

ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』(2011/スペイン=米)

★★★★

映画脚本家のギル・ペンダー(オーウェン・ウィルソン)が、婚約者のイネス(レイチェル・マクアダムス) らと共にパリを訪れる。1920年代のパリに憧れているギルは、現在小説を執筆中だった。2人はイネスの友人ポール(マイケル・シーン)と遭遇、ギルは彼の薀蓄にうんざりする。そんな夜、酒に酔ったギルが街を歩いていると、一台のクラシックカーが止まる。それに乗り込んだギルは、憧れていた1920年代のパリにタイムスリップし、スコット・フィッツジェラルドトム・ヒドルストン)やアーネスト・ヘミングウェイ(コリー・ストール)と会う。

21世紀を生きるギルにとっては1920年代が黄金時代だけど、1920年代に生きる人にとってはベル・エポック期(1890年代)が黄金時代だし、ベル・エポック期を生きる人にとってはルネサンス期が黄金時代だという。みんな過去に憧れている。それもこれも現在に不満があるからで、これが人類の宿痾として描かれている。彼らにとって過去は偉大なカリスマなのだ。

けれども、僕にはこの人たちの理想がさっぱり分からないのである。だって、僕にとっては常に現在が最高だから。むしろ、生まれてきたのが早すぎたとすら思っている。どうせなら今のサブスク全盛期に学生時代を迎えたかった。そうしたら映画マニアになるのもアニメおたくになるのも容易だっただろう。僕の学生時代はレンタルビデオ店でDVDを借りるか、ケーブルテレビに加入するかしないと、マニアなりおたくなりにはなれなかった。作品を観るハードルがそれだけ高かった。それが今や月に千円も払えば、インターネットで自由に作品を鑑賞することができる。いくらでも映画やアニメを観ることができる。幸福なおたく生活をわずかなコストで送れるようになっているのだ。現代は何て便利に出来ているのだろう。今の学生が羨ましい。

そんなわけで、僕には過去への憧れは微塵もない。むしろ、過去は道徳的には野蛮だし、テクノロジーは未発達で住みづらいとすら思っている。だいたいインターネットのない世界なんて想像できるだろうか? それに、いつの時代もパリは治安が悪くて定住する気がまったく起きない。街にはあちらこちらに泥棒が屯していてこちらの財産を狙っている。つい先日も日本の成金が9千万円の時計を盗まれていた*1。外国へは観光旅行だけで十分である。

ゼルダフィッツジェラルド(アリソン・ピル)がまた落ち着きがなくて、彼女はADHDじゃないかと思った。興味がコロコロ変わって気まぐれにも程がある。一方、スコット・フィッツジェラルドトム・ヒドルストン)は気さくなイケメンで好感が持てた。彼とは是非友達になりたい。また、アーネスト・ヘミングウェイ(コリー・ストール)はやたらとダンディで、芝居がかった物言いがハードボイルド感を醸し出している。他にもガートルード・スタインキャシー・ベイツ)やパブロ・ピカソ(マルシャル・ディ・フォンソ・ボー)、サルバドール・ダリエイドリアン・ブロディ)など、魅力的な人物が盛りだくさん。本作は当時の芸術家が好きなら面白いと思う。

レジス・ロワンサル『タイピスト!』(2012/仏)

★★★

1958年のフランス。父の経営する雑貨店で働くローズ・パンフィル(デボラ・フランソワ)が、田舎のしがらみから抜け出そうと保険代理店の秘書に応募する。そこの経営者はルイ・エシャール(ロマン・デュリス)という独身男。ローズは面接で得意のタイプ打ちを披露して採用が決まるものの、秘書としては無能で失敗を繰り返す。そこでルイからタイプライターの早打ち大会に出るよう命じられる。

古き良きフランス映画を現代に蘇らせたような感じでなかなか良かった。ちょうどマリリン・モンローオードリー・ヘップバーンが活躍した時代。小道具だったり劇伴だったりが古くて、21世紀の映画なのにレトロな雰囲気が味わえる。物語もまあ古典的で、タイプライターの早打ち大会という要素は目新しいものの、男女のロマンスはクリシェに溢れている。むしろ、工夫がなくて物足りないくらいだ。古典的な映画をカラーで観ているような趣があって、こういうリメイクみたいな試みも悪くないと思った。

タイプライターの早打ちがまるでスポーツで、ローズとルイが選手とトレーナーの関係になっているのが面白かった。十本指打法をマスターしたり、ランニングをしたり、ちゃんと訓練シーンもある。信じられないことに、当初ローズは自己流の一本指打法でタイプしていたのだ。この辺はパソコン初心者のおじさんを見ているようである。私事で恐縮だけど、僕もキーボードのタイピングは自己流で、マニュアルにあるホームポジションを守ってない。しかしそれでも、ブラインドタッチはできるし、タイピングも早いほうだ。これらはすべてチャットで鍛えた。インターネットを始めた学生時代、とあるチャットに入り浸ってカタカタ打ちまくっていた。さすがに一本指打法は論外だけど、仕事や趣味で使うぶんには自己流で事足りると思う。

早打ち大会で優勝しても実生活においては何の意味もないのだけど、それはほとんどのスポーツに言えることだろう。優勝という名誉は何ものにも代え難い。よく言われる通り、金メダルの名誉は金では買えないのだ。こればっかりは修練を積んで競争を勝ち抜くしかない。そして、勝負の世界においては、優勝と準優勝は天地ほどの差がある。金メダル以外に価値はない。2位じゃ駄目なのである。この論理がタイプライターの早打ち大会というニッチな分野にも適用されていて、そのガチなところが可笑しかった。また、地方大会→全国大会→世界大会とステージがあがっていくところも、どこか茶番めいた面白さがある。

欲を言えば、男女のロマンスにもう少し工夫が欲しかったかな。危機の作り方に捻りがなくて物足りなかった。

キャスリン・ビグロー『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012/米)

★★★★

CIA分析官のマヤ(ジェシカ・チャステイン)がパキスタン支局に配属される。同僚のダン(ジェイソン・クラーク)が9.11で資金調達していた男を拷問し、ビン・ラディンの連絡係の名前を掴んだ。しかし、支局長(カイル・チャンドラー)が乗り気でないため、諜報活動は難航する。やがてアフガニスタンのチャップマン基地で自爆テロが発生。CIA局員7人が死亡する。マヤは復讐に燃えるのだった。

これはCIAによる「狩り」を描いた映画なのだと思った。9.11の報復としての狩り。現代の戦争はほとんどが非対称で、アメリカとアルカイダの戦いも同様だ。国家は武装組織と戦い、正規軍兵士は民兵と戦う。当然のことながら、両者の戦力には圧倒的に開きがある。なので、戦力が劣る側はテロで対抗するしかない。2000年代は世界各地でイスラム系によるテロが起きていたけれど、日本に住む僕にとっては対岸の火事だった。中東で日本人ジャーナリストが首を斬られたときでさえも、ここにいる自分とは関係ないと思っていた。アルカイダの残虐な仕打ちに憤りをおぼえる反面、アメリカの非道さにも問題があると感じていて、どちらにも肩入れすることができなかった。これは正義と悪の戦いでもなければ、正義と別の正義の戦いでもない。復讐の泥沼に陥ったノーガードファイトなのだ。本作ではその戦いをアメリカの視点から描いているのだけど、非対称戦ならではの暗部もきっちり抑えていて、ハリウッドらしからぬバランス感覚に優れた映画だと思う。何より現代のエスピオナージを題材にしたエンターテイメントして面白い。CIAによる狩りを追体験させるところが良かった。

本作で特筆すべきは、主人公のマヤを感情移入できない人物として描いているところだ。序盤では同僚によるイスラム系の拷問に一枚噛んでいるし、途中からは復讐心に燃えてビン・ラディンを殺すことにすべてを捧げている。劇中でマヤの私生活にまったく触れてないのはおそらく意図的だろう。彼女には夫がいるのか、それどころか友人がいるのかも分からない。マヤはビン・ラディンを追い詰めることしか頭にない、いわば物語を動かす機械人形として描かれている。ビン・ラディンに対する飽くなき憎悪は観ているこちらもどん引きするほどで、これは典型的なアメリカ人を象徴しているのだろう。だから、アメリカ人の観客はマヤに感情移入した(と思われる)けれど、日本人の僕はさっぱり感情移入できない。そういうギャップが生じている。

この映画だと一人の女の執念によってビン・ラディンを追い詰めたように見えて、そこが玉に瑕である。実際はもっと複雑な動きがあったことだろう。ただ、話を分かりやすくするにはこうするしかなかったわけで、映画を作るのは難しいと思った。

ジョン・カーニー『シング・ストリート 未来へのうた』(2016/アイルランド=英=米)

シング・ストリート 未来へのうた(字幕版)

シング・ストリート 未来へのうた(字幕版)

  • フェルディア・ウォルシュ=ピーロ
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★★★★

1985年のダブリン。高校生のコナー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)は、不況の煽りを受けて私立校から公立校へ転校させられる。学校では不良のバリー(イアン・ケニー)にいじめられ、校長(ドン・ウィチャリー)からは服装について注意される。あるとき、モデルのラフィーナ(ルーシー・ボイントン)に一目惚れしたコナーは、彼女の気を引くためバンドを組んでミュージック・ビデオを作ることに。コナーは兄ブレンダン(ジャック・レイナー)から色々アドバイスを受ける。

『スクール・オブ・ロック』中産階級のお坊ちゃんたちにバンドをやらせる話だけど、こちらは労働者階級の子供たちがバンドを組む話で、アプローチの違いが面白かった。どちらかというと、本作のほうが欧米の実情を反映しているのだろう。ビートルズやオアシスの例を引くまでもなく、ロックとは労働者階級のものだということが実感として分かる。こういう荒んだ環境だからああいうバンドが生まれたのか、みたいな。崩壊した家庭や学校の荒れ具合も含めて、日本とは一味違うと思わせる。

バンドを組んでMVを撮っている少年たちを見て、羨望の思いがふつふつと湧き上がってくる。自分は学生時代、勉強と部活しかやってなくて、こういう楽しい活動とは無縁だった。もっと青春を謳歌すべきだったと後悔している。子供を主人公にした青春映画、特にバンドを題材にした映画って、あり得たかもしれないもうひとつの人生をそこに見出してしまうのだ。僕もバンドをやっていたらどれだけ輝けたことか。ロック音楽は好きなほうなので、なおさら自分を投影してしまう。

本作を観て強く思ったのは、趣味の分野では兄がいると何かと得だということだ。小説にしても音楽にしても、同世代が知らないコアな作品を教えてくれる。僕は長男なのでこういう経験はなかったけれど、友達経由で年上の人から間接的に教えてもらっていた。SF小説だったり、ロック音楽だったり、かなりの部分が上の世代から伝えられたものである。長男はこういうのを自分で開拓しないといけないから大変だ。実際、本作には先行者であることの葛藤が描かれている。兄が道を切り拓いて、弟がその後を辿ってきた。兄は笑い者になり、弟は人気者になった。兄が弟を妬む姿は見ていて心苦しかった。

本作でもっとも印象に残っているのが、体育館でのMV撮影のシーン。演奏中に華やかな幻想世界に入るところが良かった。この映像が見れただけでも元が取れたと思う。それと、バンド活動で自信をつけたコナーが、いじめっ子に対して「君は暴力だけだ」「何も生まない」と言い放つところが格好良かった*1。成功体験にはウサギをライオンに変える効果がある。

*1:さらに、終盤になってそのいじめっ子をメンバーに誘うところが素晴らしい。

トム・フーパー『英国王のスピーチ』(2010/英=豪)

★★★

ジョージ5世(マイケル・ガンボン)の次男ヨーク公コリン・ファース、後のジョージ6世)は、吃音症が原因で人前でのスピーチを嫌がっていた。公爵夫人のエリザベス(ヘレナ・ボナム・カーター)が夫の治療のために奔走するも、いまいち成果がでない。そんなあるとき、夫妻は言語療法士のライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)と出会う。折しも、大陸ではナチスが台頭しており……。

吃音症の治療という地味な題材にもかかわらず、退屈させずに2時間もたせたのはさすがだった。それもこれも激動の時代を舞台にしているからだろう。治療の合間にエドワード8世にまつわるいざこざがあったり、王位に就いてからは開戦前夜の緊迫感があったり、観客を引き込む要素が多分にある。また、ジョージ6世とライオネル・ローグの関係は、『奇跡の人』【Amazon】におけるヘレン・ケラーとサリバン先生みたいで、馴れ合いを拒む2人の緊張関係も劇を引き締めている。まあ、この辺は今となっては王道なのだろう。でも、王道になるにはやはりそれだけの理由があるのだと思う。

「今の王室は役者。国民の機嫌を取らないといけない」と作中の誰かが言っていて、これって現代の日本の皇室とまったく同じじゃんと思った。しかも、1930年代で既にこういうポジションだったのがすごい。当時の日本だと天皇は現人神で、国民は彼の子供として身も心も捧げていた。イギリス王室の人たちが平民相手にラジオでスピーチしてるのって、日本人からしたらあり得ないことである。結局、日本人が天皇の肉声を聞いたのは、終戦時の玉音放送が初めてだった。このタイムラグは大きい。真に民主的な国家とはどういうものなのか考えてしまった。

それにしても、イギリス映画って美術がいいよなと感心する。本作も決してきらびやかではないのだけど、それがかえって品格を醸し出してる。傍から見るとあまり金がかかってるようには見えない。調度品も小道具も収まるべきところに収まっている。アメリカのような成金趣味とは一線を画していて、長い王室文化を持った国は一味違うと思った。

ドイツと戦争になったら頼れる王が必要だ。ジョージ6世はそのためにも吃音症を治さなければならない。それが劇における暗黙の要請になっていて、ハイライトはもちろん開戦の辞を述べるスピーチである。ヒトラーの演説が扇情的で大衆を熱狂させるものなのに対し、ジョージ6世のそれは沈着で大衆の心に染み入らせるようなものだ。両者の違いがどこかお国柄を反映しているようで興味深かった。