海外文学読書録

書評と感想

イアン・マキューアン『未成年』(2014)

★★★

裁判官のフィオーナは59歳。彼女は夫から若い女と浮気したいと持ちかけられる。それを拒むフィオーナのもとに、病院からある緊急申請が舞い込んできた。それはエホバの証人を信奉する少年が輸血を拒否しているため、その意志を曲げて輸血する審判をしてほしいという。少年は白血病で、早く輸血しないと死んでしまう。

「あなたはいつエホバの証人が輸血の拒否を命じられたか知っていますか?」

「それは創世記に書かれています。天地創造のときからです」

「それは一九四五年からなんですよ。ミスター・ヘンリ。それまでは完全に受けいれられていたんです。現代では、ブルックリンにある委員会が息子さんの運命を決定してしまっています。そういう状況にあなたは満足しているんですか?」(p.87)

てっきり倫理と宗教の狭間に揺れる裁判官の苦悩を描くのかと思ってたら、話は全然違う道筋を辿っていった。そりゃそうだよなあ。答えは分かりきっているもの。日本でもエホバの証人の輸血拒否が話題になったことがあるけど、こういうのって世界レベルで存在することに今更ながら驚いた。イギリスの場合、成年だと本人の意思が尊重されるのに対し、未成年の場合は裁判官が輸血の有無を決めることができる。さらにイギリスでは18歳からが成年で、本作の少年はそこに3ヶ月だけ足りない。かくして裁判官のフィオーナは、少年のために重大な決断をすることになる。

この小説の本番はその後にあるのだけど、ちょっとどこまで書いていいのか分からない。とりあえず、仕事の問題を通じてプライベートな問題が……という感じで、すごく綺麗な終わり方をしていた。イアン・マキューアンはいつからこんな折り目正しい作風になったのだろう? 昔の弾けぶりを知っているだけに感慨深くなった。まあ、シャム双生児のエピソードや少年の末路に、少しだけ名残りを感じるけど。

ところで、Wikipediaを見たらイアン・マキューアンのキャリアは意外と長く、1975年に最初の本(『最初の恋、最後の儀式』【Amazon】)を出していた。日本で翻訳出版が始まったのが1992年からなので、相当なギャップがある。僕が読んだのもゼロ年代に入ってからだ。最近の新しい作家だと思っていたら全然違っていた。外国文学にはこういうことがたまにある。これが翻訳の壁、世界と日本の壁なのだった。

ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』(1979)

★★★★★

(1) いじめられっ子のバスチアンが、古本屋から1冊の本を盗み出す。それは『はてしない物語』という本だった。(2) はてしない物語ファンタージエン国では国中に虚無が広がり、さらに幼ごころの君が死にかけていた。少年アトレーユが探索の旅に出る。

バスチアンは、最も偉大なものとか、最も強いものとか、最も賢いものでありたいとは、もはや思わなかった。そういうことは、すべてもう卒業していた。今は、愛されたかった。しかも、善悪、美醜、賢愚、そんなものとは関係なく、自分の欠点のすべてをひっくるめて――というより、むしろ、その欠点ゆえにこそ、あるがままに愛されたかった。(p.518)

バスチアンが「はてしない物語」の世界に入って救世主になる。言ってみれば、『ナルニア国物語』【Amazon】やなろう系ファンタジーのような異世界転移ものである。しかし、これがまた捻った物語で面白かった。当初は俺TUEEE系のご機嫌なファンタジーかと思いきや、途中からにわかに雲行きが怪しくなり、王道ファンタジーの展開をぶち壊しながらも、最後は愛をめぐる感動的な大団円を迎える。こういう読者の価値観を揺さぶってくるファンタジーって、自分のなかでは『ゲド戦記』【Amazon】が筆頭にあったけれど、本作を読んでその順位が一気に書き換えられた。これは本当にすごい小説である。

英雄になろうと奮闘するバスチアンが、『ドラえもん』【Amazon】に出てくるのび太に思えて仕方がなかった。本来はでぶでエックス脚で自己肯定感の低い陰キャなのに、ファンタージエン国に来てからは救世主と崇められ、調子に乗って良いことも悪いこともしてしまう。この世界ではバスチアンはほとんど神のような力を持っていて、自分が英雄になるための困難が自作自演で現れるという次第。こういう現実逃避って読書の究極の形で、だからこそ危うい面もあるのだけど、本作でもそこはきっちりと代償が出てくるから油断ならない。しかも、その代償がとても重要な役割を担っていて、物語に深みを与えている。この構造には感心した。

本作のように本をギミックに使った話は、本好きの琴線に触れるところがあって好ましい。文庫よりもハードカバーで読んだほうがより臨場感が味わえるだろう。本作は今まで読んできたファンタジーとは格が違っていて衝撃的だった。

ミシェル・ウエルベック『ランサローテ島』(2000)

★★★

フランス人の「私」がアフリカ沿岸沖のランサローテ島へ旅行に行く。そこは火山のある荒涼とした島だった。「私」は現地でベルギー人の男、ドイツ人のレズビアンカップルと知り合う。

「苦手なのは、アラブの国じゃなくてイスラムの国なんです」と私は言った。「アラブの国で、イスラムではないところはありますか?」これはクイズ番組の難問に使えそうだった。(p.5)

写真集+短編小説という構成。

まあ、観光小説には違いないのだけど、セックスと新興宗教に焦点が当たっているところが著者らしいかもしれない。「私」とレズビアンカップルは初対面なのに3Pに及んでいて、ヨーロッパ人はこんなに開放的なのかと驚いた。

新興宗教もその教義がなかなか興味深い。名前はラエリアン・ムーブメントと言って、人類とその他の生命を作ったのは異星人のエロヒムだとか何とか。しかも、遺伝子工学に基いて作ったという。最初読んだときは著者の創作かと思ったけど、どうやら実在する組織らしく、日本語の公式サイトまで存在する。

あとは作品全体を覆う物事への率直な見方が面白くて、政治的な正しさに配慮しないところが気持ち良かった。これが日本だったら確実に叩かれている。

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』(2006)

★★★★★

1960年代のナイジェリア。(1) イボ人の少年ウグウが、同じイボ人の大学講師オデニボのハウスキーパーになる。(2) 裕福なイボ人のオランナが、恋人であるオデニボと一緒に生活するようになる。(3) イギリスから来た白人のリチャードが、オランナの双子の姉に恋をする。やがてナイジェリアで軍事クーデターが勃発、迫害されたイボ人は東部で独立を宣言し、戦争への道を歩むのだった。

「わたしがナイジェリア人であるのは、白人がナイジェリアという国を創立して、そのアイデンティティをあたえられたからだ。わたしが黒人であるのは、白人が、彼らの白人とあたうるかぎり異なるものとしての黒人を構築したからだ。しかし、わたしは白人がやってくる前からイボ人だった」(p.28)

ビアフラ戦争を題材にした小説。参考文献にフレデリック・フォーサイス『ビアフラ物語』【Amazon】が挙がっている。

物語は60年代前半と60年代後半に分けられていて、前者では平和なときの平穏な生活が、後者では戦時中の不穏な生活が語られる。個人的に興味深かったのは、ナイジェリアの階級格差だった。オデニボたち中産階級が、冷蔵庫やガスコンロ、レコードなどを所持するソフィスティケートされた生活を送っているのに対し、ウグウたち庶民には、迷信や呪術師を信じる前近代的な習慣が根づいている。オデニボは仲間たちとよく国の行く末について論じあっていて、教育水準は西洋のインテリ並に高そう。個人的にアフリカは土人のイメージが強かったので、本作に出てくるインテリたちに物珍しさをおぼえたのだった。

でも、そういうのが際立つのはあくまで平和なとき。戦争になると、インテリも庶民も一様に生活が不安定なものになってしまう。食べ物の調達に苦労するのは当然として、男たちは兵士に無理やり拉致されて徴兵されるわ、女たちはレイプされまくるわ、知り合いがどんどん死んでいくわ……。本作はナイジェリアのビアフラ戦争を題材にしていて、その国ならではの特殊性が目立つけれど、市井の生活に関しては普遍的で胸に迫るものがあった。平和なときとそうでないときのギャップがすごい。

それにしても、欧米列強の植民地支配による負の遺産は大きいのだなあ、と本作を読んで改めて思った。中東やアフリカは列強によって好き勝手に国境線を引かれたから、いざ独立しても民族対立や宗教対立といった火種が絶えない。本作のビアフラ戦争もそのモデルケースのひとつで、この理不尽な争いには何とも言えないやるせなさを感じる。

本作は題材の珍しさ以前に、人間関係が丁寧に描かれた一級の文芸作品なので、たとえば新潮クレスト・ブックスが好きな人にお勧めである。

閻連科『年月日』(1997)

★★★★

日照り続きの農村。村人たちがこぞって村を離れるなか、72歳の先じいだけが盲犬と共に村に残った。理由は、畑にトウモロコシが一本顔を出していたからである。食糧も水も乏しいなか、先じいはトウモロコシを育てるサバイバル生活を営む。

先じいはうっすらと赤みがかったトウモロコシの頭を見やり、あと何日で穂を出したあと何日で実がつくか数えてみようとした。すると突然、もう何日も今日がいつかなどと考えていなかったことに気がついた。今が何月何日かも覚えていなかった。先じいは、昼、夜、朝、黄昏、月の入り、日の出の時間以外、日付などはすべて失っていたのだ。(p.57)

単行本で読んだ。引用もそこから。

読み始めはこのシチュエーションで面白くなるのか疑問に思っていた。しかし、読んでいくと先じいのたくましさや、トウモロコシのために体を張る様子などが光っている。これがなかなか面白かった。生きるか死ぬかの極限状態に置かれているのに、あまりじめじめしていないところがいい。ネズミとの格闘があったり、オオカミとの対峙があったり、さらには種(食べ物にする)を見つけるべく畑を掘り返したり、盲犬と友情を育んだり……。『ロビンソン・クルーソー』【Amazon】とはまったく別次元の乾いた生活には、どこか神話じみたところがあって、サバイバルに全力を尽くす先じいの生き様は、神話時代の英雄を想起させる。

オオカミと遭遇したときに天秤棒を構えて一歩も引かなかったところが格好いい。あと、ネズミの群れとか、オオカミの群れとか、動物が徒党をなす部分に言い知れぬ魅力を感じる。日本に住んでいるとネズミはなかなか見る機会がないので(オオカミもだけど)、その生態を描写しているところが興味深かった。

取るに足らない人民に英雄性が宿り、その生活が神話にまで昇華される。昔は英雄と言ったら身分の高い人間だった。多くは武将だったり軍師だったりした。それが本作では一介の農民にまで下がってきたわけで、現代とは名もなき人間の時代なのだろう。やはり人間社会は少しずつ良くなっている。特に封建制が崩壊し、庶民に自由がもたらされたのが大きい。資本主義も共産主義も欠陥だらけだけど、それでも昔よりは遥かに生きやすいのだから恵まれている。我々は未だかつてない幸福な時代に生まれついているわけで、その幸運を言祝ぎたい。

本作がとても良かったので閻連科はこの先も追っていこうと思う。