マルグリット・ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』(1951)

ハドリアヌス帝の回想

ハドリアヌス帝の回想

 

★★★★★

臨終間際のローマ皇帝ハドリアヌスが、後継者のマルクス・アウレリウスに宛てた回想録。帝国全土の旅、愛人アンティノウスの死、ユダヤ人政策の失敗、後継者ルキウスの死など。

世界じゅうのあらゆる哲学者の力をもってしても奴隷制度廃止に成功するかどうか疑わしい。たかだかその呼び名を変えるくらいのことであろう。わたしたちはわれわれの奴隷制よりももっと狡猾で目立たぬゆえにもっと悪質な奴隷制の形態を想像することができる。たとえば、自分が仕事に縛りつけられているのに自由だと信じている白痴的に満足した機械に人間を変えることとか、人間的な閑暇や娯楽をとりのぞいて、人間の内に、蛮族が戦いに対していだく情熱のようにがむしゃらな労働への嗜欲を助長することなど。この精神の隷属、あるいは人間的想像力の隷属よりは、事実上の奴隷制のほうがましである。(127-8)

ハドリアヌス帝については『ローマ人の物語』【Amazon】でしか知らなかったけど、ここまで歴史的人物の内面に肉薄した書物も珍しいのではないかと思う。一人の人間を眼前に浮かび上がらせようとするそのストイックな叙述に圧倒されてしまった。

「小説」と書かずに「書物」と書いたのは、これがとてもリアルで本物の回想録のようだからである。本作は徹底した一人称で会話文などは一つもなく、自分の人生を他人に語り聞かせるような体裁になっている。特筆すべきはその内面描写で、出来事に関する論評や思索など、まるでそこに本物の人間が実在するかのような息遣いに溢れている。その精度は、ハドリアヌス帝が実際に回想録を書いたら、これと同じになるのではないか? と思わせるほど。小説によくある作りもの臭さがまったく感じられないというか、ちょっと普通の歴史小説とは毛色が違っていて、ここまで突き詰めて回想録をでっちあげてみせた技量にただただ感服するのみである。

多田智満子による硬質な翻訳も、教養豊かな皇帝の語りとマッチしていてとても素晴らしかった。