海外文学読書録

書評と感想

ショーン・プレスコット『穴の町』(2017)

★★★

とある町にやってきた「ぼく」は、スーパーマーケットで働きつつ、「ニューサウスウェールズ中西部の消えゆく町々」という本を書いてた。その過程で様々な人たちと話をする。どうやら「ぼく」が滞在する町には存在理由がなかった。それは他の消えゆく町々と同じ特徴でもある。やがて町のあちこちに穴が空き、町は消滅の一途をたどるのだった。

ある種の町のなかにいるとき、そこ以外の世界は消えている。ならばそこ以外の世界にとっても、ある種の町は消えたままになっていると考えなくては理屈に合わない。つまりそこは、想像上の場所か、ゴーストタウンか、すかすかの領域をなんとか埋めるために地図製作者が入念に配置したたんなる地図上の飾りだと思われている、ということだ。(p.7)

消えゆく町を題材にした不条理文学。町が消えるのは存在理由がないからだそうだけど、現代日本では人口減少によって町が消えつつあるので、外国の話でありながらも意外とアクチュアルだと思った。僕の実家がある限界集落も将来はなくなっているだろう。それはおらが町に重要なところが何もないことを意味している。わりと住みやすい町だと思っているので、一抹の寂しさを感じた。

といっても、本作はそういう散文的な話ではなく、虚無みたいな穴の出現によって消える幻想的な話で、その有り様は一種の自然災害である。住人にとってはとんだとばっちりだ。「この町ははっきり記録に残された理由もなしに出現したから、はっきり予想された理由なしに消滅することになる」と「ぼく」は断じていて、町の存在理由とはいったい何なのか考えてしまった。個人的には、どの町にもそれなりに存在理由があるのだと思う。理由もなしに出現した町なんて想像もつかない。人が住むのに適しているから自然と町が形成されたのだろう。その過程で「逸話」も創造されたはずだ。あるいは、日本という起伏に富んだ狭い国土と、オーストラリアというだだっ広い国土とでは、町の成り立ちが異なるのかもしれない。ともあれ、「芸術というのはときに何日も続けて考えることを強いるものなのだ」という本作の言葉通り、町について小一時間ほど考えたのだった。

ところで、僕は地方の企業城下町に数年間お世話になったことがある。愛知県豊田市の縮小版と考えてくれれば分かりやすいだろう。その企業城下町では広大な一等地にA社が工場を構え、住民のほとんどがそこで働いていた。税収もA社からのものがダントツに多い。だから町は人口のわりに潤っていた。それなりに活気もあった。ところが、あるとき経営の失敗でA社の業績が悪化し、ついには大規模なリストラを強行、工場が縮小されることになった。それに伴って税収が激減、町から様々な商業施設が撤退し、住民も大幅に流出することになった。これは町の崩壊と言っていい。そして、こういう町こそが、本作で論じられた「存在する理由のない町」なのだと思う。僕は消えゆく町々にこの企業城下町を重ねたのだった。

終盤では「ぼく」とヒロインが都市に行くのだけど、都市は都市で町と同等の問題を抱えていて、人が住む場所に理想郷なんてないのだと思い知らされた。

大島渚『東京戦争戦後秘話』(1970/日)

★★★

左翼運動の一環として仲間たちと映画製作をしている元木(後藤和夫)は、沖縄デーの闘争記録を撮影中、私服刑事にカメラを奪われる。走って追いかける元木。その一方で、彼は「あいつ」がフィルムを遺書にしてビルから飛び降りる場面を見る。そのことを仲間たちに伝えると話が噛み合わない。元木は恋人の泰子(岩崎恵美子)と2人で話をするが……。

この映画そのものが一編の幻想のような感じ。元木の見た「あいつ」は実在するのか? 「あいつ」はただの幻想に過ぎないのか? そういう興味で観客を引っ張りつつ、学生運動家たちの肖像や、泰子との奇妙な関係を織り交ぜていく。「あいつ」を巡る話がこれまたややこしくて、当初は「あいつ」の存在を頑なに信じ、泰子を「あいつ」の恋人だとさえ思い込んでいた元木が、色々あってあれは幻想だったと自らを納得させる。ところが、そうなった途端、泰子が「あいつ」の存在を認め、自分は「あいつ」の恋人であると証言する。結局、フィルムを手掛かりに2人で「あいつ」の痕跡を辿っていくのだった。このプロットの決着はまあまあ納得できるもので、昔の実験映画らしい仕上がりになっている。突拍子もない風呂敷を上手く畳んだのではなかろうか。

全共闘世代が学生時代に何をやっていたのか、その一端を垣間見ることができて面白かった。革マル派と中核派が元気だったなんて隔世の感がある。学生たちが左翼用語を頻発するところが何とも珍しくて、その頭でっかちなところが滑稽だった。公開当時に見た人はどう思ったか知らないが、現代の僕からすると随分と馬鹿なことをやっていたものだと思う。彼らによると、「表現の自由」は低い次元の話で、映画とは闘争に使うもの、武器として使うものだという。現実に取り組んで、それを直視させるのが目的だそうだ。まるでプロレタリア文学の映画版みたいで、随分とこちこちな芸術観である。学生たちが空理空論を弄ぶ様子は、まるで現代のおたく系サークルといった趣だ。彼らはああやって青春していたのだなと感慨深くなった。

元木と泰子の関係はまるで不条理劇のようで、どこまでが現実でどこからが幻想なのか分からなかった。元木が泰子を強姦する。泰子が元木の邪魔をする。元木と泰子が車で拉致され、泰子がDQNに強姦される。そして、2人はそれぞれ自分の死体を目撃する……。僕はいったい何を見ていたのだろう? 映像表現も実験的で、脳みそを程よく刺激する映画だった。こういう意味不明な映画も嫌いではない。

ジョン・アップダイク『走れウサギ』(1960)

★★★

ペンシルベニア州ブルーアーの郊外。26歳のウサギことハリー・アングストロームは、台所用皮むき器のセールスマンをしていた。彼は高校時代にバスケットボールで郡の得点記録保持者になっている。現在はジャニスという若妻との間に2歳の息子がおり、さらにジャニスは妊娠中だった。結婚生活に嫌気が差したウサギは、ふとしたことから遠くへドライブに出る。

「奥さんと離婚する気はあるの? ないんでしょ。あなたは奥さんとも結婚していたいのよ。あなたはすべての女と結婚したいのよ。なぜあなたは自分が何をやりたいか、はっきり決めないの?」(p.319)

ハードカバー版で読んだ。引用もそこから。

大人になりきれない男が、己の本能に忠実に生きようとして道に迷う。平凡な結婚生活を送っているウサギには、言葉では表現できない違和感があって、ありきたりな日常から逃避する。その結果が、ルースとの不倫である。しかし、このまま彼女とくっつくのかと思いきや、妻の出産によってまたぐらつくのだった。その後にも一波乱あって、結局は筋の通った選択ができない。ウサギは最後まで道に迷ったままである。

なぜこんなことになったかと言えば、彼が子供のままだからだろう。ウサギは少年たちとバスケする場面で、「大人になるといっても、別にどうってことはないんだ。きみたちと変わりはないさ」と独白しているし、また牧師との会話では、「大人であるってことは死んでるってことと同じ」と述べている。ウサギは妻と不倫相手の間を行ったり来たりしていて、一見するとクズに見える。しかし、実は大人のように人生を諦めてないからそうなっているのだ。馬鹿みたいに戦っているがゆえに、このような迷走劇を起こしている。ウサギは自分がなぜ家出したか分からないし、終盤でルースを選んだときも、ただ「ぴったりな感じ」としか言えてない。自分の欲望に言葉を与えることができない。これこそ彼が子供であることの証だろう。本作は大人になりきれない男の不倫を通して、イノセンスの悲劇を描いている。

ここにキリスト教的な要素を持ち込むと、ウサギの不倫は悪魔の誘惑と言えるかもしれない。それはイエスが荒野で過ごした40日に受けた誘惑と同じである。たとえ20世紀のアメリカだろうと、キリスト教徒である限りは悪魔と対話しなければならない。悪魔の声に耳を傾けなければならない。未熟なウサギは誘惑に抗しきれなかった。それが言葉にできない欲望であり、ある意味ウサギは悪魔に翻弄されたと言える。

それにしても、現代における冒険とは大自然に挑むことや戦場で命をかけることではなく、遠くに出て情事に耽ることだとは何ともスケールの小さい話ではないか。そこには夢も希望もない。ただ現実があるのみである。村上春樹のすごいところは、ファンタスティックな回路を創造してわくわくする物語を読者に提供しているところだろう。現代人が冒険するにはもはやそういう手段しかないわけで、我々は平凡な日常をありがたく噛みしめるべきである。

以下、続編。

pulp-literature.hatenablog.com

 

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スチュアート・タートン『イヴリン嬢は七回殺される』(2018)

★★

記憶を失った「わたし」が、郊外のブラックヒース館にたどり着く。そこでは客を集めて夜に仮面舞踏会を開こうとしていた。ループの檻に閉じ込められた「わたし」は、8日と8人の宿主を渡り歩いてイヴリン嬢殺害の謎を解くことに。そうすることでここから抜け出せるという。さらに、屋敷では19年前にも殺人事件が起きていて……。

明日はわたしが望むどんな一日にもでき、それはこの数十年で初めて明日を楽しみにできるということだ。明日を不安でしかないものではなく、自分自身にする約束にできる。もっと勇敢になったり親切になったり、まちがっていたことを正す機会にできる。今日のわたしよりもいいものになる機会だ。(p.414)

古き良きカントリーハウスものにループ設定を持ち込んだSFミステリ。タイムテーブルを作るのが大変そうな労作であることには間違いない。ただ、あまりに長くて読んでいてだれたし、内容も複雑なだけで思ったほど面白くなかった。これが3/4程度の分量だったら納得したかもしれない。

謎解きミステリというのは元々ゲーム性の高いジャンルだけど、本作はそこにループ設定を取り入れることで、その特性をさらに高めている。こういうのってたぶんテレビゲームでプレイするのだったら面白いのだろう。『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』【Amazon】とか、『STEINS;GATE』【Amazon】とか。どちらもループもので、ゲーム版は名作として名高い。しかし、こういうのを小説やアニメにしてしまうと途端につまらなくなるのだ。原因はインタラクティブ性が失われるからで、この手のジャンルは話そのものには魅力がないのである。あくまで仕掛けが面白いだけ。本作もその弊は免れてなくて、途中からは退屈な手続きを読まされてるような気分になった。せめてもう少し短れば飽きなかったと思う。手間のかかった小説なだけに残念である。

本作は複数の謎が提示されるけれど、どれも捻りが効いていて驚きがあった。19年前の殺人の真相、「わたし」をこの屋敷に閉じ込めた意図、イヴリン嬢殺害のからくり。ごちゃごちゃしているせいであまり鮮烈な印象は残さないものの、ミステリとしてはどれもレベルが高いことに間違いない。一粒で三度おいしい小説である。ただ、日本の作家だったらもっとシンプルにまとめてサプライズを引き立てただろう。その点、本作は複雑なプロットに足元をすくわれたと思う。

「わたし」がアナに対して過度に思い入れがあるところもきつかった。真実を知ってもそういう選択をするのか、みたいな感じで呆れたのである。正義感が空回りしているというか。まあ、この辺は好みの問題なのだろう。個人的にはあまり感情を入れず、淡々とゲームをやってくれればいいのにと思った。

ロバート・ワイズ『地球の静止する日』(1951/米)

★★★

地球の大気圏に銀色の巨大な円盤が飛来、まもなくワシントンD.C.に着陸する。中から奇妙な服を来た人間らしき男(マイケル・レニー)が現れた。彼は宇宙人で、名前はクラトゥだという。見物人に近づいていったクラトゥは、慌てた警備兵に銃で撃たれる。その後、円盤からロボットのゴート(ロック・マーティン)が現れた。クラトゥは地球が滅亡の危機にあることを世界中の指導者に伝えたがっていたが、アメリカの役人はそれはできないと語る。

原作はハリー・ベイツの短編小説【Amazon】。

ファースト・コンタクトものとしては、宇宙人を侵略者ではなく友好的な存在として登場させたところが画期的らしい。また、米ソ冷戦へのアンチテーゼを前面に出していて、そのレトロな映像と相俟って時代を感じる。正直、現代人の僕にとってはあまり観る意義を感じなかったけれど、映画の歴史を確認できたのは良かった。どんなジャンルでも古典はチェックしておくべきだろう。

戦争の原動力が人々の「恐怖」にあることを具体的なエピソードで示しているところが面白い。クラトゥは当初アメリカ人から歓迎されるのだけど、宿泊先から逃げたことで指名手配される。そして、すぐさまラジオで怪物扱いされる。未知への恐怖が一気に顕在化したのだ。相手は無敵のロボットを持っているから、その恐怖はなおさら強い。下手したら皆殺しにされるかもしれない。だから自衛のためにクラトゥを捕獲する。僕も愚かな大衆の一人なので、こういう気持ちはよく分かるのだけど、映画として一歩引いた視点で見ると、これは良くない傾向だと思う。恐怖を暴力に直結させるのって、人間が持つ最大の悪癖だろう。我々は脊髄反射的な反応をする前に、理性で物事を判断する必要がある。

市民社会に紛れ込んだクラトゥは、ヘレン(パトリシア・ニール)という民間人と親しくなる。終盤になってヘレンの婚約者が、功名心に取り憑かれて世界を危機に晒すところはぎょっとした。クラトゥを捕まえて英雄になりたい。テレビに出て有名になりたい。世界よりも自分、他人よりも自分といった根性を剥き出しにしている。こういう浅はかな人間はどの社会にもいるので、とても他人事には思えなかった。

原子力が宇宙人の懸案になっているところは時代を感じる。同時代の漫画『鉄腕アトム』【Amazon】が、原子力を未来のエネルギーとして活用したのとは対照的である。フィクションにおける原子力の扱いを時代順に追っていくのも面白そうだと思った。