海外文学読書録

書評と感想

ルネ・クレマン『太陽がいっぱい』(1960/仏=伊)

★★★★

ローマ。アメリカから貧しい青年トム・リプリーアラン・ドロン)がやってくる。トムは金持ちの息子フィリップ(モーリス・ロネ)に帰国を促すため、フィリップの父から5千ドルで雇われたのだった。ところが、フィリップは帰りたがらない。婚約者のマルジュ(マリー・ラフォレ)とイタリアを楽しんでいる。トムはフィリップが所有するヨットに乗ることに。そこであるいたずらをされる。

原作はパトリシア・ハイスミス太陽がいっぱい』【Amazon】。

原作だとトムは明らかにゲイなのだが、映画だとその辺は曖昧である。にもかかわらず、本作をゲイ映画だと見抜いた淀川長治はすごい。日本で翻訳が出版されたのは1971年である。だから原作を参照してないはず。『失われた時を求めて』【Amazon】で描かれた通り、ゲイはゲイを見抜くということだろう。淀川長治の慧眼には恐れ入った。

海は限りなく青く、町並みは異国情緒が溢れている。イタリアの風光明媚な景色が最高で、これを前にしたら犯罪劇なんてどうでもいいと思わせる。とにかく映像の質感がいいい。この時代でしか出せない味わいである。最新の映像技術を駆使してもまず再現できないだろう。それくらい時代と密着した映像で、60年代のイタリアをフィルムに刻みつけている。ロケーションの勝利をまざまざと見せつけた。

トムがフィリップを殺害する前のやりとりがいい。フィリップからしたら本当に殺すとは思わなかっただろう。トムの平然とした態度。口から出てくる荒唐無稽な計画。そして、実際に行動に移す大胆さ。この流れは見事である。

しかし、その後は隠蔽工作に終始していてどうにもつまらない。サインの練習をし、パスポートの偽造をする。手紙をタイプライターで打って自分に嫌疑かがからないようにする。第二の殺人も苦労して死体を外に遺棄した。これをフィリップの仕業に見せかけよう。こういった手続きがサスペンスを生んでいるわけだが、僕にとってはひたすら退屈で、こういうのに飽き飽きしたからミステリから離れたのだった。

序盤でトムがフィリップの服を着て鏡に向かって語りかける。トムは金持ちのフィリップに取って代わりたかった。同一化したいというよりは、フィリップの地位を簒奪したいというのが正確なところだろう。トムは貧乏だが自分のことを頭が切れると思っている。自分なら簒奪することも可能だ。トムはフィリップを殺害し、恋人マルジュも寝取った。彼の地位を簒奪した。これはつまり、王になろうとした男下剋上物語である。

事を成し遂げたと確信したトムは、「太陽がいっぱいだ」「最高の気分だ」と晴れやかに言う。しかし、彼はフィリップのいたずらにより、洋上で太陽に肌を灼かれて死にそうになったことがあった。この瞬間のトムはそれを忘れている。太陽は明るい未来の象徴であるが、同時に強すぎる光は身の破滅を招く。幸福の絶頂にあるトムを嘲笑うかのようなラストは皮肉が効いていて良かった。