海外文学読書録

書評と感想

イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』(1979)

★★★★

男性読者の「あなた」が本屋で買ってきた『冬の夜ひとりの旅人が』を読んでみると、製本にミスのある乱丁本だった。翌日、本を取り替えてもらいに本屋へ行った彼は、そこで女性読者ルドミッラと出会う。

「今私がいちばん読みたい小説は」とルドミッラが説明する、「物語ろうとする欲求のみが、ストーリーにストーリーを積み重ねようとする欲求のみが原動力になっているような作品なの、世界のヴィジョンを示そうとする意図なんかなく、ただ、植物が成長し、枝や葉が繁茂していくように、作品が成長していくのに立ち合うことができるような小説なのよ……」

ちくま文庫で読んだ。引用もそこから。

本作は男性読者の物語と彼が読む作中作が交互に展開されるのだけど、その構成が力技というか技巧的というか、とにかくやたらと複雑で面白かった。作中作は全部で10章ぶん存在し、そのすべてが異なる作品の冒頭部分になっている。男性読者は一つの作品を最後まで読みきれず、仕方なしに別の作品に次々と移っていくというわけ。問題はなぜ最後まで読みきれないのかなのだけど、その事情がとても入り組んでいて、異なる作中作を読ませるためにそこまでやるかという感じで苦笑した。

作品全体としては「めくるめく読書の冒険」という表現がぴったりで、なかには読書という行為そのものについて考えさせる部分もあった。

たとえば、私心のない読書。その本を利用して何かを書こうとするとき、読書はどうしても不純なものになる。本を参考にして本を書く作家、本を売るためにPRする出版社の社員、本の紹介文を書いて小銭を稼ぐ書評家。そういう人たちは私心のない読書ができないのではないか。その本を利用しようと思っている時点で、一般読者が享受している読書の快楽から遠ざかってしまう。食うために本を読む人間は不幸だ。本作を読んでそのようなことを考えたのだった。

また、本作には次のようなエピソードがある。多作型の作家と難渋型の作家が、1人の女性に自分の書いた本を読んでもらいたいと思っている。2人の作家が原稿を執筆して女性に渡すと、どちらの原稿もまったく同じ内容だった。多作型の作家は難渋型の作家を見習って書き、難渋型の作家は多作型の作家を見習って書いたからそうなったという。この部分を読んでボルヘスを思い出した。

本作は小説好きのツボを押さえた小説で面白かった。

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(1994)

★★★

私立探偵ニック・ビレーンのもとに、「死の貴婦人」を名乗る女がやってくる。彼女は死んだはずの作家セリーヌを探してほしいという。その後、知人から赤い雀を探すよう依頼され、さらに嫁の浮気調査、果ては宇宙人を追い払う仕事など、次々と依頼が舞い込んでくる。

「あんた、ポン引きか?」

「いえいえ、違いますよ」

「ドラッグの売人?」

「いいえ」

「売人だったら助かるんだが。ちょっとコカインが欲しいんだ」

「私、聖書のセールスマンでして」

「そりゃひでえ!」

「神の言葉を広めようとしてるだけです」

「俺のまわりでそんなクソ広めるなよな」(p.198)

かつて私立探偵小説がパルプ・マガジンと呼ばれる安手の雑誌に掲載されていたことは、ハメットやチャンドラーの読者なら周知の事実だろう。けれども、ここまで真っ向からそのパロディをぶつけてきたのにはまったく驚いてしまった。死神や宇宙人が出てくるところはくだらなくて笑えるし、作品全体を漂うガサツにして粗雑な雰囲気がすごく「パルプ」っぽい。こんなにペーパーバックが似合う激安小説なんて他にあるだろうか? 日本だと筒井康隆が書きそうな小説で、内容のバカバカしさや会話に漏れ出るユーモアなどついニヤけてしまう。ミステリプロパーの読者は、本作をミステリの枠内に囲って「奇書」として崇め奉るべきだ。何でもかんでもSFにくくってしまうSF者を見習って。それくらい画期的でぶっ飛んだ小説である。

本作のざらざらした安っぽさ(もちろん、いい意味で!)は翻訳によるところが大きく、これが柴田元幸最高の訳業と評されるのもよく分かる。僕もその評価には同意だ。文章がポール・オースターの訳者と同一とは思えないほどくだけていて素晴らしい。本作はハメットやチャンドラーが好きな人にお勧めである。

閻連科『炸裂志』(2013)

★★★★

炸裂市発展の記録。炸裂村では孔家と朱家が二大派閥を形成していた。あるとき、村民たちはお告げに従い、外に出て人生の運命になるものと出会う。孔家の次男・明亮は皇帝になる運命を得た。やがて財を為した孔明亮は村長になり、前村長の朱慶方を非業の死においやる。朱慶方の娘・朱頴は復讐を誓うのだった。

「くそったれのこの改革開放のご時世、どんな金であろうと稼げばいいのだ。金があってこその旦那さまであり、奥さまであり、金があれば鎮長も県長も言うことを聞く。金のない鎮長、県長など、俺たちの言うことを何だって聞かねばならん孫であり、ひ孫なのだと思えばいい」(p.121)

人口数百人の炸裂村が、村から鎮へ、鎮から県へ、県から市へ、そして市から直轄市へと発展していく。その大きくなっていく過程がまさに中国といった感じで、最初は盗みで財をなして万元戸を増やしていく。その後は金と女が権力を動かすといった体で、通常だったら腐敗と呼べそうな状況なところ、本作ではそんな雰囲気を微塵も感じさせず、猛烈に村が発展していく。この部分で面白かったのは、孔明亮と朱頴で争った村長選挙。どうやら中国では末端レベルだと選挙があるようで、孔明亮が自分に投票するよう村人たちに贈り物をしているのに対し、朱頴が現金を堂々とばら撒いているのには笑ってしまった。こりゃ中国で民主化は不可能だと思ったね。

閻連科本人は「神実主義」と呼んでいるけど、ともあれ、マジックリアリズムっぽい描写も本作の特徴で目を惹く。朱慶方が村人たちから痰を吐きかけられてそれに溺れて死ぬとか、孔明亮が時計の異変を見て父親の死を察知するとか、さらに孔明亮が「ビルを建てるぞ」と宣言しただけで大地からビル生えてくる(権力さえあれば何でもできる!)とか、こういう荒唐無稽なエピソードに違和感がないところが中国の懐の深さなんだなと思う。

この小説のMVPは、何と言っても女傑の朱頴だろう。売春で財をなした朱頴は、金と女を用いて存在感を増していく。彼女は運命の男である孔明亮と結婚するのだけど、要所要所で孔家に仇をなしていくところが面白い。たとえば、配下の女を使って孔明亮の父親を腹上死させたのには唖然としたし、また、炸裂市が直轄市になるというときに有力者へ女をばら撒いて邪魔をするのも可笑しかった。全体的にこの小説に出てくる男って、みんな女に翻弄されている。世の中、金と女がすべてといった感じだろうか。

この小説は紛れもなく現代の中国を舞台にしていて、クリントンやらオバマやらメルケルやらといった外国の要人の名前も出てくるのだけど、その反面、「共産党」や「人民解放軍」といった危険なワードが出てこないところに中国の闇を感じた。もし出していたら発禁になっていたのだろうか? まあ、そういう制約が文学を面白くする面もあるから別にいいのだけど。

ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』(2009)

★★★

16世紀。イングランドヘンリー8世は王妃と離婚したがっていた。下層階級出身のトマス・クロムウェルは、出世してウルジー枢機卿に仕えるも、枢機卿は王の離婚問題で下手を打って失脚してしまう。その後、クロムウェルは王の側近になるのだった。

人は独創的であることでは成功しない。聡明であることでは成功しない。強いことでは成功しない。狡猾な詐欺師であることで成功するのだ。(上 p.99)

ブッカー賞、全米批評家協会賞受賞作。

『ハドリアヌス帝の回想』『この私、クラウディウス』のような格調の高さには欠けるものの、そのぶん平易な言葉遣いで訳されていて読みやすかった。トマス・クロムウェルという日本人には馴染みの薄い人物が主人公なのに、時代の空気感に惹かれてついページをめくってしまう。しかも、『ユートピア』【Amazon】を書いたトマス・モアが当時の花形的存在として登場して、2人の人生が密接に関わるところには感動してしまった。トマス・モアがこんな非業な最後を遂げていたとは知らなかったよ。

本作はこれまで悪玉として描かれがちだったトマス・クロムウェルに違った光を当てたところが評価されているようだ。しかし、個人的にはあまりそういう部分に興味がなく、どちらかというと作品世界を支配するキリスト教の存在が気になった。

というのも、本作の舞台は現代人から見るとディストピアそのものなのだ。ローマ教皇の許可がないと離婚できないというのが物語の大きな柱になっていて、それを改革して国王に宗教的権力を持たせたのがトマス・クロムウェルの果たした役割。その過程でキリスト教の異端者が焚刑に処されたり、宗教改革に反対した人物が処刑されたり、キリスト教という虚構を巡って多数の死者が出ている。これがもう異常極まりなくて、「宗教なんかなければいいのに」と心の中で何度も唱えてしまった。みながみな神というありもしない虚像を信じている。人間とは何てくだらないルールに縛られているのだろう。野蛮な中世とはこのことかと思った。

とりあえず、本作は日本人が読んで欧米人と同じ感覚で面白がれるかは疑問である。西洋の文化的コンテクストを身体レベルで共有していないと駄目なのではないか。正直、これがなぜブッカー賞を受賞したのかよく分からなかった。歴史ものならもっといい小説がたくさんあるだろう*1。『ハドリアヌス帝の回想』や『この私、クラウディウス』に比べるとどうにも安っぽい。

*1:2018/08/19追記。というようなことを書いたが、続編の『罪人を召し出せ』はとても面白かった。こちらもブッカー賞を受賞している。

コーマック・マッカーシー『悪の法則』(2013)

★★★

麻薬取引をしようとしていた弁護士だったが、予期せぬ不運から計画が頓挫し、それを自分のせいにされて組織から命を狙われることになる。

ウェストレイ イエスがなんでメキシコで生まれなかったか知ってるかい。

弁護士 いや、なぜだ。

ウェストレイ 三人の賢者も処女もいないからさ。(p.61)

映画脚本。

ト書きと会話文しかないので、この著者特有の神話的で乾いた文体は封じられていたものの、凄惨な暴力の向こう側に信仰や女を配置するところや、いくぶんの不穏さを滲ませる会話などが著者らしくて面白かった。映画脚本になっても、アメリカ南部とメキシコの危険さがひしひしと伝わってくる。

本作を読んで、我々はなぜ犯罪小説を読んだり犯罪映画を観たりするのだろう? という疑問を呼び起こされた。無事に計画が成功して大団円という犯罪ものも中にはあるけれど、だいたいは失敗して身の破滅を招くような筋書きである。特にこの著者の場合は過度な暴力が出てくるから、読んでいてダメージが大きい。にもかかわらず、怖いもの見たさからか、つい手にとって読んでしまう。登場人物が失敗する様子が見たい。破滅する様子が見たい。我々はそこに快楽を見出しているわけで、人間とは何て不思議な生き物なのだと思う。

ところで、ボリードの針金の環を使った暗殺って実際にあるのだろうか。本作によると、この環を相手の首に引っ掛けて引き締めると、相手は頸動脈から血を吹き出し、首がもげて絶命するという。著者はどこでこの殺害方法を仕入れたのか気になった。