海外文学読書録

書評と感想

ヴィム・ヴェンダース『都会のアリス』(1974/独)

都会のアリス(字幕版)

都会のアリス(字幕版)

  • リュディガー・フォーグラー
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★★★★

ドイツ人作家フィリップ・ヴィンター(リュディガー・フォーグラー)が、アメリカの風景をポラロイドカメラで撮って回っている。彼は旅行記の執筆が捗っていなかった。そんなとき、空港で9歳の少女アリス(イェラ・ロットレンダー)と彼女の母親リザ(リザ・クロイツァー)と出会う。フィリップはアリスをアムステルダムに連れていくことになるが……。

冒頭の桟橋のショットからして一味違う。上から下にゆっくり移動して橋の下に座っているフィリップを映す。そこでフィリップはポラロイドカメラで写真を撮る。16mmでもけっこうリッチに見えるのは気のせいだろうか。全体的に映像のセンスが良く、ちゃんとプロが撮って編集したことが分かる。

フィリップは旅行記を求められているが、彼がやっていることはポラロイドカメラで写真を撮ることだった。つまり、アメリカの風景を書くのではなく、アメリカの風景を撮っている。そして、「写真を撮ったとは書くことだ」と言い放つ。彼は本質的に文章の人ではないのだろう。「写真はある種の証拠だ」と思っていて、撮ったことでどこか安心している節がある。ところが、それは自分を失った証拠だった。自分を失うと見るもの聞くものが通り過ぎていく。自分の中に何も残らない。だから証拠として写真を撮る。そのことをフィリップはある女から指摘される。

自分を失っているから証拠を必要とする。それは読んだもの・観たものについて書く僕にも当てはまっている。僕にとって文学や映画は書くための言い訳にすぎないが、敢えてそれらを題材にしているのは書かないと消化した気にならないからだ。書くことでようやく作品を鑑賞した気になれる。そして、気持ちよく忘れることができる。読んだだけでは通り過ぎていくだけだし、観ただけでも同様である。ところが、世間の大多数は違う。彼らは作品を鑑賞しても何も残さない。「ああ、面白かった」と心に思うだけで満足している。彼らは鑑賞した証拠を必要としないのだ。方や強迫観念に取り憑かれて証拠を残す。方や何も残さずに満足する。どちらが健全かは言うまでもない。

本作は大人のフィリップと子供のアリスのロードムービーである。2人は擬似的な親子関係になるが、それでも片務的にはならない。フィリップはアリスのために家探しをする。その際、アリスのわがままや気まぐれに振り回される。一方、アムステルダムにおいてフィリップは言葉が分からないゆえにアリスの通訳に頼る。そして、旅をしていくうちにフィリップは笑顔を見せるようになる。仕事に失敗してマイナスの状態にあったフィリップは、アリスとの交流でプラスに転じたのだ。おそらくアリスよりもフィリップのほうが旅の恩恵は大きいだろう。フィリップは31歳でありながらイノセンスであるが、それが別のイノセンスと出会うことで化学反応が起きている。

アリスは9歳ではあるが子供らしさは抑制されており、時折女の表情を見せている。フィリップも子供に対する接し方ではなく、年若い女に対する接し方をしていた。2人は親子というよりは歳の離れたパートナーに近い。その関係が心地よかった。