海外文学読書録

書評と感想

ジェーン・カンピオン『ピアノ・レッスン』(1993/豪=ニュージーランド=仏)

ピアノ・レッスン (字幕版)

★★★★★

19世紀半ば。話すことのできないエイダ(ホリー・ハンター)が、娘フローラ(アンナ・パキン)と一台のピアノと共にスコットランドからニュージーランドへ。入植者のスチュワート(サム・ニール)と結婚する。エイダのピアノは重すぎるということで浜辺に置き去りにされた。マオリ族に同化しているベインズ(ハーヴェイ・カイテル)が、自分の土地と引き換えにピアノを手に入れる。ベインズがエイダからピアノのレッスンを受けることに。やがて2人は不倫関係になる。

これはすごかった。ただのメロドラマなのに重厚な作品に見えてしまうのは、映像の質が桁違いにいいからで、美術・色彩設計・その他絵作りで他の追随を許さない。芸術とはこういうものかと圧倒された。映画には道徳も政治的な正しさもいらない。ただひとつ美的センスさえあればいいのである。

ピアノはエイダの分身みたいなもので、最初にスチュワートがピアノを置き去りにした時点ですべてが決定づけられた。それはエイダを置き去りにするのと同義である。また、ベインズにピアノを譲渡したのも、彼にエイダを譲渡したのと同義である。本作はピアノを軸にして考えると分かりやすい。ベインズがエイダにピアノのレッスンを依頼したのは、ピアノの習熟を通してエイダのことを知りたかったからだろう。彼が全裸になってピアノを拭くシーンがある。この時点で後の肉体関係は必然だった。そして、ピアノをスチュワートに返却するのはエイダを彼に返すことと同義であり、スチュワートがピアノに斧で傷をつけるのはエイダに傷をつけることと同義である。

また、ピアノはデリケートで定期的な調律が必要である。そういう意味で女性を象徴するような楽器だ。同時にピアノは西洋文明の象徴でもある。本作は非文明的な集落に西洋文明の象徴であるピアノを持ち込んだところが面白い。マウリ族に同化したベインズがエイダに惹かれたのも、彼女が象徴する西洋文明に惹かれたからだろう。後に2人は島を離れてどこかの町へ移住する。それは西洋への回帰なのである。

スチュワートが書面のやりとりだけでエイダとの結婚を決意したのが謎だ。エイダは喋れないし娘もいる。婚活相手としてはなるべく避けたい物件である。たぶん西洋の若い女だったら誰でも良かったのだろう。そんな彼がエイダから拒絶されたとき、「幸せになりたかった」と悲しむ。確かに不倫されたことには同情するが、そもそも結婚の動機が不純である。おまけに彼は最初、ピアノ(=エイダの分身)を浜辺に置き去りにしていた。まったく落ち度のない純粋な被害者とは言えない。スチュワートの破滅はある意味自業自得である。

本作で展開された反道徳的・反PC的な物語は、ポリコレ疲れの現代人にとって良薬となるに違いない。夫と娘を蔑ろにして不倫する。実に反道徳的である。土人の島から脱出して西洋に回帰する。実に反PC的である。映画には道徳も政治的な正しさもいらない。ただひとつ美的センスさえあればいい。そのことを実作で分からせたところにすごみがある。