海外文学読書録

書評と感想

フィリップ・ロス『乳房になった男』(1972)

★★★

38歳の文学教授デイヴィッド・ケペシュは、体に些細な症状が出た後、全身が女性の乳房になってしまう。彼は目が見えず、物が食べられず、匂いを嗅ぐことができない。入院して静脈注射で栄養を摂り、チューブで排泄することに。ケペシュは全身性感帯になっていた。

そこでぼくが《究極的願望》を申し出たのはクレアにではなくて、ぼくの係りの看護婦にたいしてであった。僕は言った。「あなたがそんなふうにぼくを洗っているとき、ぼくがどういうことを考えているか分りますか? ぼくがいま考えていることを、あなたに言っていいでしょうか?」

「どういうことなんです? ミスター・ケペシュ」

「ぼくはこの乳首であなたをファックしたいんです、ミス・クラーク」

「おっしゃることが聞こえません、ミスター・ケペシュ」

「ぼくはいまとても興奮しているんです。あなたをファックしたいんです。あなたにぼくの乳首のうえに坐ってもらいたいんです――あなたのあそこに入れてもらいたいんです!」(p.58)

これは何とも奇妙なシチュエーションだった。作中で『変身』【Amazon】や『鼻』【Amazon】、『ガリヴァー旅行記』【Amazon】などに言及しているので、それらを踏まえた新たな変身譚と言えそう。ただ、本作が特異なのは、乳房になった男が病院でケアされ、社会的に保護されているところだろう。衣食住は保障されているし、恋人との関係も悪くなっていない。デイヴィッドは乳房になった全身を看護婦に洗ってもらい、その後はご丁寧にもオイルを刷り込んでもらっている。まったく、甲虫に変身したグレゴール・ザムザの苦労は何だったのか。至れり尽くせりではないか。ともあれ、面白いのはこのオイルマッサージで、デイヴィッドは乳首をマッサージされることで絶大な性的快感を覚えている。そして、快感に抗しきれないデイヴィッドは、看護婦に上の引用のような《究極的願望》を告白している。これを読んで僕はナースもののAVを思い出した。おそらく70年代のアメリカにそんなAVは存在しないはずなので(あるとすればポルノ映画か)、本作は現代人の欲望を先取りした画期的な作品と言えるかもしれない。欲情の文化史を研究するうえでの貴重なサンプルではなかろうか。

とまあ、何ともぶっ飛んだ内容の本作だけど、話はここでは終わらず、後半では性的快感を克服して新たなステージに突入している。それがどういう内容なのかは措くとして、本作は変身譚の一つのバリエーションとして興味深い。なので、カフカの『変身』が好きな人は読み比べてみるといいだろう。長さも中編程度だからすぐに読み終わる。僕は70年代のアメリカにこんな小説があったのかと驚いたのだった。