海外文学読書録

書評と感想

小津安二郎『風の中の牝雞』(1948/日)

風の中の牝雞

★★★

東京の下町。雨宮時子(田中絹代)は幼い息子と2人で一軒家に間借りしている。夫・修一(佐野周二)はまだ戦争から帰ってこない。時子は着物をすべて売り払うほど困窮していた。ある日、息子が熱を出して入院する。時子は入院費用を工面するのため売春するのだった。その後、修一が復員してくる。

戦後の復興と夫婦の再建を重ねたドラマ。戦争も過ちなら売春も過ちであるが、全部忘れて乗り越えていこう、というのが物語の骨子だ。序盤からたびたび挿入されるのが円柱形の巨大建築物で、これは戦後の復興を象徴している*1。この建築物が夫婦のプロットに合流するところが本作の肝だろう。東京は空襲によって焼け野原になった。一方、夫婦は妻の売春によって信頼関係が壊れた。それでも前を向いてやり直すことができる。やはり小津安二郎の映画はメッセージ性が強い。娯楽映画のツボを押さえている。

現代人が見ると売春をスティグマのように扱っているところに違和感がある。しかし、当時はまだ性が解放されていなかった。欧米において性の革命が起きたのが1960年代である。当然、1940年代の日本はまだまだ保守的だった。売春はいかなる理由があっても罪なのである。面白いのは時子が階段から転げ落ちることで罪が精算されるところで、売春という罪に対してきっちり罰を与えている。現代人としては、そこまでしないと許されないのか、とドン引きした。

また、当時の女性は男性に上手く調教されていたようで、夫に突き飛ばされて階段から転げ落ちた時子が、それでもなお夫に取りすがって謝罪するのだから驚く。ここは普通、夫のほうが謝罪すべきではないか。たかだか夫婦の揉め事で暴力は許されない。むしろ、この暴力が罪の精算になっているところに歪みを感じる。確かに当時は今よりも男尊女卑の時代だった。今と違って女性に人権がなかった。しかし、そういう時代性を考慮したとしてもこの仕打ちは行き過ぎのように思える。小津の保守的な面が剥き出しになっていた。

本作を見て気づいたのは服装が象徴する階層性だ。ブルジョワが着物を着ているのに対し、庶民は洋服を着ている。なぜこういう差があるのかというと、着物は高価だからである。現に困窮した時子は着物をすべて売り払っている。当時の庶民は万事がこうだったはずで、この時代に着物を着ている女性は売らなくても生活が成り立っていたことを意味する。だからブルジョワの象徴になっているのだ。不覚にも本作を見るまで気づかなかった。戦後の日本でわざわざ着物を着ているのはどういうことか、と訝しんでいた。ところが、実はただの顕示的消費なのである*2。ブルジョワの俗物ぶりを目の当たりにして目眩がした。

本作を見ると現代の東京はごちゃごちゃし過ぎだと思う。当時は人も建物も少なく、今よりも殺風景でのどかだった。円柱形の巨大建築物の側には、2階建てのボロい木造住宅が点在している。住環境としてはこれくらいの密度が適切なのかもしれない。今一度東京を焼け野原にする必要があるのではないか。地方創生が叫ばれる昨今、東京への一極集中をどうにかしなければならない。

*1:2024年4月28日追記。『小津安二郎大全』【Amazon】によると、この巨大建築物はガスタンクらしい。

*2:ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』【Amazon】を参照のこと。