海外文学読書録

書評と感想

ヴェルナー・ヘルツォーク『グリズリーマン』(2005/米)

★★★

アメリカの環境保護主義者ティモシー・トレッドウェルを題材にしたドキュメンタリー映画トレッドウェルは13年間、アラスカのカトマイ国立公園で野生のグリズリーと交流し、その様子をビデオカメラに収めてきた。彼の残した記録はおよそ100時間。ところが、2003年10月5日、トレッドウェルは恋人と共にグリズリーに食べられてしまう。

環境保護主義者というのは頭のおかしい連中が多くて、日本だとシーシェパードが有名だろう。捕鯨船に体当たりして妨害しているはた迷惑な連中である。本作のトレッドウェルもそういう類ではあるけれど、不思議と彼には狂気を感じない。クマへの信仰心は強いものの、かろうじて正気は保っているように見える。彼には「殺されるわけにはいかない」という強い意識があって、決して自殺を試みているわけではないのだ。クマへの知識は豊富だし、実際13年も生き延びているのだから、その扱い方もよく心得ている。身を守るための武器を携帯してないのは愚かとしか言いようがないけれど、彼は「命が危なくてもクマは殺さない」という信条の持ち主だから、まあ理解できないこともない。危険なことを自己責任でやっている人という感じがする。

トレッドウェルがクマを守ろうと決意した動機がどうしようもない。アルコール依存症だった彼は、クマが危機的状況にあることを知った。そして、クマを救おうと立ち上がることで、アルコールを断つことができた。クマは彼にとって恩人だった。おいおい、これって典型的なメサイア・コンプレックスじゃないか。自尊心の低さを自己有用感で埋め合わせる行為。クマを救うことで、逆に自分が救われているわけだ。環境保護主義者というのは、こういう心の病を抱えた人が多いのかもしれない。

トレッドウェルは100時間に及ぶ膨大な映像を撮ったけれど、今だったら彼はYouTuberになっていただろう。アラスカでクマと暮らすYouTuber。こんな馬鹿なことをするのは世界中で彼くらいだろうから、おそらく人気になったはずだ。僕もチャンネル登録して動画をチェックしたいくらいである。YouTuberとはすなわちコンテンツであり、コンテンツは過激であればあるほど面白い。彼は己の生き死にを衆目に晒しているわけで、危険につきまとう死の予感がオーディエンスを興奮させる。彼は生まれた時代が早すぎたと思う。

トレッドウェルは周囲の人たちから非難轟々である。けれども、こういう無謀なことをやる奴が地球上に一人くらいはいてもいいと思う。巻き込まれた恋人は可哀想だし、後始末した人間は大変だったろうけど。しかし少なくとも、本作みたいなドキュメンタリー映画は作られる。人々に娯楽を提供することはできる。ティモシー・トレッドウェル、彼は上質のコンテンツだった。

『ザ・パシフィック』(2010)

★★★★

1941年12月7日。日本軍が真珠湾を攻撃してきた。第1海兵師団の海兵隊員たちが戦場へ向かう。ガダルカナル島の戦いから沖縄戦まで。

原作はユージン・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』【Amazon】、ロバート・レッキー『南太平洋戦記―ガダルカナルからペリリューへ』【Amazon】。HBO制作の戦争ドラマで、『バンド・オブ・ブラザース』の姉妹編みたいな位置づけになっている。

戦争における人間性を描いたドラマと言えそう。とにかく海兵隊員の日本兵への憎悪が凄まじく、負傷してまだ息のある日本兵に容赦なく止めを刺している。海兵隊では捕虜はとらない方針らしい。また、自ら姿を現して的になった日本兵をいたぶったり、無抵抗の少年兵を射殺してはしゃいだり、その心中は憎悪と狂気に支配されている。彼らがこうなったのも日本兵が頑強に抵抗してるからだし、決して快適とは言えない南方の風土も関係しているのだろう。兵士たちは熱帯雨林のなかで泥にまみれているうえ、赤痢マラリアに苦しめられている。この戦場ではとにかく人間が虫けらみたいに殺される。生命の価値が尊重されず、人間であることを否定される。目の前にいるのは憎むべきジャップでしかない。相手は人間ではないのだ。そして、現代のアメリカ人はジハード戦士にかつての日本兵を重ねている。憎悪を次の世紀にまで持ち越しているのだから救いようがない。

日本兵がバタバタ死んでいくところは見ていてきつかった。ガダルカナル島では、砂州を渡っていた日本兵が機関銃で皆殺しにされて死体の山を築いているし、また、幾度もバンザイ突撃をしては戦果をあげることもなく無駄死にしている。何で機関銃の前に無策で姿を現すのだろう? 戦争というのは、こちらの犠牲を最小限にしつつ、敵に最大限の損害を与えるのが目的ではないのか。これでは兵力が不足して後の戦いで不利になってしまう。「死を恐れない」と言えば聞こえはいいけれど、実際には戦闘に勝ててないわけで、上層部の無能ぶりが透けて見える。現場の兵士はたまったものではない。

一方、ペリリュー島ではこれまでとは打って変わって、日本軍が最初から徹底抗戦しており、上陸してくる海兵隊を狙い撃ちにしている。海兵隊日本兵を一方的に殺戮するというお決まりの展開ではない。かなりの激戦が行われている。ドラマではこの戦いに3話も費やしているので、天下分け目の決戦だったのだろう。海兵隊員が何人も死傷していくのはこれまでにないことだった。

沖縄戦は民間人も巻き込まれていて、今まで以上に見るのがつらかった。海兵隊員は相変わらず日本兵への憎悪で満ち満ちている。無抵抗の少年兵を射殺するエピソードもここだ。

本作を観て思ったのは、人間は死んだらおしまいということだ。死後に勲章を授与されたり、遺族に見舞金を贈られたりしても、生きてなければ意味がない。戦争とは、人間の命をいかに蕩尽するかという破壊的なイベントである。自殺志願者でない限り、絶対に回避しなければならない。巻き込まれそうになったら逃げる。地の果てまで逃げる。逃げて逃げて逃げまくる。そのためには、外国でも生きていけるようなスキルを身につけるべきだろう。たとえ格好悪くても、生き延びることが我々にとっての戦いである。

岩井俊二『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016/日)

★★★

臨時教員の皆川七海(黒木華)が、SNSで知り合った鶴岡鉄也(地曵豪)と結婚することに。自分のところの親戚が少ない七海は、なんでも屋の安室行舛(綾野剛)に代理出席を依頼する。その後、鉄也の浮気が発覚し、さらに姑(原日出子)に七海の浮気の証拠を突きつけられる。それは別れさせ屋によってでっちあげられたものだった。離婚して住む場所を失った七海は、安室に結婚式の代理出席の仕事を紹介してもらう。そこで里中真白(Cocco)という女性と意気投合。次に紹介された仕事は屋敷に住む込みで働くメイドだったが、既に真白が働いていた。七海と真白、2人で共同生活をする。

現代で『花とアリス』【Amazon】をやるとこうなるのかという感じ。

今はネットで何でも手に入る時代で、七海はあっさり結婚相手を手に入れた。まるでネットで買い物をするみたいに。さらに、高度資本主義社会ではサービス業も発達、金さえ払えばなんでも屋によってあらゆるサービスを提供してもらえる。このなんでも屋というのが曲者で、結婚式の代理出席だけでなく、別れさせ屋や心中相手の斡旋など、倫理的にまずいものまで扱っている。一見すると、安室は七海に対して誠実そうに見える。けれども、やってることはなかなかえげつなくて、腹の底では何を考えているのか分からない。敵なのか味方なのかはっきりしない。それもそのはずで、おそらく安室の忠誠心はなんでも屋という仕事にしかないのだろう。仕事のためならそれこそ何でもする。人を助けたり人を騙したりしつつ、最終的にはクライエントの要望を叶える。象徴的なのが、ある女性の死亡報告をしに彼女の実家にあがりこんだシーンだ。そこで裸になって感情を顕にするのだけど、彼の態度ははっきり言って嘘くさい。敢えて茶番を演じているように見える。安室にとっては愁嘆場ですら感情労働に過ぎないのではないか。結局、彼は最後まで七海の面倒を見るのだが、それは危ういバランスの上に立った奇妙な関係で、七海が無事で済んだのは奇跡だと言える。

七海と真白の関係はどこか美しさを感じさせるもので、この監督は女同士を撮らせたらかなりのものだと思う。主体性に欠ける七海と、奔放な生き方をしている真白。2人がウエディングドレスを着て「結婚」するシーンなんか最高ではないか。七海も真白も傷ついて傷ついてようやく幸せを手にしたわけで、この安息は永遠に続いてほしいと思わせる。もちろん、続くわけはないのだけど。

人生に対して消極的だった七海が、魂を揺さぶられるような経験を経て新生活を始める。終わってみれば、得難い冒険だった。よくよく考えてみると、安室はお化け屋敷の案内人みたいな役割で、七海に非日常を体験させた。出口のないトンネルを抜けさせた。動機はどうあれ、良き案内人だったことに間違いない。

スティーヴン・ミルハウザー『私たち異者は』(2011)

★★★

短編集。「平手打ち」、「闇と未知の物語集、第十四巻『白い手袋』」、「刻一刻」、「大気圏外空間からの侵入」、「書物の民」、「The Next Thing」、「私たち異者は」の7編。

私たち異者はあなた方とは違う。私たちはあなた方より気難しく、神経質で、落着きがなく、向こう見ずで、打ちとけず、自暴自棄で、臆病で、大胆だ。真ん中の場所ではなく、自分自身の隅っこで私たちは生きている。真ん中はあなた方に任せる。(p.165)

We Others: New and Selected StoriesAmazon】に収められた21編から、新作の7編を訳出している。残り14編は既訳があるので省いたとのこと。

以下、各短編について。

「平手打ち」。マンハッタンの通勤圏にある郊外の町。そこに謎の連続平手打ち犯が出現した。始めは駐車場で男ばかり狙っていたが……。連続平手打ち犯が町にどのような波紋を広げたのかを描いていて面白かった。何と言っても、やってることが平手打ちなところがいい。命の危険はないし、暴力でも比較的軽い部類である。これは連続殺人犯を縮小させたようなものだろう。とはいえ、町の人たちは事件を軽く扱ったりせず、それがどういう意味を持つのか分析している。平穏な町に訪れた混乱が面白い。

「闇と未知の物語集、第十四巻『白い手袋』」。高校の最終学年で「僕」がエミリーと友達になる。相手の家に入り浸るほど仲良くなったが、ある日エミリーの手に異変が生じる。彼女は白い手袋をはめて登校するようになった。現代の作家がポ―みたいなシチュエーションを書くとこうなるのかって感じ。白い手袋のなかには何があるのか。「僕」はそのことが気になって仕方がない。しかし、それは好奇心からではなく、秘密ができたことによって2人の間の調和が乱れたからだった。案の定、白い手袋に隠されていたのは奇形だったけれど、だからといって世界が変わるわけでもなく、平凡な日常は続いていく。

「刻一刻」。10歳の少年が家族とインディアン入り江へピクニックへ行く。しかし、様子がおかしかった。すごく卑近な例を挙げると、修学旅行って前の晩か当日の朝くらいが一番わくわくすると思う。しかし旅が始まってしまうと、だんだんとその喜びが減っていき、最後には燃え尽きて虚無を迎える。何事も始まる前が一番いい。そういう快感回路が人間にはある。

「大気圏外空間からの侵入」。大気圏外から黄色い埃みたいなものが降ってくる。それは生物だった。宇宙船に乗った知的生命体ではなく、特に害のない、それでいて地味なものが飛来する。ある種の肩透かしが微笑ましい。

「書物の民」。若き学徒に向けた演説。我々は書物の民であり、先祖は書字板と乙女の合体から生まれたという。天地創造を捏造したような話で、こういうのはSFかファンタジーにありそう。いわゆる設定ってやつ。それにしても、書物が先祖というのは素敵なことかもしれないなあ。

「The Next Thing」。町の外れに大型商業施設ができて「私」も買い物に行く。やがて「私」は施設で働くようになり、住居を売って施設の地下に住む。上級職の人たちが地上の住居を買い占めてそこに移り住み、代わりに下級職の人たちが地下に住むようになった。読んでいてシリコンバレーの隠喩かなと思った。あそこも外から来た人たちが移り住んだことで地価が高騰し、もともと住んでいた人たちが他所へ追いやられたのだった。本作はそれを地上・地下と階層づけているところが面白い。一見すると、地下は地下で快適そうだけど、段々と梯子を外されて変な具合になる。資本主義は怖いね。

「私たち異者は」。医者のポールは死んで「異者」になった。やがて彼はモーリーンという女性と交流するようになる。ある日、モーリーンは姪のアンドレアを家に泊めることに。ポールはアンドレアに存在を気づかれる。これはゴースト・ストーリーってやつかな。「見られること」で一本筋を通しているような気がする。異者のポールは見られたいという欲求があったし、終盤ではモーリーンにもその気配があった。存在とは何かといったら他人に認識されることで、そうすることで実存を得られるのだと思う。

三池崇史『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』(2017/日)

★★

海辺の町・杜王町に高校2年生の広瀬康一神木隆之介)が引っ越してくる。彼は同級生のジョジョこと東方仗助(山﨑賢人)と知り合い、さらにクラスメイトの山岸由花子小松菜奈)をお目付け役に任命される。一方、仗助は血縁の空条承太郎伊勢谷友介)と会い、自分の超能力がスタンドと呼ばれているのを知る。町では若い男がスタンド能力者を作るべく弓と矢で次々と人を射抜いていた。そのなかに前科者の片桐安十郎(山田孝之)がいて……。

原作は荒木飛呂彦の同名漫画【Amazon】。

怖いもの見たさでつい視聴したが、意外とマシというか、まあまあ頑張ってるほうだった。原作がかなり特異なビジュアルなので、実写化に向いてないことは分かっていたし、大して期待もしてなかった。どうせ駄作だろうと高を括っていた。そんな風に最初からハードルが下がっていたので、映画は映画なりに健闘しているように感じた。

仗助や承太郎など、漫画的な外見をした人物が背景からあまり浮いてないところに驚いた。ぱっと見コスプレ感はあるのだが、動いている様子にさほど違和感はない。こういう世界観で物語が動いているのだとすんなり入ってくる。これはロケ地が海外であることと関係しているのだろう。また、戦闘シーンもなかなかよくできていて、スタンドのCGやエフェクトは一見の価値がある。スタープラチナの時止めやクレイジー・ダイヤモンドのドラドララッシュは感動的だった。

ただ、全体的にテンポが悪く、話を詰め込んでる割には展開がだるかった。これは実写の性質上そう感じるのか、それとも本作だけ特別だるいのか。アニメ版【Amazon】を見たときはさくさく進んでいると感じたので、なおさらテンポの悪さが気になった。

映画オリジナル部分では、原作ファン向けに伏線を貼っているところが目を引いた。康一くんの部屋には岸辺露伴の漫画が並べてあるし、仗助の祖父(國村隼)は杉本鈴美の事件を報じた新聞記事をスクラップしている。また、仗助の母(観月ありさ)はトニオ・トラサルディーの店に息子を誘おうとしていた。これが続編に生かされるかどうかは分からないが、原作をいかにカットするかで腐心しているなか、ファンにくすぐりを感じさせる要素ではあった。

この第一章のキーワードは「家族」になるだろう。片桐安十郎が最初に殺したのは自分の父親だし、仗助は片桐に愛する祖父を殺されている。虹村形兆岡田将生)は化物になった父親を殺したがっていたものの、一方で父親は正気を失いながらも家族の写真を探していた。そして、形兆は土壇場で弟の億泰(新田真剣佑)を庇って死んでいる。このように本作は家族の愛憎がモチーフになっていて、映画としては収まりのいい内容になっている。

それにしても、山岸由花子役の小松菜奈が可愛い。僕もあんな娘に付きまとわれたい人生だった。といっても、彼女は典型的なBPDだが……。