海外文学読書録

書評と感想

ジョン・アップダイク『走れウサギ』(1960)

★★★

ペンシルベニア州ブルーアーの郊外。26歳のウサギことハリー・アングストロームは、台所用皮むき器のセールスマンをしていた。彼は高校時代にバスケットボールで郡の得点記録保持者になっている。現在はジャニスという若妻との間に2歳の息子がおり、さらにジャニスは妊娠中だった。結婚生活に嫌気が差したウサギは、ふとしたことから遠くへドライブに出る。

「奥さんと離婚する気はあるの? ないんでしょ。あなたは奥さんとも結婚していたいのよ。あなたはすべての女と結婚したいのよ。なぜあなたは自分が何をやりたいか、はっきり決めないの?」(p.319)

ハードカバー版で読んだ。引用もそこから。

大人になりきれない男が、己の本能に忠実に生きようとして道に迷う。平凡な結婚生活を送っているウサギには、言葉では表現できない違和感があって、ありきたりな日常から逃避する。その結果が、ルースとの不倫である。しかし、このまま彼女とくっつくのかと思いきや、妻の出産によってまたぐらつくのだった。その後にも一波乱あって、結局は筋の通った選択ができない。ウサギは最後まで道に迷ったままである。

なぜこんなことになったかと言えば、彼が子供のままだからだろう。ウサギは少年たちとバスケする場面で、「大人になるといっても、別にどうってことはないんだ。きみたちと変わりはないさ」と独白しているし、また牧師との会話では、「大人であるってことは死んでるってことと同じ」と述べている。ウサギは妻と不倫相手の間を行ったり来たりしていて、一見するとクズに見える。しかし、実は大人のように人生を諦めてないからそうなっているのだ。馬鹿みたいに戦っているがゆえに、このような迷走劇を起こしている。ウサギは自分がなぜ家出したか分からないし、終盤でルースを選んだときも、ただ「ぴったりな感じ」としか言えてない。自分の欲望に言葉を与えることができない。これこそ彼が子供であることの証だろう。本作は大人になりきれない男の不倫を通して、イノセンスの悲劇を描いている。

ここにキリスト教的な要素を持ち込むと、ウサギの不倫は悪魔の誘惑と言えるかもしれない。それはイエスが荒野で過ごした40日に受けた誘惑と同じである。たとえ20世紀のアメリカだろうと、キリスト教徒である限りは悪魔と対話しなければならない。悪魔の声に耳を傾けなければならない。未熟なウサギは誘惑に抗しきれなかった。それが言葉にできない欲望であり、ある意味ウサギは悪魔に翻弄されたと言える。

それにしても、現代における冒険とは大自然に挑むことや戦場で命をかけることではなく、遠くに出て情事に耽ることだとは何ともスケールの小さい話ではないか。そこには夢も希望もない。ただ現実があるのみである。村上春樹のすごいところは、ファンタスティックな回路を創造してわくわくする物語を読者に提供しているところだろう。現代人が冒険するにはもはやそういう手段しかないわけで、我々は平凡な日常をありがたく噛みしめるべきである。

以下、続編。

pulp-literature.hatenablog.com

 

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