海外文学読書録

書評と感想

E・M・フォースター『インドへの道』(1924)

★★★

インドの町チャンドラポア。イスラム教徒のインド人アジズは、医師としてイギリス人大佐の元で働いていた。大佐はインド人を見下してアジズを冷たくあしらっている。一方、官立大学の学長フィールディングやインドに来たばかりのミス・クウェステッドはアジズにやさしかった。やがてアジズは彼らと洞窟へ遠足に行くも、そこで逮捕されてしまう。

クラブからの帰りに回教寺院(モスク)のそばを通ったとき、フィールディングはこう思った――「これはよくない。砂上の楼閣だ。この国が近代化すればするほど、崩潰は激しいものになるだろう。残虐と不正が荒れ狂ったあの十八世紀においては、目に見えないある力が、その残虐と不正が生みだした惨害の跡を修理した。ところが今ではあらゆるものが反響(エコー)を呼び起す。そしてわれわれはその反響を止める手段を持たない。最初の音は無害であるかもしれないが、その反響はつねに有害である」(pp.452-3)

ちくま文庫で呼んだ。引用もそこから。

植民地時代のインドにおいて、イギリス人とインド人の友情は可能かどうかを模索した小説。イギリス人とインド人は支配者と被支配者、キリスト教*1イスラム教徒*2、白人と黒人*3という3つの対立軸があるのだけど、フィールディングとアジズはそれらを乗り越えて友情の可能性を示している。この時代、インド人と対等に話すイギリス人は変わり者とされているうえ、両者の間で問題が起きたときにインド人の味方をすると、イギリス人仲間からバッシングされるくらい断絶がある。また、一口にインド人と言っても、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒シーク教徒、パーシー教徒、ジャイナ教徒などと多様ではあるが、少なくともアジズのように教育を受けた層となら友情を結ぶことは可能のようである。一方のアジズは、自分が最上のイギリス人と目していたミス・クウェステッドとは大きな齟齬が生じてしまうものの、総じてフィールディングとは上手くいっているので、まずは支配者が被支配者に歩み寄ることが何より重要なのだろう。実のところ、フィールディングはあまりに理想的というか、こんなイギリス人本当にいるのかよとは思った。けれども、戦間期に彼のような人物を主軸に据えたところが本作のすごいところで、終盤でアジズがナショナリズムに目覚めてインド独立を訴える場面と合わせて考えると、作者には先見の明があると言えそうである。ポストコロニアルを経た現代人が読んでも違和感なく読めるところは褒めるべきかもしれない。

それにしても、アジズが巻き込まれる冤罪事件のくだりを読んで、日本の男性読者は痴漢冤罪を連想してぞっとしたのではなかろうか。確たる証拠がなくても、被害者の証言だけで逮捕されて裁判にまで持っていかれる。「この人痴漢です」のひとことで、破滅のエスカレーターに乗せられてしまう。幸い本作のアジズは女が告発を取り下げて事なきを得たものの、現代の日本の司法では高確率で有罪にされてしまうので、世の中にある根本的な理不尽はまったく解消されていないのだった。

*1:ただし、フィールディングは無神論者。

*2:アジズの場合。

*3:正確には黄色人のはずだが、本文には黒人とある。