海外文学読書録

書評と感想

ジョゼフ・コンラッド『シークレット・エージェント』(1907)

★★★★

ロンドン。ミスター・ヴァーロックは妻ウィニーのほか、義母と義弟を家に引き取っており、一家でいかがわしい物を売る雑貨店を経営している。ところが、ミスター・ヴァーロックの正体はアナキストであり、11年間、外国大使館に秘密工作員として協力していた。ミスター・ヴァーロックは参事官のミスター・ヴラディミルからグリニッジ天文台の爆破を命じられるが……。

公園の柵を通して街の富裕と贅沢を満足げに眺める。この人たちはみな護らなければならない。保護されることによってはじめて富裕と贅沢が可能となるのだ。かれらは護らねばならない。かれらの馬も馬車も家も召使いも護らねばならない。かれらの富の源はロンドンの中心で、そしてイギリスの中心で護らねばならない。かれらが健康的な怠惰を満喫するのに都合のいい社会秩序は、不健康な暮らしを送る労働者たちの浅はかな羨望から護らねばならない。そうせねばならないのだ。(Kindleの位置No.222-227)

二重スパイを題材にした小説。印象としてはグレアム・グリーンの先駆けのようだった。グレート・ゲームを扱った『キム』【Amazon】よりもよっぽど近いのではなかろうか。本作はミステリのような構造を取りながらも内容は骨太で、全体を強烈なアイロニーで貫いている。テロリズムを家庭の問題に収斂させたところにすごみを感じた。

ミスター・ヴァーロックの立場が一筋縄ではいかなくて、彼は体制側に協力しつつも根っこは革命的プロレタリアートだった。だからアナキスト仲間を警察に密告する一方、内心では社会的地位の高い人間に対して敵意を抱いている。ミスター・ヴァーロックの意識は二つに引き裂かれていた。今回の事件はそんな状況が生んだ悲劇で、外国人からグリニッジ天文台の爆破計画を持ちかけられた際、手を抜いて中途半端なことをしてしまう。そして、そのせいで妻ウィニーとの軋轢が生まれ、一家は取り返しのつかない結末を迎える。つまり、鈍い決断をしたことで悲劇の玉突き現象が起きたのだ。テロという政治的な問題を家庭の問題に集約させる。黒幕は無傷のまま、ただヴァーロック家だけが破滅する。このように社会的な活動が個人に跳ね返ってくる様が痛烈だった。

テロの対象をグリニッジ天文台に設定しているところが面白い。なぜそこが選ばれたのかというと、文明の象徴であり科学の象徴であるからだ。アメリカ同時多発テロ事件ではワールドトレードセンターが標的にされたけれど、思えばここも象徴的な意味合いが強かった。テロリストの行動原理は100年経っても変わらない。彼らは昔から世間へのアピールを考えている。この辺、テロも政治活動の一環なのだと感心する。

絞首刑を恐れたウィニーがヒステリーを起こす終盤が圧巻で、彼女が夫の同志を巻き込んでいくところは迫力があった。同志にしてみればとんだとばっちりである。ああやって死にものぐるいで抱きつかれたら引き剥がすのに苦労するわけで、同志がどうやって危機を切り抜けるのかひやひやしながら読んだ。率直に言ってヒステリーはきつい。なぜなら自己完結しないから。他人に害を与える行為はすべて厄介である。