海外文学読書録

書評と感想

スティーヴン・ミルハウザー『私たち異者は』(2011)

★★★

短編集。「平手打ち」、「闇と未知の物語集、第十四巻『白い手袋』」、「刻一刻」、「大気圏外空間からの侵入」、「書物の民」、「The Next Thing」、「私たち異者は」の7編。

私たち異者はあなた方とは違う。私たちはあなた方より気難しく、神経質で、落着きがなく、向こう見ずで、打ちとけず、自暴自棄で、臆病で、大胆だ。真ん中の場所ではなく、自分自身の隅っこで私たちは生きている。真ん中はあなた方に任せる。(p.165)

We Others: New and Selected StoriesAmazon】に収められた21編から、新作の7編を訳出している。残り14編は既訳があるので省いたとのこと。

以下、各短編について。

「平手打ち」。マンハッタンの通勤圏にある郊外の町。そこに謎の連続平手打ち犯が出現した。始めは駐車場で男ばかり狙っていたが……。連続平手打ち犯が町にどのような波紋を広げたのかを描いていて面白かった。何と言っても、やってることが平手打ちなところがいい。命の危険はないし、暴力でも比較的軽い部類である。これは連続殺人犯を縮小させたようなものだろう。とはいえ、町の人たちは事件を軽く扱ったりせず、それがどういう意味を持つのか分析している。平穏な町に訪れた混乱が面白い。

「闇と未知の物語集、第十四巻『白い手袋』」。高校の最終学年で「僕」がエミリーと友達になる。相手の家に入り浸るほど仲良くなったが、ある日エミリーの手に異変が生じる。彼女は白い手袋をはめて登校するようになった。現代の作家がポ―みたいなシチュエーションを書くとこうなるのかって感じ。白い手袋のなかには何があるのか。「僕」はそのことが気になって仕方がない。しかし、それは好奇心からではなく、秘密ができたことによって2人の間の調和が乱れたからだった。案の定、白い手袋に隠されていたのは奇形だったけれど、だからといって世界が変わるわけでもなく、平凡な日常は続いていく。

「刻一刻」。10歳の少年が家族とインディアン入り江へピクニックへ行く。しかし、様子がおかしかった。すごく卑近な例を挙げると、修学旅行って前の晩か当日の朝くらいが一番わくわくすると思う。しかし旅が始まってしまうと、だんだんとその喜びが減っていき、最後には燃え尽きて虚無を迎える。何事も始まる前が一番いい。そういう快感回路が人間にはある。

「大気圏外空間からの侵入」。大気圏外から黄色い埃みたいなものが降ってくる。それは生物だった。宇宙船に乗った知的生命体ではなく、特に害のない、それでいて地味なものが飛来する。ある種の肩透かしが微笑ましい。

「書物の民」。若き学徒に向けた演説。我々は書物の民であり、先祖は書字板と乙女の合体から生まれたという。天地創造を捏造したような話で、こういうのはSFかファンタジーにありそう。いわゆる設定ってやつ。それにしても、書物が先祖というのは素敵なことかもしれないなあ。

「The Next Thing」。町の外れに大型商業施設ができて「私」も買い物に行く。やがて「私」は施設で働くようになり、住居を売って施設の地下に住む。上級職の人たちが地上の住居を買い占めてそこに移り住み、代わりに下級職の人たちが地下に住むようになった。読んでいてシリコンバレーの隠喩かなと思った。あそこも外から来た人たちが移り住んだことで地価が高騰し、もともと住んでいた人たちが他所へ追いやられたのだった。本作はそれを地上・地下と階層づけているところが面白い。一見すると、地下は地下で快適そうだけど、段々と梯子を外されて変な具合になる。資本主義は怖いね。

「私たち異者は」。医者のポールは死んで「異者」になった。やがて彼はモーリーンという女性と交流するようになる。ある日、モーリーンは姪のアンドレアを家に泊めることに。ポールはアンドレアに存在を気づかれる。これはゴースト・ストーリーってやつかな。「見られること」で一本筋を通しているような気がする。異者のポールは見られたいという欲求があったし、終盤ではモーリーンにもその気配があった。存在とは何かといったら他人に認識されることで、そうすることで実存を得られるのだと思う。