海外文学読書録

書評と感想

フェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』(2011)

★★★

2001年5月。元自動車組立工のイタリア人コリーニが、大金持ちの老人ハンス・マイヤーを射殺した。新人弁護士のカスパー・ライネンが彼の弁護を担当するも、コリーニは頑なに供述を拒んでいる。一方、被害者のマイヤーはライネンと親交のある人物だった。ライネンは公私の事情に悩みながら、法廷でベテラン弁護士のマッティンガーと対決する。

ライネンはコリーニのほうを向いた。コリーニはうなだれて、両手をだらりと膝にのせ、大きな体で泣いていた。

マッティンガーはわずか二時間で、コリーニの父をもう一度殺したのだ。

「まだ終わってはいない」ライネンはいった。

コリーニは反応しなかった。(p.168)

戦時中のナチスの悪行と、そこから派生した戦後ドイツの暗黒面をえぐっている。日本でも戦犯が戦後の政財界を牛耳っていたけれど、ドイツでも局地的に似たような出来事があったみたい。元親衛隊でパルチザン殺害の命令を下していた人物が、戦後は大金持ちになっているし、また別の戦犯は、政治の世界に入り込んで自分たちに都合のいい法改正をしている。法治国家においては法律がすべてという建前があるから、勝手にこういうことをされるときつい。本作はナチス絡みの殺人を巡って法廷劇が展開されるけれど、途中から「法を信じるか」「社会を信じるか」という対立軸ができて、どう決着がつくのだろうと興味をそそられた。

それにしても、戦後ドイツのナチスに対する向き合い方は徹底していて、ナチス=絶対悪と規定しているのはすごい。正直なところ、日本人の僕からしたら行きすぎでないかと思う部分もある。たとえば、往来でナチス式敬礼をしただけで逮捕される法律。表現の自由を捨ててまで、ナチス=絶対悪という価値観を貫いている。僕が子供の頃、日本では架空戦記というジャンルの小説が流行っていた。僕が読んだ作品は、旧日本軍が連合国軍相手に破竹の勢いで勝利するというものだった。これは推測だけど、ドイツにこういうジャンルの小説って存在しないのではないか。ナチスが破竹の勢いで連合国軍に勝利する小説。ハイル・ヒトラー! ユダヤ人は消毒だー! みたいな。そういえば、アメリカには『高い城の男』【Amazon】というSF小説があって、あれは枢軸国が勝利した後の架空の世界線を描いたものだった。この小説はドイツだとどういう扱いになっているのだろう? ナチスによる支配はありなのだろうか? 僕はドイツのことをあまりにも知らなすぎる。

本作はラストがあっけなくて不満だった。どうせなら白黒はっきりつけてほしかった。あと、法廷劇を扱っているわりにはアメリカのリーガル・サスペンスみたいな手に汗握る要素がなく、社会派に偏っているのも物足りない。でもまあ、これが著者の味と言われればその通りと頷くしかないのだ。コテコテではなく、あっさりとした味つけ。本作はあまりエンタメエンタメしてないところがいいのかもしれない。

メンヘラの世界~精神障害者を知るための25冊+1~

メンヘラとは、狭義では精神障害者、広義では精神が不安定な困ったちゃんの意味があります。 約20年前に2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)で誕生したネットスラングで、今ではそこかしこでカジュアルに使われています。以下に紹介する南条あやの登場によって、メンヘラはサブカルチャーのひとつになりました。

本稿ではそんなメンヘラを理解するための参考文献を紹介します。皆様のお役に立てれば幸いです。

なお、文末につけた推奨度は星5が最大です。特に星4と星5はお勧め本なので、興味がある人は是非読んでください。損はさせません。

 

1999年3月30日に18歳で自殺した南条あやの日記です。日記はWebに掲載されたもので実際はもっと長いのですが、本書は分量の都合上、1998年5月28日、及び同年12月1日から1999年3月17日までを収録しています。

南条あやはメンヘラとは思えない天真爛漫な文章で人気を博し、当時はネットアイドル扱いされていました。彼女は鬱病で、リストカッターで、処方薬のODをしていますが、日記ではそれらをあっけらかんとした調子で書いてます。苦しみを笑いに変える彼女の芸風は、後にTwitterで流行するメンヘラ芸に通じるものがあると言えるでしょう。この頃の南条は、リストカットの代わりに献血に通って血を抜いており、慢性的な貧血に陥ってました。そのうえ、違法に手に入れたデパスやモダフィニルをスニッフしたり、友人と薬物パーティーを開いたり、その無軌道な生活は現代のメンヘラと変わりません。メンヘラのプロトタイプと言えるでしょう。

南条あやは日記を公開してから1年も経たずに自殺しました。精神科への通院歴も1年に満たないです。僕は昔、Webに公開された彼女の日記をすべて読みましたが、本書には一番面白い部分が欠けています。特に入院中の日記はもっと読まれてもいい。完全版の出版が待ち望まれます。 

なお、南条あや亡き後、メンヘラとして有名になったのがメンヘラ神です。メンヘラ神は2013年に飛び降り自殺しました。彼女がなぜ有名になったかというと、当時付き合っていた彼氏が自殺教唆で逮捕され、ニュースになったからです。これによってメンヘラが再び脚光を浴びました。メンヘラ神がTwitterで行ったメンヘラ芸も、現在では伝説として語り継がれています。

林直樹『リストカット』【Amazon】に自傷行為の事例として南条あやを取り上げた章があります。彼女の生い立ちが手際よくまとまっているので、興味がある人は読んでみるといいでしょう。

推奨度:★★★★★

 

綺麗なものたくさん見られた。しあわせ。
そろそろこの世界をはなれよう。

2003年4月26日に飛び降り自殺した女性編集者のWeb日記です(享年26歳)。本書は2001年6月23日から2003年4月26日まで、すなわち自殺直前までの日記が収録されています。

二階堂奥歯は物語、とりわけ幻想文学に耽溺しており、 今まで生きてきた日数以上の本を読んでいたようです。これはただの本好きと呼ぶには半端じゃない量で、1日1冊で計算しても、20代半ばで1万冊近くに達しています。確かに日記を読むと短いペースでたくさんの本に触れていますし、また引用もかなり充実していて、相当な蓄積があるのだろうと思われます。さらに、彼女は哲学も勉強していました。幻想文学も哲学も病んでる人がはまるジャンルです。

日記は当初、コスメやファッションの話題が多くて健康的だったのですが、中盤から書物の引用が増えて内面世界に入り込んでいきます。一度は浮上していつもの調子に戻ったものの、2003年3月23日に自殺の意思を示してとうとう引き返せない場所まで行く。ただ、彼女はもともとそういう素質があったようで、1996年(19歳)の段階で父親から自殺すると思われていました。

無情にも、人間というコンテンツは死ぬことで完成される。そのことを証明したのが二階堂奥歯でした。彼女本人はメンヘラの定義に当てはまるか微妙ですが、この日記はメンヘラが読んで共感する要素が多分にあります。というのも、本書は繊細にして思索的な内容なのです。自分が生きているこの世界、否応もなく立ちはだかるこの世界に違和感がある人は読んでみるといいでしょう。

推奨度:★★★★★

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チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(2016)

★★★★

2015年秋。33歳のキム・ジヨンは3年前に結婚し、昨年、女の子を出産していた。夫は3歳年上で中堅のIT企業に勤めている。キム・ジヨンは1人で子育てをしていたが、あるとき、解離性障害のような症状が現れる。物語はキム・ジヨンの生い立ちから現在までを追うのだった。

「あのコーヒー、一五〇〇ウォンだよ。あの人たちも同じコーヒー飲んでたんだから、いくらだか知ってるはずよ。私は一五〇〇ウォンのコーヒー一杯も飲む資格がないの? ううん、一五〇〇ウォンじゃなくたって、一五〇〇万ウォンだって同じだよね、私の夫が稼いだお金で私が何を買おうと、そんなのうちの問題でしょ。私があなたのお金を盗んだわけでもないのに。死ぬほど痛い思いをして赤ちゃんを産んで、私の生活も、仕事も、夢も捨てて、自分の人生や私自身のことはほったらかして子どもを育ててるのに、虫だって。害虫なんだって。私、どうすればいい?」(p.159)

女性として生きるのはすごく大変なのだなあ、というのが率直な感想。韓国って女性の大統領が選出されるくらいだから、日本よりも男女平等が進んでいるのかと思っていたけれど、本作を読む限りそうではないみたい。日本とそんなに変わらないか、あるいはそれ以下かも(男性の僕にはよく分からない)。特にキム・ジヨンの母親世代の話が強烈で、子供の頃はお金を稼いで兄たちを学校に行かせなければならなかった、そして、母親になってからはお金を稼いで子供たちを学校に行かせなければならなかったとあって、こんな自己犠牲を払って生きるのはしんどすぎると思った。

キム・ジヨンの代になっても生きづらさはつきまとっていて、母親世代ほどではないにしても、相変わらず女性というだけで自己犠牲を強いられている。特にキャリア志向の女性にとっては、進学やら就職やら出産やらといった人生の節目で、そういう理不尽に直面するようだ。それと、男性が女性の気持ちを踏みにじる場面がちょくちょくあって、読んでいて身につまされるところがあった。僕もけっこう無神経な性格をしているので、これからは気をつけようと思う。

ところで、僕は仕事をするのが嫌で嫌で仕方がなくて、専業主夫になりたいという願望を強く持っている。すべてのキャリアを投げ捨てて、本を読んだりアニメを見たり、家で好き勝手して暮らしたいと思っている。だから専業主婦を羨望の眼差しで見ているし、その境遇に嫉妬さえしている。現状、男性が女性に養ってもらうのは反社会的だとされているからね。しかも、今の日本は人手不足だから、政府は猫も杓子も働かせようと躍起になっている。そういう状況のなか渋々仕事をしているので、ひょっとしたら嫉妬に根ざした無意識のミソジニーが自分のなかにあるかもしれない。普段は表には出さないけれども、何かのきっかけでそれが態度に出ているかもしれない。しかし、女性は女性で生きづらさを抱えている。その事実は頑然としてあるわけで、自分の贅沢な悩みを他人にぶつけるのは絶対にしまいと思った。

本作は年代記っぽい構成のせいか、その時々の韓国の世情が分かりやすい形で反映されている。だから、韓国について知りたいのだったら必読だろう。個人的には、90年代にあったIMF危機のくだりが興味深かった。

エレナ・フェッランテ『リラとわたし』(2012)

★★★

1950年代のナポリ。貧困地域に住むリラとエレナは小学1年生のときに出会い、行動を共にするようになる。リラは暴力的な性格ではあるものの、学校の成績は抜群によかった。一方、エレナも勉強はできるものの、二番手に甘んじている。エレナは中学に進学する予定だったが、リラは家庭の事情でそれも叶わないようだった。

裕福になること、それは小学校最後の一年を通じてわたしとリラが熱中し続けた話題だった。ふたりは童話の宝探しの話でもするように、お金持ちになったらあれがしたい、これもしたいと言いあった。あたかも裕福になるための財産は地区のどこかに隠されていて、たとえば、蓋を開ければ金貨が輝く宝箱でも見つけさえすればいいといった調子だった。そのうちなぜかわたしたちは発想を変え、勉強とお金を結びつけて考えるようになった。たくさん勉強すれば、いつか本が書けるようになり、その本が売れてお金持ちになれるという理屈だ。裕福さとは無数の宝箱に入った金貨の輝きであるという考え自体は変わらなかったが、そこに到達するための方法が、勉強をして本を一冊書くだけでいい、に変わったのだ。(pp.78-79)

現代の作家が書いているせいか、あるいは2010年から回想する形式のせいか、50年代のイタリアという感じがしなかった。『自転車泥棒』【Amazon】や『揺れる大地』【Amazon】といった昔のイタリア映画(ネオレアリズモ)で滲み出ていたような不景気感がなく、ほどよく洗練されている。確かに貧しい人たちを描いているのだが、言うほど迫真性がないのだ。まがりなりにも本作は世界的ベストセラーだから、すらすらと読めるようにはなっている。でも、そのぶん自然主義文学で表現されているような「重さ」を削っているため、それが迫真性の欠如に繋がっている。もちろん、これは著者も分かっていて、あくまで大衆向けに割り切って書いているのだろう。リーダビリティ重視の文芸作品として。そういう大人の事情は理解できるにしても、自分が求めていたのとは何か違うなと思った。

貧困地域が舞台だけあって、みんな暴力的なのが印象的だった。殴ったり蹴ったりするのは当たり前。あまつさえ地元の住人が殺人の被害者になっている。思春期の章で描かれるDQNたちの人間模様は、たとえば『太陽の季節』【Amazon】みたいな時代の証言としての価値があるかもしれない。みんなラテン気質が旺盛で、ちょっとでも名誉を汚されたと思ったら暴力で過剰に報復している。こういうのをマチズモと呼ぶのだろう。ラテン系が崇める男らしさ。ただ、血の気が多いのが男だけと思ったら大間違いで、少女であるリラも相手の首筋にナイフを突きつけるようなすごみがある。ぬるま湯で育った僕にはなかなか刺激的だった。

本作にどことなく興味を覚えてしまうのは、プロローグで老婆になったエレナが現在のリラ、不可解な行動をとっているリラに言及しているからだ。ここに至るまでにどういう物語があったのか、2人はどういう子供時代を過ごし、どういう大人になり、どういう関わり合いをしてきたのか。人生という長大な時間を覗き見したいという欲求があるから読んだのだ。第1巻の本作では思春期までを扱っていて、リラとエレナ、少女同士の交流が新鮮に映る。というのも、僕は身も心も男性であり、どうあがいても女性の人生を体験することができないから。年頃の少女が何を考えているかなんて想像もつかない。彼女たちは僕にとって圧倒的他者なのである。自分と違う生き物に対して好奇心が湧くのも当然で、そういう意味で本作は個人的な欲求を満たしてくれる。本作終了時点で16歳になったリラとエレナ。2人はこれからどういう人生を歩むのだろう? 気が向いたら続編も読むかもしれない。

ドン・デリーロ『天使エスメラルダ』(2011)

★★★

短編集。「天地創造」、「第三次世界大戦における人間的瞬間」、「ランナー」、「象牙のアクロバット」、「天使エスメラルダ」、「バーダー=マインホフ」、「ドストエフスキーの深夜」、「槌と鎌」、「痩骨の人」の9編。

戦争は、と彼は言う。戦争は、宇宙に生命体が満ちあふれているという考え方に終止符を打つだろう。これまで多くの宇宙飛行士たちが、星々の彼方に目を向け、無限の可能性を思い描いてきた。高等生物でひしめきあう、葡萄の房のように寄り集まったいくつもの世界を夢見てきた。だがそれは戦争前のことだ。我々の見解、彼と私の見解は、いまこの瞬間、天空を漂うさなかにも変わりつつあるのだ、そう彼は言う。(p.59)

本書は冷戦期からポスト9.11まで、幅広い年代の短編を収録している。なので、いつ書かれたものかを意識して読むと面白いかもしれない。

以下、各短編について。

天地創造」(1979)

カリブ海の島から飛行機で帰ろうとした「僕」とジル。ところが、2人の搭乗はキャンセルされてしまった。やがて彼らはドイツ人女性のクリスタと知り合う。ホテルで過ごした後、予約リストの都合でジルだけ飛行機に乗る。「僕」とクリスタは現地で待機することに。

カフカ的状況を現代で作るとしたら、こういう第三世界が舞台になるのだろうか。たとえば、『エペペ』も先進国の枠組みから外れた架空の異国を舞台にしていた。日本に住んでいると公共交通機関は時間通りというのがデフォルトだから、仮に僕がこの状況に置かれたら、作中人物よりももっと混乱しただろう。未知なる世界というか、未開の地域というか、とにかくそういうマージナルな国の未発達な部分が不条理を誘う。

第三次世界大戦における人間的瞬間」(1983)

エンジニアのヴァルマーが宇宙船から地球の情報収集をしている。地球では戦争をしていた。ところが、テクノロジーの発展によって、人類は戦争に対してかつてのような熱狂を感じていない。

本作は冷戦期に書かれているけど、未来では戦争に核兵器は使われないと予見していて、これは慧眼じゃないかと思った。現代の戦争はまず無人航空機で爆撃して、必要なら地上に兵員を派遣して制圧する。そういう戦争をアメリカは行っている。無人航空機に人間的瞬間はない。遠隔地からゲーム感覚でミサイル発射の操作をしている。攻撃する側の安全を確保することが、結果的に戦争から人間的瞬間を奪っているというわけ。これが良いことなのか、悪いことなのか、あいにく僕には分からない。

「ランナー」(1988)

公園を走っている若い男。突然、車が芝生に乗り上げ、男が子供を拉致した。目撃者の女性によると、犯人は離婚後の父親で、親権絡みで犯行に及んだという。しかし、それはあくまで推測にすぎなかった。

我々は何か事件が起きると、構成要素を分析して物語を作り出す。人間というのは好奇心の抑えられない生き物で、その能力に特化した者が作家になるのだろう。日本でワイドショーが一定の視聴者数を抱えているのも、本作を読めば納得できる。

象牙のアクロバット」(1988)

ギリシャで大地震に遭遇する。

小説にしても映画にしても、フィクションで地震が出てくると東日本大震災を思い出して冷静ではいられなくなる。僕の人生のなかで唯一命の危険を感じた災害だったから。あれのおかげでもう海には近づけなくなった。それはさておき、こういう災害で重要なのは公的機関が正確な情報を素早く提供することで、そうしないとデマがはびこってしまう。それは世界中に当てはまる社会の本質みたいだ。

「天使エスメラルダ」(1994)

修道女のシスター・エドガーが、治安の悪い地域で12歳の少女エスメラルダを探す。ところが、エスメラルダは強姦された後に殺害されていた。

本作を読んで、信仰には奇跡が必要だということが分かった。それは超常現象でもいいし、運命的な出来事でもいい。ただ、今は時代が時代だから、前者に遭遇することはまずない。奇跡には何らかの理屈が伴う。我々は暗黒の中世には住んでないのだ。広告看板に顔が投影されるところが、物質文明における奇跡を如実に表わしている。

「バーダー=マインホフ」(2002)

美術館で出会った男女。2人はテロリストの死を題材にした絵画を鑑賞する。

我々日本人はアメリカの奴隷なので、テロリスト=悪という観念を刷り込まれている。マスメディアによって刷り込まれている。それを信じることで経済的なおこぼれに与っているのだ。今回題材になっているのはドイツ赤軍だけれども、理想の社会を作るために一般人を殺すのは許し難い一方、しかしそれを超越した視点で物事を見るのも大切かもしれないと思った。なかなか難しいけど。

ドストエフスキーの深夜」(2009)

2人の男子大学生が、歳をとったフードの男を見かける。そして、彼についてあれこれ物語をでっちあげる。

こういう遊びは楽しいよね。言われている本人が聞いたら気を悪くしそうだけど。そして、見知らぬ他人にここまで関心を持つのは、生活に余裕のある大学生ならではのもので、要は暇を持て余した神々の遊びである。そして、現代人はこれをインターネットで行っているのだ。主にSNSや匿名掲示板で。

「槌と鎌」(2010)

経済犯罪者ばかりが集められた収容所での生活。

ホリエモンは刑務所に入って健康になったそうだけど、ここの囚人たちも似たような感じだろうか。刑務所ではなくキャンプ。作中にはドバイやギリシャに関する会話が挿入されていて、我々の生活にはいつも経済がつきまとってくる、死ぬまで金勘定からは逃れられないのだと思い知らされる。一時期日本でベーシックインカムが話題になってたけど、実は大多数の日本人は資本主義にうんざりしてるのではないか。

「痩骨の人」(2011)

離婚した後も同居している男女。女はエクササイズに血道を上げ、男は映画館に通いつめる。

エクササイズも映画も極めてアメリカ的な文化だと思う。むかし日本に『ビリーズブートキャンプ』【Amazon】が入ってきて一大ブームになった。映画に関しても、ハリウッド映画が世界を席巻している。どちらも資本主義的な文化と言ってよく、アメリカ文化を理解することは資本主義を理解することに繋がる。