海外文学読書録

書評と感想

イサベル・アジェンデ『エバ・ルーナ』(1987)

★★★

独裁政権が支配する南米のどこか。捨て子だった母とインディオの父の間に生まれたエバ・ルーナは、物語を語る才能に恵まれていた。彼女は7歳にして母と身内を亡くし、あちこち遍歴を余儀なくされる。やがて民主主義の時代になり、共産主義の革命家と関わるようになるが……。

「わたしはこの国が好きなんだ」あるとき、リアド・アラビーはイネス先生の家の台所に腰をおろし、そう言ったことがある。「金持ちと貧乏人、黒人と白人、彼らがひとつの社会、ひとつの国を作り上げているからね。階級やしきたりにとらわれず、誰もが自分の踏みしめている大地の主人だと信じているだろう、ここでは生まれや財産によって差別されることはないんだ。わたしの生まれ育った国とは大違いだよ、向こうにはさまざまな階層があり、しきたりも違う。だから、人は生まれた土地で死んでゆくしかないんだよ」(p.264)

ハードカバーで読んだ。引用もそこから。

思ったほどマジックリアリズムという感じではなかったけど、それでもラテンアメリカならではの土俗的な雰囲気が満載で面白かった。訳者あとがきによると、著者が当時住んでいたベネズエラが舞台らしい。ただ、作中には国内の具体的な地名はアグア・サンタという村しか出てこないし、試しにぐぐってみたらそこはブラジルとエクアドルの地名だった。さらに、本作には独裁者や軍人が何人か出てくるものの、彼らの実名は伏せられたままである。こうまで徹底して国内の固有名詞を排除したのは、ラテンアメリカならどこでもあり得る、一編のおとぎ話として読まれたいからだろう。熱帯雨林があって、独裁者がいて、共産主義のゲリラが活動している。カトリックの価値観が支配的で、ヨーロッパやアジアからの移民が溢れていて、前時代的な迷信を信じている。そこはガブリエル・ガルシア=マルケスが書くコロンビアのようでもあるし、マリオ・バルガス=リョサが書くペルーのようでもある。このように本作はラテンアメリカ集合的無意識を表現している。

語り手のエバ・ルーナは物語の主体でありつつ、様々な事件の観察者でもある。軸となっているのは、エバが胡乱な出自から作家になるまでの軌跡だ。その過程でたくさんの個性的な人物と関わっていて、彼らの織りなすエピソードが物語の読みどころになっている。訳者はあとがきでピカレスク小説としての面をクローズアップしているけれど、個人的にはビルドゥングスロマンの要素も強いと思った。遍歴と成長。この2つはおそらく矛盾しない。というのも、現代文学の登場人物には往々にして内面があるからで、エバもご多分に漏れずそれを備えている。内面のある人物が様々な人物と関わっていけば嫌でも成長するわけで、本作はピカレスク小説の枠組みを取りながらも、ビルドゥングスロマンの要素も兼ね備えている。文学研究者の土方洋一は、物語を「出来事の推移の記述」と定義した*1。出来事の推移をどれだけダイナミックに書けるかによって、物語の面白さが決まるのだろう。その伝でいけば、本作はかなりダイナミックだと思う。

ラテンアメリカの小説はその土俗性が魅力なので、本作もはまる人は大いにはまるだろう。未読の人はまず『精霊たちの家』から読むことをお勧めする。

*1:『物語のレッスン』【Amazon】15ページ。

陳浩基『ディオゲネス変奏曲』(2019)

★★★

短編集。「藍を見つめる藍」、「サンタクロース殺し」、「頭頂」、「時は金なり」、「習作 一」、「作家デビュー殺人事件」、「沈黙は必要だ」、「今年の大晦日は、ひときわ寒かった」、「カーラ星第九号事件」、「いとしのエリー」、「習作 二」、「珈琲と煙草」、「姉妹」、「悪魔団殺(怪)人事件」、「霊視」、「習作 三」、「見えないX」の17編。

「おまえたちは……時間を売って金にしたことはないのか? 美児が病気になったときだとか、とても辛かっただろう? 時間を縮めようとは思わなかったのか」

「人生は辛いときがあるから、楽しみもあるんだろ」(p.97)

通常のミステリだけではなく、SFやカフカ的小説もあってバラエティ豊かだった。

以下、各短編について。

「藍を見つめる藍」。2008年。アラサー男性の藍宥唯は、2年前からある女性のブログを読んで、諸々の記述から彼女の個人情報を特定していた。彼は殺人の準備をして女性の住処に向かう。犯罪小説といえば犯罪小説なのだけど、これはなかなか捻りが効いている。用意周到なわりに女性の歯ブラシを舐めるところが変態チックで、これがある意味ではミスディレクションのひとつになっている。作中に出てくるアングラ掲示板のくだりを読んで、こういうのは世界中どこにでもあるのだなと感心した。

「サンタクロース殺し」。ホームレスの一人がサンタクロース殺しの話をする。日本では『行け!稲中卓球部』【Amazon】にサンタ狩りというネタがあって、その精神が陰キャたちに代々受け継がれていたと思う。つまり、クリスマスをカップルで祝うことに対するアンチテーゼ。で、本作はベタな幕引きだったけれど、しかしクリスマス・ストーリーはこうでなくちゃいけないと思う。陳腐な様式美を守ることに意味があるのだ。ところで、サンタクロースは中国語で「聖誕老人」と表記するらしい……。

「頭頂」。朝起きて鏡を見ると、「僕」の頭の上に鳥の爪みたいな異物が乗っかっていた。手で触れようとしてもすり抜けてしまう。そして、同僚にはこれが見えないらしい。これは短いながらも示唆に富んだ話で、正常と異常を区別するものは何かというのを考えさせる。正常であるために、見て見ぬふりをするのも答えのひとつ。

「時は金なり」。大学生の馬立文が、金策のために〈時間交易中心〉で自分の時間を売る。それで得た金で、意中の女性にブランドもののバッグをプレゼントするが……。僕も辛い時間はなるべく売り払いたいけれど、そういう時間はまとまって存在してないので、1ヶ月や1年単位で売るなんてまず無理だ。人生って1日のなかに辛い時間と楽しい時間が混在しているから。むしろ金を払って楽しい時間を引き伸ばしたほうがいい。立文みたいに売りまくるのは虚しいだけだ。

「習作 一」。わずか2頁の超短編。殺人を描くのはミステリ作家のサガかな。

「作家デビュー殺人事件」。ミステリ作家志望の青年が、編集者から実際に人を殺すよう勧められる。既存の売れ子作家たちは、殺人経験者だから魂の入った作品を書けていた。青年は密室殺人を実行する。これは密室殺人のトリックと解決が読ませるし、外枠に皮肉な仕掛けがあって、一粒で二度おいしい作品になっている。今は黄金時代のような牧歌的な殺人は不可能だと痛感。警察の科学捜査が恐ろしく進んでいる。

「沈黙は必要だ」。看守にこき使われている囚人たち。そのうちの1人が、屋外での作業中に事故に遭い、看守に射殺される。決めゼリフでビシッと締めているけど、僕は下手人のその後が心配だ。こんなことをしたら死刑にされるのでは……。

「今年の大晦日は、ひときわ寒かった」。公園で大晦日のカウントダウンを待つ「僕」と恩。2人はラブラブのようだったが……。そういえば、現実ではこの手の猟奇殺人ってめっきり見なくなった。酒鬼薔薇聖斗の事件が1997年である。世界に目を向ければ何かしらあるのだろうか?

「カーラ星第九号事件」。カーラ星に降り立った上陸艇が墜落し、艦長と隊員が死亡する。ところが、記録によると艦長が死に際に意味深な言葉を遺していた。探偵デュパパンが謎を解く。まさか「後期クイーン問題」が香港にまで伝わっているとは思わなかった。あれは日本におけるガラパゴス的議論だと思っていた。僕は『毒入りチョコレート事件』【Amazon】を読んだとき、「探偵の推理なんて後からどうにでもなる」と悟ったので、実はそんなに興味なかったのだ。後期クイーン問題、とても懐かしかった。

いとしのエリー」。居間で来客をもてなす「わたし」。「わたし」と妻のエリーは表向きは仲睦まじかったが、裏ではいがみ合っていた。2階の部屋にはベッドの上にエリーの死体が横たわっている……。死体の処理って案外難しいから、1人で隠蔽するのは大変そう。ヤクザならともかく、一般人だと尚更。こういうのを読むと、後日談を知りたくなる。そして、本作の叙述トリックは良かった。

「習作 二」。わずか2頁の超短編

「珈琲と煙草」。ここ3日間の記憶を失っている男が、コーヒーを買いにコンビニへ。ところが、冷蔵庫にコーヒーはなく、代わりに煙草が入っていた。さらに、行きつけのカフェへ行くと、そこでも煙草が売られている。こういうあべこべな世界大好き。何せコーヒーが違法で、コカインが合法になっているのだから。主流文学だと不条理は不条理のまま終わるけど、著者はミステリ作家なので一応の説明をつけている。この辺は好みが分かれそう。

「姉妹」。雪の家に駆けつけた「おれ」は、雪の姉である心の他殺死体を見つける。さらに、凶器のナイフもあった。「おれ」は死体を隠蔽しようとする。最初の状況とは別の状況が裏に隠れているのがいい。それにしても、防犯カメラだらけの現代社会だと完全犯罪も難しいな。現実の犯罪って、たいていは街頭にある防犯カメラでバレるし。

「悪魔団殺(怪)人事件」。悪魔団の本拠地でジャガイモ怪人の死体が発見される。殺したのは誰か? ヒーローものにおける正義と悪の関係って、探偵小説における探偵と犯人の関係に似ていて、これは物語の構造的な問題だと思った。つまり、悪がいなければヒーローは活躍できないし、犯人がいなければ探偵は活躍できない。ところで、著者があとがきで『外天楼』【Amazon】を絶賛しているのが気になる。

「霊視」。仕事が終わって一服している男が、浮浪者みたいな老人と話をする。老人は霊媒だった。これはピリッとした短編で好印象だった。仮に殺人事件が起きたとして、被害者の霊が見えるのなら犯人を当てるのも容易……なはずだけど、そうもいかないパターンもある。人間って複雑だ。さらに、物語の締め方も気が利いていた。

「習作 三」。わずか2頁の超短編

「見えないX」。大学の授業で推理ゲームをする。内容は、教室に隠れているXを見つけ出すというもの。これは人狼っぽいかも。実際にこういう授業があったら楽しそうだ。ところで、名探偵コナン金田一少年に言及するのは分かるけど、倖田來未やmisonoといった芸能人まで話題にのぼるのには驚いた。というか、『ロンドンハーツ』って香港でも放送してたのか。本作は日本のサブカルチャーがてんこ盛りだった。

ギ・ド・モーパッサン『ベラミ』(1885)

★★★

パリ。アルジェリアからの帰還兵ジョルジュ・デュロワは、鉄道会社に安月給で雇われていた。そんななか、戦友のフォレスチエと偶然再会し、新聞記者の仕事を紹介してもらう。イケメンのデュロワは立場のある夫人たちと不倫し、順調に出世していくのだった。

「聴いてください、愛というものは永遠には続きません。ひとは愛しあい、別れるんです。しかしぼくらの関係のようにずるずる長引けば、それは恐ろしい足かせになるのです。ぼくはもうそんなのは御免です。ね、これが本音なんです。しかし、あなたが聞き分けよくなって、この先、ぼくを友人として迎え、つきあうことができるというのなら、かつてのように、あなたの家を訪れてもいい。どうです、できそうですか?」(p.422)

貧乏青年が美貌でのし上がっていくアンチヒーロー小説である。読んでいて『赤と黒』【Amazon】を連想したけれど、結末は大きく違っていた。この手の話は挫折して終わるのが相場だと思っていたので、いい意味で予想を裏切られたかもしれない。こういう小説もあるんだなあと勉強になった。

19世紀のフランスは階級社会だけれども、本作を読むと今よりも夢があったと思う。というのも、イケメンだったら金持ちの夫人を籠絡して成り上がることができたから。これって現代ではまず無理じゃないかな。僕は若い頃、容姿端麗・頭脳明晰の少年だったけれど、これで得したことと言ったら年上のお姉さま方から贔屓してもらったことくらいで、とてもじゃないが格差社会を駆け上るようなことはできなかった。せいぜい女性教師に好意を持って接してもらったり、弁当屋のおばちゃんに唐揚げをおまけしてもらったりしたくらいである。今だったらママ活で小遣い稼ぎができたろうけど、当時はそんなものなかったし……。そして、そうこうしているうちに歳をとってくたびれたおっさんになってしまった。今ではもう若い頃の面影なんてこれっぽっちもない。そこら辺によくいる量産型のおっさんである。現代日本は夢がなさすぎるんじゃなかろうか。僕は高校時代に『赤と黒』を読んでジュリアン・ソレルに憧れていたけれど、ああいう人生を送ることはついぞ叶わなかった。

フランス文学にはコキュ(寝取られ男)の伝統があって、このブログで取り上げた本だとフランソワ・ラブレー『第三の書』に出てきた。同書は16世紀半ばの小説なのでなかなか古い。で、このコキュというのが本作でも重要な位置を占めていて、デュロワは同僚のフォレスチエに対して「おまえの女房を寝取ってやる」と内心で毒づいているし、実際彼が死んでからは予告通りの結果になっている。すなわち、デュロワはフォレスチエが死んだ後、残された未亡人と結婚したというわけ。そして、これだけで終わらないのが本作の面白いところで、今度はデュロワが妻に裏切られてコキュになってしまう。でも、実はこれが出世の足掛かりになるのだ。デュロワはコキュになったおかげで正々堂々妻と離婚し、すぐさま上流階級の娘と結婚することになる。このようにコキュというマイナス要素をプラス要素に転換したのが本作の面白いところだろう。これはなかなか意外性があった。

本作は自然主義文学だけあって、19世紀パリの風俗が垣間見えるところがいい。たとえば、仲のいい男同士で腕を組んで歩くとか、記者たちが編集室でけん玉に興じているとか。こういう昔の生活を拾えるところが、古典を読む醍醐味のひとつだと思う。

郝景芳『郝景芳短篇集』(2016)

★★★

短編集。「北京 折りたたみの都市」、「弦の調べ」、「繁華を慕って」、「生死のはざま」、「山奥の療養院」、「孤独な病室」、「先延ばし症候群」の7編。

「時々、抵抗ということについてどう捉えたらいいかわからなくなる」わたしは言った。「聞こえよく自由の追求や不撓不屈と言うべきなのか、それとも幼稚で強情だと言うべきか、時々自分たちが何に抵抗しているのかわからなくなる。みなが受け入れ、運命だとあきらめているのに、どうしてわざわざしなくても良いことをする必要があるのかと思うこともある。考えれば考えるほどわからなくなる」(p.87)

第二短編集『孤独深処(孤独の底で)』から7編を収録している。

以下、各短編について。

「北京 折りたたみの都市」。本作については『折りたたみ北京』を参照のこと。賈平凹の小説を読んでいると、よく中華料理が出てきて食欲がそそられるのだけど、本作にも負けじとばかりに中華料理が出てくる。たとえば、酸辣粉(酸味と辛味のきいたスープで食べるイモの澱粉で作った麺)とか、水煮牛肉(トウガラシのスープで煮こんだ牛肉)とか、東北拉皮(澱粉で作った平麺)とか。文字を見ただけで「美味そうだ」と思うのは、同じ漢字文化圏のサガだろうか。想像力が刺激される。

「弦の調べ」。鋼鉄人の襲来から3年、彼らは古い都市や芸術に関係する場所を破壊しないようだった。「わたし」は人々のために楽団で演奏している。一方、身近では月への反攻計画が進んでいて……。僕が子供の頃、「アメリカが京都に原爆を落とさなかったのは文化遺産がたくさんあったから」という説がまことしやかに語られていた。鋼鉄人がどういう目的で文化を保護しているのかは謎である。ただ、一定のテクノロジーを持った人種ならこういうこともあり得そう。あと、本作は共振がキーワードになるのだけど、「愛情というのはまさに共振だろう」という一文がビシッと決まっていた。

「繁華を慕って」。「弦の調べ」の姉妹編。ロンドンにいる妻に寄り添った視点から語られる。この小説の何が驚いたって鋼鉄人の正体かな。そして、芸術である……。僕も芸術愛好家の端くれだから、わりと言ってることは分かるのだ。僕に力があったら、アニメと文学と相撲の王国を作るよ。わりとマジで。人間の最高の贅沢はパトロネージュだからね。相撲部屋のタニマチなんかはその典型。

「生死のはざま」。交通事故に遭った男が死後の世界へ。これを読んで、立花隆臨死体験』【Amazon】を思い出した。一旦死んで、死後の世界を見て、また帰ってきた人たちの体験談。死後の世界は脳が生み出した幻影なのか、それとももっとスピリチュアルなものなのか。本作はSFなので、そこら辺は上手く理屈が用意してある。それにしても、転生という概念には夢があるよな。僕も次はアラブの石油王に生まれたいよ。

「山奥の療養院」。妻子持ちの男は義父から家を買うよう勧められるも、ローンを払うのがきつそうで躊躇っている。そんななか、彼は療養院で旧友に会うのだった。人間が自分を認識するのってやはり他人を通してなのだなあと思った。自分一人では自分のことは分からない。コミュニケーションによって何かを気づかされる。むかし流行った「自分探し」も、結局は他者との交流のうえで達成されるのだ。まさに「書を捨てよ、町へ出よう」である。

「孤独な病室」。現在の僕はSNSを始めとしたインターネットツールを適切に使いこなしているけど、昔はこれに振り回されて精神的にきつかった。特にmixiが流行っていた頃はしんどさMAXで、「mixi疲れ」という言葉は自分のためにあるものだと思っていた。Twitterも一度黎明期に始めてすぐにやめている。本作を読んで、そういう黒歴史を思い出した。

「先延ばし症候群」。僕が仕事で使っているPCはモニターが2枚あって、片方に仕事の画面、もう片方にTweetDeckの画面を表示している。つまり、仕事をしながらちょくちょく他人のツイートをチェックしている。さらに、仕事が行き詰まってくるとYouTubeツイキャスまで見てしまう。我ながらあかんとは思うけど、しかしこうでもしないと締切仕事はやってられないのだ。というわけで、本作を読んで複雑な心境になった。

劉震雲『わたしは潘金蓮じゃない』(2012)

★★★

29歳の子持ち女性・李雪蓮が、裁判員の元を訪れ、偽装離婚していた元夫の秦玉河を訴えたいと申し出る。既に長男のいた李雪蓮は、一人っ子政策に反して2人目を産むべく秦玉河と離婚したが、秦玉河はそれをいいことに別の女性と結婚したのだった。

「俺と結婚した時、おまえは処女だったか? 新婚の晩、おまえだって人と寝たことがあると認めたじゃないか」

さらにこう言い放った。

「おまえの名は李雪蓮じゃなくて、潘金蓮じゃないのか」(p.77)

タイトルの潘金蓮については『金瓶梅』の項を参照のこと。ひとことで言えば、夫を毒殺して愛人のもとへ走った悪女である。主人公の李雪蓮は元夫から潘金蓮呼ばわりされるのだけど、彼女本人はそれは違うと否定している。

本作は権力者たちを風刺した内容になっていて、李雪蓮という一人の農村女性のために、役人たちが慌てふためく様子が可笑しい。まずは県の裁判員を振り出しに、県の裁判所長、県長、市長、省長と訴訟を持っていく場所がエスカレートし、遂には全人代が行われている北京に乗り込む。ゴマがスイカに、アリがゾウに、ローカルな揉め事が大きくなるという次第。そして、北京で色々あって指導者による驚きの決定が下されるのだけど、それにしても、みんなが保身に汲々として、下々を愚民呼ばわりして見下しているのは、王朝時代から続く典型的な中国の役人という感じだった。この辺は日本とはだいぶ違う。日本の公務員って親方日の丸のサラリーマンだけど、中国の場合はもう少し前時代的な権力者みたいで、どちらかというと政治家に近い。いずれにせよ、こういう役人たちがとにかく困り果てるのだから、中国の読者は胸がすっとすることだろう。これは偏見だけど、中国の庶民って普段から役人に抑圧されてそうだし。

偏見と言えば、意外にも中国は人治ではなく法治の国のようで、李雪蓮を力づくで抑え込むことができないのに驚いた。やることと言ったら、せいぜい全人代の時期に家の外に見張りを立てることくらい。ノーベル平和賞劉暁波とは違って、何かの罪を着せられて投獄されるようなことはなかった。正直、中国って危険分子を予防拘禁するくらいのことは平気でするものだと思ってたよ。日本の転び公妨みたいなのもなかったし。どうも僕には中国で「悪」とされる基準がよく分からない。たとえば、最近ではBL作家が懲役10年の刑を言い渡されていたけれど、これなんかはまったく理解の範囲外である。同性愛を創作で表現することの何が悪いのか? 政権を脅かすようなことなのだろうか? こういうことがあるから安心して中国旅行ができないのだ。何が原因で逮捕されるか分からないから。近くて遠い国、それが中国だと僕は思っている。

なお、話の発端になった一人っ子政策については『蛙鳴』の項を参照のこと。これもなかなかきつい政策のようである。